10


車椅子の車輪が小さな軋みの音を立て、ジャンがゆっくりと近付いてくる。

ルナは瞼を起こしたが、ジャンだと気付くと再び瞼を閉ざしてしまう。
何が気に入られたのか知らないが、どうも愛想を振りまく相手を間違えている気がしなくもない。

だがジャンはそんなルナの態度に慣れているのか、全く気にも掛けずに柚に声を掛ける。

「まだ寝ないのかい?」
「ちょっと考え事をしてて……子供の相手って難しいなぁ。ニエとウラノスを喧嘩させちゃったんだ、どうすれば仲直りしてくれるかな」
「ああ、あの二人の喧嘩なんていつものことだよ」

ジャンは苦笑を浮かべた。

「どうせ原因は些細なことなんだろう?そこまで気に病むことはないよ」
「そうならいいんだけど」

柚は手元の鶴に視線を落とす。

落とした視線の先に、ジャンの足が映った。
暴走したハーデスを止めようとした結果、二度と歩行が困難な傷を負ったと聞いている。

彼はハーデスを許したのだろうか?
ハーデスは、ジャンをどう思っているのだろうか?

気にはなるが、二人の問題に踏み出す勇気はない。

「ジャンは、あの子達の扱いが上手いな」
「悪い大人の見本だよ」

ジャンは苦笑を浮かべた。

「実は見ていたんだ、図書室での喧嘩を」
「えー、意地悪!助けてくれればよかったのに」
「はは、そうだね。けれど、あの子達の言葉を真剣に聞いている君を見て、私は自分がとことん嫌になったよ」

柚が不思議そうにジャンを見上げる。
その顔には、イカロスに似た穏やかな笑みが浮かんでいた。

「いつも訓練を嫌がるあの子達を嘘で宥めて、まだ遊びたい盛りの彼等に使徒としての意識を植え付けている。残酷な大人だ」

ジャンの疲れた顔に貼り付けられた笑みが、悲しいほどに胸を締め付ける。

生まれては死んでいく子供達。
狂っていく母体候補達の叫び。
子供達の命を物のように利用する大人達。

閉鎖された空間で、毎日そんな人々を見ていれば、自分までもが狂わされていく。

「けれど、あの子達にとって親こそが生きる希望なんだよ。仕方がないんだ……いずれあの子達に恨まれることになろうと、あの子達の価値を創りあげてやらなければ処分されてしまう。もう何人も、そういう子供達を見てきた」

何故、自分にそんな話をするのだろう。

ジャンは微かに震える指先で、目頭を押さえた。
その姿はまるで、懺悔をしているかのようだ。

柚は顔を曇らせた。

「……ジャンの言う通りだ。仕方がないって言葉はあんまり好きじゃないけど、仕方がないんだろうな」

柚は静かに呟く。

利用できる習性があるならば、利用すべきなのだろう。
それが、彼等の為になるのだから……。

柚は、勉強があまり好きではなかった。
どちらかというと、体を動かすことのほうが楽しい。

だが、テストで悪い点をとれば両親をガッカリさせてしまうかもしれないと思い、常に手を抜かずに頑張ってきた。
今となっては、褒めてくれる両親もいないので、あまり勉強に身が入らないのだが……。

あの子達も、思うことは一緒だろう。

いつか母に、「よく頑張った」と褒められたい。
いつか父と同じ場所で肩を並べたい。

希望が、幼い子供達を突き動かしている。

使徒はいつだって、愛情を求める生き物だ。
家族愛と言えば聞こえがいいが、それが本能だと言われると、この気持ちが幻想のようで少し虚しさを感じる。

ジャンは涙が枯れ果てたような乾いた瞳をして、呟くように告げた。

「あの子達には、なんとしても生きて欲しい……」
「……私も、そう思う」

柚は静かに頷き返す。
ジャンの疲れた寂しげな瞳が、柚の掌の上の鶴を見詰めていた。

「その為ならば、私はどんな嘘を付いても心は痛まない」

ジャンの細く長い指が、膝の上で絡まる。

ルナが瞼を起こし、再び瞼を閉ざした。
柚はルナの毛並みを撫でながら、視線を落とす。

「君は、私を軽蔑するかい?」

ゆっくりと、柚はジャンの瞳を見詰め返した。

縋り付くように、許しを求めるように、見詰めてくる瞳
いっそ、彼のほうが哀れでならない。

柚は手持ち無沙汰に、折り掛けの鶴を再び折り始めた。

「嘘は嘘でも、ジャンの嘘は優しい嘘だ」
「優しい、嘘?」

ジャンが驚いたように柚を見上げ、繰り返す。

少しでも、彼の心が癒されるよう……
鶴に新たな願いを乗せる。

柚は微笑みを浮かべ、頷き返した。
すると、ジャンはくすくすと笑みを漏らす。

「そうか、優しい嘘か」

一人くすくすと穏やかに微笑みながら、その言葉を噛み締めるように繰り返すジャン
顔をあげ、柚の掌に乗る鶴を見やる眼差しが、今度は何処か温かさを秘めているように感じてくる。

「有難う、柚」

呟きは、吸い込まれるように消えていく。
たった一言の「有難う」が、柚の中にいつまでも響いていた。

「ジャンは、見回りか何か?」
「いや、結界を張り直しにきたんだ」
「へぇ、見ていてもいい?」
「いいよ」
「そういえば気になってたんだけど、ジャンは声を媒体にしているんだな」
「よく気付いたね」

