午前中の規定訓練の後には、雑誌の撮影が二社入っている。
その後は外部から招いた教師による通常の学業の他、自分の能力特性を理解する為の専門知識等の講義が詰め込まれていた。

雑誌の取材は、基地の敷地内にあるスタジオで行なわれる。
スタジオまでは、結構な道のりがあった。

普段ならば直前まで時間に気付かず、慌ててスタジオに駆け込んでいるが、今日はシェリーが時間を管理してくれているお陰で余裕を持ってスタジオに向かえる。

部屋でシャワーを浴びた柚は、シェリーに別れを告げて中央棟のエントランスに回った。

受付の窓越しにそっと保管室の中を覗き込んでみれば、中では予想通り、一人で大量の荷物を整理している慎也がいる。

軍服の上着を腰に巻き、腰を伸ばして汗を拭う。
ペットボトルの水を煽る慎也に、柚は声を掛けた。

「相澤」
「はい!ってなんだ、宮か」

跳ね上がるかのように姿勢を正した慎也は、声を掛けたのが柚だと気付くと肩から力を抜いて溜め息を漏らす。

「忙しそうだな」
「まあな。そっちはいつも暇そうだな」
「何を言う!さっき規定訓練を終えて、これから雑誌の撮影、それが終わったら恐怖のお勉強タイムだ」
「はは、そっか。頑張れ」

保管室のドアを潜った慎也はポケットを漁り、飴をひとつ、柚に向けて放り投げた。

綺麗な放物線を描き掌の中に転がり込む飴は、子供の頃に良く食べた記憶のある、定番の苺味
それがひどく懐かしく感じた。

受け止めた柚は掌の中の飴を見詰め、申し訳なさそうに顔を曇らせる。

「ごめん、折角だけど貰えないんだ。そういう決まりだから」
「あ、そっか。俺こそ忘れてた、悪い」
「ううん。明日は任務があるから……えっと、明後日。明後日はスケジュール空いてるんだ。私が何かおやつ持ってくるよ」
「え?大丈夫なのかよ……その、そういうのもだけど、お前任務なんて」
「任務って言ったって、アスラの護衛。どっちが護衛だか分らないさ。まだ全然お飾りだよ。傍に立って歩いてるだけ」

柚が苦笑を浮かべた。
そして、「それに」と告げながら、飴玉を握る柚の手が伸ばされる。

「外に持ち出さなけりゃ大丈夫ってフランが言ってた。甘いの平気か?」
「ああ、楽しみにしてる」

伸ばし返した掌の中に、飴玉が転がり込んだ。

短く別れを告げて走り去る柚に、慎也は嬉しそうに「明後日か」と呟いた。
返された飴玉を握り締めると、思わず顔が綻ぶ。

その時、静かな声音がまさにエントランスを出て行こうとしていた柚の背に降り掛かった。

「柚」

階段を下ってきた長身の男が、慎也の目の前を通り過ぎていく。

一般兵とは違う使徒のみが纏う純白の軍服でも、士官服が醸し出す重厚感
揺れる絹のような細い金の髪と、すらりと伸びた鼻梁、同じ軍人とは思えない鮮麗された顔立ちは、人の目を惹き付ける。

保管室の前を通り過ぎていくアスラを、慎也は身を固くしながらまじまじと見上げた。

アスラは柚の前で足を止め、抑揚のない声で「撮影か?」と問い掛ける。
ただ柚だけを映す瞳が、テレビのモニター越しに見る顔よりも、何処となく穏やかに感じた。

「うん、アスラも?」
「ああ」
「じゃあ行こう」

自分ならば声を掛けることを躊躇うようなアスラに平然と言葉を交わす柚が、突然遠くに感じる。
寄り添って立つ二人、離れた場所から見ている自分、それが現実だった。

柚は建物の外に出ると、編んでいた髪を解く。

訓練後にシャワーを浴びてきたばかりの髪は、まだ微かに水気を残していた。
歩くたびにふわふわと揺れる髪の間からは、尖り気味の耳がちらりと姿を現す。

アスラですら、今日の柚は機嫌がいいことが分った。

お互い、大抵の喧嘩は翌日に忘れてしまう。

喧嘩といっても、怒るのはいつも柚で、怒らせるのは決まってアスラだ。
次の日になればお互いけろっとした面持ちで話をしているから、周囲は思わず「なんだったんだ」と溜め息を漏らす。

歩きながら、アスラは柚に訊ねた。

「先程の男は知り合いか?」
「え?見てたのか?」
「見てはいない、聞こえてきただけだ」

咎められるのかと思ったが、アスラが怒っている様子もない。
柚は首を竦めながら、指を絡ませる。

「同じ小学校の奴で……ちょっとした知り合い、だった。で、でも!相澤は途中で転校しちゃったし、それ以来全然連絡もとってないし、本当に会ったのは偶然で、さっき貰った飴はちゃんと返したぞ?」
「ああ、それは見ていた」

