厘麗が不思議そうに首を傾ける。

「名前?」
「……俺の価値です」
「うーん、ちょっと分かりにくいわ」

困った顔をして、厘麗がペンで頭を掻いていた。

アスラは、それ以上何も言おうとはしない。
素っ気なく厘麗から顔を逸らしてしまう。

厘麗は諦めたように、メモ帳とペンを片付けた。

「まあいいわ。時間もないし、撮影に入りましょう。表紙用にアスラ君と柚ちゃんのセットと、それと外で自然な感じのを数枚撮らせてちょうだい。アスラ君、今日こそ笑っているところ撮らせてもらうからね」

カメラマンに声を掛けつつ、厘麗は意気込む。
それは難しいだろう……と、柚は思わず苦笑を浮かべた。

多くのカメラマンが「笑ってくれ」と懇願している光景を何度も見ているが、アスラがそれに応えているところを見た事は一度もない。
今日も然りだ。

撮影を終えると、柚はさっそく化粧を落として髪を結い直す。
ぼんやりとアスラの撮影を眺めていた柚は、ふと下腹部に痛みを感じた。

痛みは錯覚のようにすぐに退いていく。

首を傾げる柚の背に、シェリーの声が掛かった。
シェリーが微笑みと共にスタジオに顔を出す。

「撮影、お疲れ様です。次の講義の教材をお持ちしましたよ」
「わざわざありがとう、シェリー!」

柚はシェリーに駆け寄り、分厚い教材を受け取った。
教科書の表紙を見た途端に溜め息を漏らす柚に苦笑を浮べ、「甘い物を用意してお待ちしています」とシェリーは朗らかな声を掛ける。

「行ってくる」と告げて憂鬱そうにスタジオを出て行こうとした柚を、まだ撮影の途中だったアスラが呼び止めた。

振り返った柚に対してアスラは焦る様子もなく歩み寄り、唐突に柚の頬に掌を沿えると、確かめるように顔を覗き込んだ。
驚く柚に、アスラは僅かに目を細めて声を落とす。

「レフの言う通り、顔色が優れないな。体調が優れないようであれば明日の護衛は別の者に頼むが」
「え?だ、大丈夫、絶対大丈夫!元気だよ!」

慌てたように、柚は勢い良く首を横に振った。

ただでさえ、アスラ達の配慮で猶予という特別な待遇を受けているのだ。
例えお飾りであれ、せめて任務だけはこなしたい……こなさなければ、申し訳がない。

アスラは、そんな柚を心配するように眉尻を下げた。

「……そうか、無理はするな」
「うん、ありがと」

柚は手を振り、軽やかに駆け出す。

シェリーは、柚を見送るアスラの横顔を見上げた。
窺うようにアスラを盗み見たシェリーは、二人を見守るように、穏やかに微笑みを浮かべた。





窓から差し込む光がぽかぽかと暖かい。

教官の声は、決まって眠気を誘う。
ましてや外部から招いた教師ではなく、気心の知れたジョージならば尚更気が緩む。

「お前たちのような自然属性の場合、戦闘になった時に重要なのは、その日の天候や地形だ」

東館の二階にある一室で、ジョージは柚と焔を前に告げた。

たった二人の生徒である柚と焔をちらりと見やるが、二人ともこちらなど見てはいない。
午後から続いた講義に飽き飽きしていた二人は、自分の講義の順番になった頃には集中力など欠片も残されてはいなかった。

頬杖を付いた窓際の焔が、欠伸を漏らす。

「例えば雨が降っていたり、水が豊富にある場所での戦闘は柚にとって最高のステージとなるが、焔にとっては不利だ」

教科書に落書きをしていた柚だが、名前を出されてジョージの顔を見上げた。

「何もない所から大気中の水分を集めて水を具現化するよりも、周囲にある水を媒介にして操ったほうが、より素早く、そして自分が消費する力も少量で済む」
「じゃあ水辺で戦えば、フランに勝てる?」
「まあ、勝つ可能性は多少上るな。だがそれはフランにも言えることで、フランは風の属性だ。風の属性は何処で戦っても最高のコンディションに持ち込める。例えば……」

ジョージは、教卓の上に本を落とした。

うとうととしていた焔が瞼を起こす。
柚は小さな風を微かに肌で感じた。

「こうして、風は自力で起すことが出来るからだ」
「そっか。じゃあ、例えば私も水を持ち歩けば役に立つってことかな」
「とはいえ、水は質量を必要とする力だという自覚はあるな?水の硬度を増すには凝縮した水、相手を叩き潰すにも質量。持ち歩ける水の量には限界がある。つまり、ペットボトルの水を持ち歩くくらいでは高が知れているということになる」
「ちぇー」

柚はつまらなそうに口を尖らせる。
役に立たないとなると、興味が失せたかのようにそっぽを向いてしまう。

この二人は実技に関しては意欲的だが、興味のないものにはとことん無関心だ。

「逆に、焔はライターなり持ち歩けば役立つぞ」
「刀の柄にライターでもつけてもらえば?」
「馬鹿か。誰がそんなダサいもん使うかよ。てめぇこそ、水でもしょって歩け」
「なんだと!?私のアイデアの何処がダサいって言うんだ!特許じゃないか!雫ちゃん名義で特許申請すれば、印税入るぞ」
「てめぇ、うちの雫に恥さらさせる魂胆か!?」
「やめんか、お前等は」

