12
すると、廊下を歩いてきたヨハネスが三人に気付いて足を止める。
「おはようございます」
「おはよう、先生。何事?何かあった?」
「ええ、ここに収容されている妊婦さんが苦しみだしたそうで……」
「え、もしかして生まれる?」
「生まれませんよ、まだ六ヶ月なんですから」
目を輝かせる柚に、ヨハネスが苦笑を浮かべた。
少し残念そうにした柚は、行き交う人の流れを見ながら目を細める。
「でも、大丈夫なの?つわりってやつ?ヨハネス先生はここにいていいの?」
「つわりとは違うようです。お腹の中で胎児が暴れているんですよ。私の治癒では役に立てませんでした」
「胎児が暴れる?……そんなことがあるんだ」
柚は眉を顰めた。
「私達のように、自然に生まれる使徒の母体には見られない現象だと聞いています。母体への負担が相当大きいようです」
ヨハネスは溜め息を漏らす。
すると、廊下にヒールの音が響き、マルタが柚を見付けると声をあげた。
驚く柚の手を掴み、マルタが足早に歩き出す。
「何してるの、早くいらっしゃい!」
「え、え……?」
「いずれあなたも経験することよ!見ておきなさい」
「え゛!?」
柚は顔を引き攣らせた。
「あなた達もよ!子供を産むってことがどれだけ大変なことか、男は全然分かってないのよ。その目にしっかり焼き付けるのね!」
雷の如き声音で、マルタは呆然としている焔達を指す。
連れて行かれる柚達を見送り、ヨハネスは溜め息を漏らした。
マルタに連れて来られたのは、隔離された部屋だ。
厳重なセキュリティーで内側から閉ざされた扉、さらにはジャンの結界が張られている。
防音のドアが開け放たれた瞬間、女の苦しそうな悲鳴に一同は肩を震わせた。
アンジェが青褪め、ライラの背にしがみつく。
マルタが振り返り、ガラスの壁に覆われた一室を指差した。
「あれが、今新しい使徒の命を抱えている母体、リリーよ」
狭いベッドの上で、女は苦しそうに呻き、声を張り上げる。
握り締めたシーツがあまりの力に引き裂かれた。
その瞬間、彼女の中から溢れた衝撃波のようなものを、柚と焔の目が捉える。
その衝撃は凄まじく、強化ガラスにヒビが入り、亀裂が走った。
研究員達がガラスから離れ、どよめきの声をあげる。
「助けて、殺される!私のお腹の中で化け物が育ってるのよ!」
女は割れたガラスに貼り付き、助けを求めてガラスを何度も叩いた。
その手に赤い血が滲む。
アンジェとライラの顔が真っ青に染まっていた。
「僕達のお母さんも……あんな風に苦しんだのかな」
アンジェは自分の体を抱き締める。
自分達の命を、化け物という母体
母体を慕う新たな命
普段は気丈なライラでさえ、怯えたように柚の手を掴む。
「なんとかしてあげられないの?」
「そうだな……」
柚は閉じ込められた一室で苦しむ女を見て、悲しそうに目を細めた。
「何も出来ないけれど、目を逸らさずに見ていよう」
柚はアンジェとライラの肩に触れる。
二人の肩の強張りが、掌を通して伝わってきた。
「命って簡単には生まれない。何ヶ月も母親の体の中で成長して、やっと生まれてくるんだもんな」
ただ無言で壁の向こうを見詰める焔が、僅かに唇を噛む。
「ねえ、二人は、生まれた赤ちゃんを見て母親が一番最初に掛ける言葉の中で、一番多い言葉を知ってる?」
アンジェとライラは静かに首を横に振った。
そもそも、彼等は母親のぬくもりすら知らない。
柚はアンジェとライラの肩に手を置き、そこにある命を確かめるように、後ろから抱きしめた。
彼等が知らない、"母"という存在の代わりには遠く及ばない。
それでも、彼等が生れてきた事を後悔しないように……
生れてくる子供が、同じ道を辿らないように……
「生れてきてくれて有難う、なんだって」
その言葉を聴いて、アンジェとライラが顔を見合わせる。
その視線が苦しむ女性へと向けられた。