アスラは静かに頷いた。

真っ直ぐと前を向いたままの水色の瞳は、光に透けると透明な色を生む。
前は冷たく感じていたその瞳が、今は何よりも綺麗な色に感じる。

「咎めているわけではない。この中に入れたという事は、問題のない人物だったということだろう」
「う、うん。それに、相澤はいつもの人が怪我をしたから、治るまでの代理って言ってた」
「関わりすぎることは関心しないが、気晴らしに少し話をするくらいならばいいだろう」
「アスラ……」

柚は驚いた面持ちでアスラを見上げた。

呟くように名を呼ばれたアスラが、感情を映さない瞳を柚に向ける。
感情を映さないように感じる瞳は、決して以前のように人形のような瞳ではない。

穏やかで澄んだ……こうした穏やかな時の中で垣間見える彼の本当の心のようだった。

「一昨日……」

考え込むようにした柚は、ぽつりと口を開く。
ばつが悪そうな面持ちの柚に、アスラが僅かに首を傾けた。

「怒ってごめん。アスラなりに……あくまでもアスラなりだけど、一応、私を心配してくれてたんだよな?一応」
「……引っ掛る物言いだが、心配をしていたことに違いはない」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」

"ありがとう"と言えば、どういたしましてと律儀に返すアスラ

それがおかしくあり、心が温かくなる。
柚は、アスラのたどたどしい"どういたしまして"が、好きだった。

見えてきたスタジオの開け放たれたままのドアからは、物音と共に声が聞こえてくる。
観音開きのドアが開き、服装はシンプルだが上品な印象を受ける男が顔を出した。

「なんだ、遅れてくると思った時に限って、早く来るんだな」

迷惑そうな顔を隠しもせずに、男はアシスタントに振り返る。

「仕方ないな、君は元帥の方を頼む。終わったら最終チェックするから呼んでくれ。柚は私についておいで」
「はーい、お願いします」

柚の言葉を聞いているのかすら怪しい慌しさでアシスタントに指示を飛ばしながら、使徒専属のスタイリストであるレフは、スタジオに入った柚の肩を押して鏡の前に座らせた。
レフは捲り上げていたそでに止めておいたダッカールで、柚の前髪と両サイドの髪を手早く止める。

どんなに手早い動きも、決して雑には見えない。
むしろ鮮やかな手捌きは魔法のようで見惚れるほどだ。

手早く柚に化粧を施し、髪に櫛を通す。
男にしては繊細な細長い指が前髪やサイドの髪を止めていたダッカールを抜き取り、ドライヤーやピン、スプレーを駆使し、きめ細かい動きで髪を結い始める。

黙ってレフの手の動きを見ていた柚は、奇形型の耳を露わにされて初めて不服そうに声をあげた。

「また耳出すの?」
「ほう、素人の分際で私に仕事に文句を付けるか?」
「す、すみません。なんでもありませんっ!」
「ふん、分かればよろしい」

レフの一睨みに、柚はガタガタと震えあがる。
追い討ちをかけるように柚の顎を掴み、レフは不機嫌に柚を見下した。

「大体、終わってから言ってやろうと思っていたが、顔色があまり良くないじゃないか。むさい男ばかりで弄り甲斐がないところにようやく女が来たかと思えば……」
「ご期待に沿えず申し訳ありませんね」
「ほう……」

つんとそっぽを向く柚に、レフはにやりと口端を吊り上げる。
指で額を弾かれ、柚は額を押さえて呻いた。

「安心しろ、幸い素材としては不足ない。この髪は特に賞賛に値する。カメラにその横柄な態度が映らないことが何よりの救いだな」
「褒められてるのか貶されてるのか微妙だな。横柄はお互いさまだ。いっそ、誰かさんがお気に入りのこの髪を切り落としてやろうか」
「そんなことしてみろ、私じきじきに丸坊主にしてやる」

レフと柚の間で火花が散る。

常日頃から、何が気に入らないのか……柚とレフは顔を合わせては言い合いになる。
撮影の支度を終えたアスラが、そんな二人に一瞥を投げた。

「喧嘩をするな」

気のない返事を返す柚を、アスラが静かに見下ろす。
目を瞬かせた柚は、首を傾げながらアスラを見上げた。

「本当に、切ってしまうのか?」
「は?ああ、髪か」

アスラは肩から垂れる柚の髪を一房手に取る。

プラチナピンクの髪を、皆が口を揃えて綺麗だと言う。
女らしい外見と中身のギャップに、皆が驚き騙されたと言う。

その度に、いつも不愉快な思いをしてきた。

「切ってもいいな……別に」

切れば、少しはその憂鬱から解き放たれるだろうか……?