掴み合う二人を、溜め息交じりにジョージが引き離した。
「なんでお前等はいつもそうなんだ」と嘆くジョージに、二人は顔を見合わせ、息が合ったタイミングでそっぽを向く。

パラパラと教科書を捲っていた柚は、ふと窓の外に目を止めた。

窓の外に伸びる木の枝の上に、猫が行儀良くちょこんと座っている。
白に黒と褐色の三毛色をした猫は、ゆらゆらと尻尾を揺らしながら手を舐めていた。

「あ、見て見て、猫がいる。おおっ、三毛猫」
「余所見をするな」
「痛っ!」

窓から見える木を指差した柚に、ジョージの鉄槌が下る。
頭を押さえる柚は、それくらいでへこたれはしなかった。

「三毛猫のオスって数万匹に一匹って言われるくらい、すごく貴重なんだってな。あれオスかな」
「んなわけあるか」

頬杖を付いたまま、焔は半眼で呟く。

すっかり講義をそっちのけの柚に、ジョージは腕を組んで溜め息を漏らした。
集中力に欠ける二人の講義はなかなか進まない上、大変疲れる。

「教官、三毛猫のオスが一匹しかいないってことは、三毛猫はどうやって繁殖するのかな?」

柚が疑問に、ジョージが腕を組んで苦笑を浮かべた。

「三毛猫のオスっていうのは染色体異常によって生まれるものであって、元々繁殖能力がないものが多いんだぞ」
「え、そうなの?」

柚は驚いたように目を瞬かせる。
そして、眉を顰めて柚は考え込んだ。

「ってことは、私も染色体異常?」
「お前は調査済みで問題ない」
「ちょ、調査済みっていつの間に?」
「此処に初めて来て、眠っている間だ。もちろんお前もだぞ、焔」

柚が真っ赤な顔で抗議の声をあげようとしつつ、声にならない。
焔はうんざりした面持ちで、不機嫌に鼻を鳴らした。

「まあ……特に柚、お前は一応知っておくべきだな。そういう欠陥が見られるのは、使徒と人類を掛け合わせて産まれた場合だ。お前達のように、ごく自然に生まれた使徒は人と変わらない」
「ぁ……」

無意識に声が漏れる。
以前、そんな話を聞いたことがある気がする。

「この基地で繁殖能力に問題があるのは、ハーデス、ライラ、それから――」
「俺だね」

突如耳元で聞こえた甘い声に、柚がビクリと飛び上がった。
焔がぎょっとした面持ちで身を引く。

穏やかな笑みを浮べ、イカロスはすっと姿勢を正した。

「イカロス将官……」
「ローウィー教官、講義の邪魔をして申し訳ないね。でもほら」

イカロスが壁際の時計を指し、くすくすと笑みを漏らす。
すでに、講義終了の時間を過ぎていた。

「アスラがお呼びなんだ。教官の意見を聞きたいらしい」
「あ、はい。まったく、お前等二人の講義は全く進まん!今日はもう終わっていいぞ」

ジョージは教科書を閉じ、慌しく部屋を出て行く。

柚は目を瞬かせながら、きょとんとしたジョージの姿を見送った。
そして、思い出したように首を仰け反らせてイカロスを見上げると、イカロスは柚の視線に気付いてぽんっと頭を撫でる。

「俺達は人間と使徒、いわゆる異系交配で生まれた雑種だからね。その中でも、俺達のような先天性の障害を持つタイプが生れる確率は半々らしい。俺達は"生殖不能症"って言って、交配をしても受胎させる能力がないっていう欠陥がある。あ、一応そういう行為は出来るんだよ?」
「そこまで聞いてません」

笑顔で付け加えたイカロスに、柚が赤くなりながら半眼で顔を逸らす。
それがイカロスの気遣いなのだと気付くまで、少し時間が掛かった。

教科書に視線を落とす柚から、イカロスの手が離れていく。

「別に、悲観とかはしていないよ」

(あれ……)

穏やかに微笑むイカロスを見上げ、柚は言葉に出来ない違和感を感じた。

言葉の通り、悲観していたり困った様子はない。
むしろ、何処となく……

椅子を引く音に、柚は考えを中断させられた。

教材を手に、椅子から立ち上がった焔が無言で教室を出て行く。
柚はイカロスに別れを告げ、慌しく焔の後に続いた。

イカロスは窓枠に凭れ、口元に小さく笑みを乗せる。

ゆっくりと視線を向けた先で、猫が脅えたように逃げ出した。
その瞬間、木の葉が音を立てる。

鷲の鋭い鉤爪が捕らえるかのように、地面に飛び降りた猫をガルーダの手が鷲掴みにして押さえ込んだ。
褐色の手の下で暴れる猫の首根っこを掴み、ガルーダが窓から見下すイカロスに向けて猫を掲げた。

「どう?」
「うーん、逃げられたかな」
「ちぇ、ざーんねん」

ガルーダは言葉とは裏腹に、楽しむように口元に弧を描く。
琥珀の瞳に浮かぶ獰猛な獣はすぐさま鳴りを潜め、「巻き込んでごめんよ」と喉を撫でて猫を開放するガルーダ

開放された猫が逃げ出していく様を、若葉色の瞳は蔑むように見下ろしていた。





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