腹の中に、命が宿っている。
自分達の兄弟とも言うべき、仲間の命だ。
彼女は、その命を生むために苦しんでいる過程にいる。
「人も使徒も、簡単には生まれてこないのに……」
柚は呟くように漏らす。
「私達は軍人だから、いつかこうやって生まれてきた人の命を奪わなければならない時がくるかもしれないんだよな」
アンジェとライラが振り返り、柚の顔を見上げた。
焔が、手にする刀を握り締める。
「私達は使徒だから、簡単に人を殺せるような力を持っているし、それを許されてる。けどだからこそ、その時、相手が誰であろうと、その命の重みを絶対に忘れちゃいけないんだよな」
言葉を、アンジェとライラは静かに受け止めた。
それはまるで、乾いた砂漠に水を与えるように、幼い心に吸い込まれていく。
苦しそうな女を見守るアンジェとライラもまた、苦しそうに見守っていた。
隔離された別棟を離れると、ヨハネスが四人を出迎えた。
顔色がすぐれない四人を見て、ヨハネスは苦笑を浮かべる。
「始めて見る人には衝撃でしょう」
「慣れるものなのか……」
遊戯室のソファーに座り、柚は膝を抱え込んだ。
「マルタ支部長の話しでは、人工的な妊娠でもあんな風に苦しまない、普通の出産と変わらない人もいるんだって……」
そんな柚を、焔が無言で見下ろす。
特に答えを求めるでもなく、膝の上で頬杖を付いたまま、柚は心此処にあらずな様子で再び口を開いた。
「私もあんな風に苦しむんだろうか」
「……さぁな」
焔は、思った以上に自分の返事が素っ気なくなり、ばつの悪さを覚える。
案の定、柚が「人事だと思って!」と口を尖らせた。
その顔が、すぐに不安そうな面持ちになる。
「なんだか、怖くなった」
聞き逃してしまいそうな声で、柚はぼそりと本音を漏らした。
ヨハネスは柚を一瞥し、焔にコーヒーカップを手渡す。
それを受け取りながら、焔は意外そうに柚を見下ろした。
(まぁ、あんな凄まじいの見せられたらな……)
コーヒーを喉に流し込みながら、焔は心の中で呟く。
妹は難産で、その時でさえ母が死んでしまうのではないかと心配していたのだが、リリーの苦しみようは、出産前だというのに出産時と比べものにならない苦しみようだ。
あんな状態が続き、いざ出産となったらどうなるのか……。
まるでホラー映画を見せられたかのような気分だ。
申し訳ないが、あんなものを見せられるのは二度とごめんだ。
金や地位の為に体を差し出している女に同情こそ湧かないものの、さすがに女が苦しむ姿を好き好んで見る趣味はない。
通常の夫婦間に誕生した使徒は、大抵安産だという。
だが、研究所で生まれた使徒の出産は、決まって難産だ。
一部例外もあるが、大抵は母体が限界を迎えたり精神に異常をきたし、予定日より前に帝王切開で取り出す。
「なんで、普通の出産と変わらない人がいるのに、ああいう風に苦しむ人がいるんだろう」
呟いた柚に、ヨハネスが淹れたてのコーヒーを差し出した。
「私が思うに、分かるのではないでしょうか」
「え?」と、柚が顔をあげる。
ヨハネスは悲しそうな面持ちで、自分の分のコーヒーをカップに注いだ。
「母親の怯えや不安が伝わって、胎児も不安になる。だからああやって、母親を守ろうとして暴れているんじゃないでしょうか」
柚はカップに視線を落とした。
掌の中で、コーヒーが波紋を描く。
ヨハネスは眼鏡を押し上げ、寄り添いながら鶴を折っているアンジェとライラを見た。
ニエはウラノスと一度も目を合わせようとせず、黙々と鶴を折っている。
ウラノスは、鶴を折りながらもちらちらとニエを盗み見ていた。
仲直りをしたいが、きっかけを見付けられないでいる。
「個人差はありますが、三歳までの子供は母親のお腹の中に居た時の記憶があるそうです」
「あ、聞いた事ある。ママは去年知って悔しがってた」
「はは、それじゃあさすがに忘れちゃってますよね」