ジャンは穏やかに微笑んだ。

使徒は力を使用する際、一点に意識を集中させる。
最も多いのは、手や武器を媒体にすることだ。

ジャンはゆっくりと瞼を閉ざす。
全ての音がしゃぼんのように消えていく気がした。

柚はその静寂に圧倒されるように、内なるざわめきを感じ始める。

瞼を起こしながら、ジャンは緩慢な動きでドームの天井を仰ぎ見た。
開かれた唇から、澄んだ音が溢れ出す。

音は一瞬で、彼は確かに歌っているが、声が聞こえてこない。

溢れ出した音が空へと上り、結界に吸い込まれる。
それは施設を包み込み、次第に巨大な結界の一部へと姿を変えていった。

「うわぁ……きらきらしてる!」
「張ったばかりは最も力が強いからね。私もこの光景が好きなんだ。けれど、使徒にしか見えないのが実に惜しいと思っている」

ジャンは先程の暗い表情が嘘のように、目を細め、穏やかに微笑を浮かべる。

「そっか、ルナには見える?見えないかな?見せてあげたいね」
「残念ながら、犬の目は色盲だ。どちらにせよ、私達が見ているようには見えないよ」

ルナに声を掛けると、ルナはぴくりと顔を上げて柚の顔を舐めた。
眉を顰めているジャンに、柚はルナを撫でながら首を傾げる。

「ジャンは犬が苦手?」
「いや、そんなことはないよ」

ジャンが手を伸ばし、ルナの頬を撫でた。
ルナは気持ちが良さそうに目を細める。

揺れるしっぽから、柚は再び輝いている結界へと視線を向けた。

「いつもやってるの?」
「定期的に結界を張り直さないと力が弱まるから、夜にこうして結界を補修しているんだ」
「大変だな」
「戦場に出ている君達よりは楽な仕事だよ。とはいえ、この足ではまともな戦力にならなくてね」

ジャンは自分の動かない足へと視線を落とす。
釣られるようにジャンの足に視線を落とした。

「足、まだ痛むの?」
「いや、もう全く。感覚もないからね」

すると、ジャンの視線はゆっくりと花畑へと向けられる。
ジャンの躊躇う視線を、柚は窺うように見上げていた。

ルナを撫でていた手が、ルナの頭の上で動きを止める。

「ハーデスは、どうしているかな?」
「え?……うん、元気だよ」

返事がぎこちなくなり、柚は焦った。

ジャンがハーデスを恨んでいるのか、それともすでに許したのか……
柚は知りもしない。

そもそも、ジャンの怪我がハーデスにやられたものだと知っていることすら後ろめたさを感じる。

「君はあの子と仲がいいとガルーダに聞いたけれど。あの子は相変わらず、一人でいるのかい?」
「……」

以前見せられた、イカロスから見た幼いハーデスの姿が記憶に甦った。

一緒に遊んで欲しいと思いながらも、仲間に入れずにいたハーデスの姿だ。
そして、研究員に虐待を受け、追い詰められたハーデスが仲間を手に掛けた悪夢。

「一人じゃないよ、ユリアと良く一緒にいる。ライアンがいつも引っ張って歩いてるし、ハーデスはいろいろと親切にしてもらってる」
「そうか、ならば……よかった」

ジャンが穏やかに安堵の微笑を浮かべ、背もたれに凭れ掛かった。
車椅子がジャンの上体を受け止め、僅かに軋みをあげる。

「知っていると思うけれど、あの子が暴走して止めようとした私は足をやられた。その後、私はあの子に酷いことを言ってしまった」
「なんて……?」
「私も覚えていないんだ。二度と歩けないと知って、私も酷くショックを受けてね。周囲に散々当り散らして……特にハーデスには酷かったらしい。私とハーデスの精神面を考慮して、私はここに送られたわけだ」

相槌を打つ柚を見やり、ジャンの睫毛が影を落とす。

「懐かしいな、あの頃が。"あちら"はだいぶ変わってしまったんだろうね」

基地を、"あちら"と呼ぶジャンは、完全に自身を部外者のように思っているように感じた。
それが侘びしい。

「戻っては、これないの?」
「無理な話だ。元々、私はアスラと意見が合わなくてね」

柚は思わず口篭る。

分かる気がした。
優しいジャンと人間味に欠けたアスラとでは、さぞ意見が食い違ったことだろう。

「今更私が戻ったところで、あちらでは役に立たないし、ハーデスだって困るだろう。周囲にも気を使わせてしまう」
「……ジャンは、器用貧乏だな――あ、いや!今のは、ご、ごめんなさい」
「ははは、いや、本当のことだよ。器用かは分からないけれど」

おかしそうに笑うジャンに、柚は赤くなる。

「さあ、そろそろ部屋に戻ったほうがいい。昨日も疲れているのに夜更かしをしたんだろう?」
「じゃあ、寝ようかな」
「そうしなさい、また明日。おやすみ、柚」

柚はジャンにおやすみを告げ、駆け足に去っていく。
ジャンはその姿を見送ると、尻尾を振っているルナを見やり溜め息を漏らした。










簡素な造りの家を覆う雪
この季節、スラムでは死者が急増する。

朝靄が掛かったスラム通りを、玉裁はゆっくりと見渡した。





NEXT