鬱陶しく思いながらも伸ばしていた理由は、母が喜ぶからだ。
母は、昔から柚の髪を弄るのが好きだった。
母は決して女らしくしろとは言わなかったが、髪型にだけはこだわっていた。

「俺はそのままがいい……どうしてもというなら、止めはしないが」
「ぅ……」

抑揚のないアスラの顔から漏れる寂しそうな声が胸を締め付ける。
なんだか悪い事をしているかのようで、申し訳なくすら感じてきた。

アスラから逃げるように視線を落とし、柚はもごもごと口を開く。

「き、切らない、かも」
「そうか」

薄く安堵の微笑みを浮かべるアスラに、カメラのフラッシュが光った。
アスラが振り返り、柚ははっとした面持ちで顔を上げる。

カメラを手にした中年の女が「ごめんなさいね」と微笑みながら、興奮したように詰め寄ってきた。

「最高!久々にいい仕事したわー!口説かれてはにかむ柚ちゃん!アスラ君も、今とってもいい顔していたわよ?」
「よくは分からないが、満足して頂けたなら光栄です」

女と軽く抱擁を交わすアスラに、柚は顔を引き攣らせた。
耐え難く恥ずかしい勘違いである。

だがそれ以上に、柚は興味深そうに女を見た。
アスラを"君"などと呼ぶ者は見たことがない。

不思議そうな柚に向き直り、女はおおらかな笑みを浮かべた。

「初めまして、柚ちゃ……っと、柚さん。今回取材をさせて頂く週刊アジアの記者、厘麗(りんれい)・メイフィスよ」
「初めまして、宮 柚です。よろしくお願いします」

差し出された手を握り返し、とりあえず柚もにこりと微笑み返す。
厘麗は惚れ惚れとした面持ちで、柚を足元からじろじろと観察して回った。

「やっぱり女の子は花があっていいわね。うちの娘なんかじゃ撮っても撮り甲斐がないけど」
「娘さんがいるんですか?」
「そう、五人も」
「五人も!?」

柚が目を丸くすると、厘麗の朗らかな笑い声が響く。
そしてすぐさま、厘麗は身を乗り出すようにしながらハガキの束を取り出して翳す。

「ところでアスラ君。読者からの要望が多いんだけど」
「またその話ですか?政府から許可が降りていない限り、お応えできません」
「だって、いつも軍服しか撮らせてくれないんだもの。ほら、ここ見て?皆ね、あなた達の私服姿も見て見たいんですって」

厘麗がアスラの手を取って迫ると、今度は柚の肩を押した。

「アスラ君!君だって、柚ちゃんが可愛く着飾った姿を見たくない?アスラ君からも上にお願いしてみてよ」
「……」

掛け合いに持ち出されて固まっている柚を、アスラの瞳が見下ろす。
黙り込むアスラに、後一押しと呟く厘麗の声が聞こえてきた。

「柚ちゃんも、可愛いお洋服着たくない?」
「え?うーん……」

厘麗は柚の後ろから覗きこむように顔を出し、そそのかすように甘い声で訊ねてくる。

寝る以外は、軍服の常備着用が規則

ここに入ってからというもの、身につけるものは全て毎日支給されている。
散々、スカートが短い、せめて見えてもいいように何か下に穿きたい、まともな下着がいい等と訴えているが、柚の意見が聞き入れられた試しはない。

生活管理班は、完全に自分達の趣味に一直線だ。
さすがの柚も、最近は何を言っても無駄だと悟りを開いた。

とはいえ、可愛い服とまでは言わないが……せめてまともな服は着たい。

柚が返事に詰まっていると、考え込んでいたアスラがようやく口を開いた。
「申し訳ありませんが」と、静かな声音が響く。

「上が許可を出したのであれば応じますが、我々はあくまでも軍人です」

その声は、迷いが一切ない……覆せない意思を表したものだった。

それを悟ったのか、厘麗は残念そうに「そう……」と溜め息を漏らす。
そして、思いついたようにメモ帳を取り出し、目を輝かせた。

「そうだわ、それを今月のテーマにしようかしら」

首を傾げる柚の後ろから、厘麗が生き生きとした面持ちで身を乗り出す。

「柚ちゃんにとって、一言で言うと軍服って何?」
「え?」

柚は目を瞬かせた。

考えてもみれば通常軍服は、慎也のように軍の学校を卒業した者に与えられる重みのある物だが、柚には初めから当たり前のように与えられた制服のような物だ。
その服以外に与えられていないから、そでを通している。

焔は当初着る事を拒んでいたが、自分はさして抵抗もなく……否、深く考えず、目の前に突き付けられたひとつの選択肢を選んでいた。

軍服とは何だろう?
考えたこともなかったが、考え始めるとまず、"鎖"という重い言葉が浮んだ。

だが、さすがにそれを言葉に出すことははばかられる。

考え込む柚に、厘麗は苦笑を浮かべた。

「まだ入って二ヶ月だものね、少し難しい質問だったかしら。じゃあ、アスラ君は?」

厘麗の視線がアスラへと向けられる。
柚も釣られるようにアスラの顔を見上げた。

僅かに考え込んだアスラの指先が、軽く軍服に触れる。

真っ白な純白
両肩で、存在を主張する最高位の肩章

アスラの答えが気になった。
軍服を見詰める眼差しと共に俯いていた金の睫毛が、ゆっくりと上を向く。

なんとも表現しがたい面持ちで、アスラは"名前"なのだと答えを返した。

一体何を想い、その答えを出したのだろうか……
その眼差しは、何を見ているのだろうか……

それを知るに至るほど、柚はまだアスラを知らないのだということにふと気付いた。





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