ヨハネスが苦笑を浮かべた。
そして、穏やかに笑みを浮かべる。
「だから、柚君も……自分の納得のいく相手を見付けてくださいね」
「……ぅ、うん」
柚は照れたように俯き、頷いた。
その時、マルタが遊戯室のドアをノックする。
マルタは柚と焔を廊下に呼び寄せた。
「近くの村でね、火災が発生してるのよ」
「はぁ」
「そこで柚。あなた、行きなさい」
「へ?」
柚は目を瞬かせる。
「え、でも……ガルーダ尉官の許可は?行ってもいいの?」
今回の指揮官はガルーダで、ガルーダの許可なく勝手な事はするなと念を押されていた。
周囲は、あまり柚が任務に付くことを良しとしない。
それで揉めたのはつい先日だ。
「いつもいつも焔ばっかりで、なんで私には何をやらせてくれないんだ!支部に私も行きたい!」
と、怒り出した柚を、アスラは淡々とした口調で一蹴した。
「当然だ。焔の代わりはいても、お前の代わりはいない。支部の移転護衛は危険が伴う、お前を行かせられるわけがない」
そこで、柚は黙って話しを聞いていたイカロスに「なんとかしてくれ」と念を送ってみた。
同時にアスラも、「これを宥めろ」とイカロスに無言で訴えている。
板ばさみにされたイカロスは、「仕方がないな」とため息を漏らし、アスラの肩を叩いた。
「アスラ、考えてごらん?支部には子供がいるんだよ」
「それがなんだ」
アスラが眉を顰めた。
その時、イカロスの顔に打算的な笑みが浮かぶ。
「柚ちゃんは双子をしょっちゅう可愛がっているじゃないか?双子よりも小さくて可愛い子供達を見たら、柚ちゃんは自分も"君の子供が"欲しいって言いだすかもしれないよ」
アスラが僅かに目を見開いた。
さわやかに微笑んでいるイカロスの顔には、「ああもう、いい加減こいつ等面倒臭い」と書いてある。
「……柚、行ってこい」
アスラの下心が見えた瞬間だった。
二度とイカロスに頼み事はするものかと心に誓い、任務に旅立ったのだ。
マルタは、思い出しただけでもげんなりとしている柚の手を掴み、嬉々として身を乗り出す。
「ガルーダも玉裁もいない、今がチャンスよ。たいした手柄にはならないけれど、女でも役に立つことを見せ付けてきなさい!」
「は、はぁ……」
マルタの迫力に蹴落とされるように、柚は曖昧に頷き返した。
防寒着と共に強制的にヘリコプターに押し込められ、一般兵と共に現地へと向かう。
上空から見下ろす山は真っ白だ。
同行する焔は、いささか不機嫌な様子だった。
柚も、ガルーダの許可がないので躊躇いはあったが、役に立てるならば願ってもない。
山と山が折り重なっている山脈を越えると、ふもとに僅かに人工的な色合いの建物が見え始めた。
「あれ?燃えてない」
「いや、煙は出てる。もう鎮火されたんじゃねぇの?だったらあのオバサンには悪いが無駄足だな」
身を乗り出した焔が他人事のように呟く。
ヘリコプターを付近に着地させると操縦士と同行した数名の一般兵士を残し、キースの案内を受けて村に向かった。
村に近付くにつれ、焦げた臭いが鼻腔を突く。
集落の入り口で、柚と焔は足を止めた。
「やっぱり、もう火が消えてますね。そうなると、自分達に出来るのは救助のお手伝いですかね」
キースが村を仰ぎ見て呟く。
集落の外から中を覗き込んだ柚は、いぶかしみながら呟きを漏らした。
「何でこんな短時間に建物のほとんどが全焼しているんだ……?しかもこれだけの火事で、なんで村人の姿が一人もない」
焔が柚に振り返り、眉を顰める。
途端に、キースの顔に不安の色が浮かび上がった。
柚の言う通り、村の人々が逃げた様子もない。
逃げる間もなく村を全焼させることが出来るものは……
キースが青褪め、唇を引き結んだ焔は柚に振り返った。
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