32


いつもよりも少し遅めに仕度を終えて部屋を出た。
イカロスを廊下で待ち構えていたのは、不機嫌な面持ちのフェルナンドだ。

驚きもしないイカロスに苛立ちながら、フェルナンドは声を抑えて詰め寄った。

「最悪の目覚めですよ。お陰様で、明け方に宮が部屋に押し掛けてきたと思えば、ハーデスの件を報告書に書かないで欲しいだのなんだのと言ってきた。あんなものをこの僕達に――いや、僕に見せてどうしろって言うんですかね、イカロス将官」

フェルナンドは厭味を含んだ口調で、イカロスが口を挟む余裕もなく吐き捨てる。
イカロスは少しだけ困ったように苦笑を浮かべ、フェルナンドの肩を押し返した。

「別に、どうしろというつもりはないよ。ただ君達三人が、ハーデス暴走の理由を知りたいと思っていたから、その理由を見せてあげたんだ」
「理由?馬鹿げている!あんなものが理由だと?自分の失態を隠そうとして、仲間の返り血で自分の血を隠し、その場にいた全員を殺して事実を知る者を消し去ろうとした――いかにも子供らしい、陳腐で身勝手な理由だ!その犠牲になった者たちがいたたまれませんね!」
「そうだね……」

沈むよう呟きが相槌を打つ。
フェルナンドは、苛立ちをぶつけるように手を振りかぶった。

「そんな奴にどう同情しろと言うんです。彼はもう大人だ。それなのにまた同じ行動を繰り返している。全く成長していないじゃないか!」
「それでも、ライアンズ達が来てからは治まっていたんだ」
「けど、現に僕達を襲った!」

馬鹿にしたように、フェルナンドはイカロスを鼻で笑い飛ばす。
顔色はあまりよくないが、眼光の鋭い光だけはいつもと変わらなかった。

「あなたの言いたい事は分かっているんですよ、報告書ではハーデスの暴走に触れるなと言いたいんでしょう?回りくどい!いつもそうだ、あなたは僕に命令する立場にありながら、自分では何もしない!」

言葉が空気を震撼させる。

「本当にハーデスを救いたいと思っているなら、命令すればいい!報告書を隠蔽しろとね!」
「けど、俺がそんな命令をすれば、君は俺に反発して真実を書く」
「その通りさ!あなたは人の心の中を知っていて、最悪の事態だけを回避して生きている。ただの卑怯者だ」
「……」

イカロスは無言でフェルナンドの怒りを受け止めた。

自覚はある。
彼の言う通りだ……反論の言葉も出なければ、するつもりもない。

フェルナンドはイカロスを蔑むように睨み付ける。

「心配しなくても、ハーデスの件は報告書には書きませんよ。あんな不名誉な失態、誰が好き好んで晒すものかっ」
「有難う……彼はもう、後がないかもしれないんだ」

背を向けるフェルナンドに、イカロスは静かに声を掛けた。
フェルナンドが足を止める。

「あの男の言葉はただの脅しだけれど、次に人的被害を出せば、上は本当に処分を検討する」
「……僕には関係ありません」

フェルナンドが足を進めた。
軍靴の音が静かな廊下に響いていく。

イカロスは、振り返らないまま小さく口を開いた。

「出ておいで」
「……今の話、本当か?」

柚が遠慮がちに廊下の角から顔を出す。
振り返ったイカロスは、柚へと苦笑を向けた。

「すでに何度か処分を検討されたんだ。けど、あの後クラスの高かった使徒が立て続けに亡くなってね、ハーデスクラスの価値が上がって、上もハーデスを処分できなくなった。今回程度で済めば、今までの功績や現時点の実力を考慮して見逃してくれるだろうけど……」
「そっか……あの夢、やっぱり本当なんだ」
「……そうだよ」

イカロスの肯定の言葉が、胸に暗雲を張る。
微かに柚の指先が震えた。

「ハーデス自身は、ほとんど忘れているんだけどね」
「そうなんだ……」

犠牲になった人々には申し訳ないが、忘れていたほうがいいかもしれないと思ってしまう。

その心を汲み取るように、イカロスの掌が柚の頭に触れた。
目を細めるイカロスが、僅かに影を落とす。

「ごめんね」

柚は慌てて首を横に振った。

「知れてよかったと思ってる」

イカロスは、穏やかに微笑んだ。
柚は、遠慮がちにイカロスを見上げて訊ねた。

「あの研究所の人……今もいるのか?」
「いないよ。あの事件の後、彼はまたハーデスに暴力を奮ったせいで、感情が不安定だったハーデスの防衛本能が働いて……ハーデスは彼を殺そうとした」

柚がはっとした面持ちでイカロスを見上げる。

殺したのだろうか……?
夢で感じた生々しい感触が掌に甦る。

イカロスは静かに首を横に振った。

「それに気付いたガルーダがハーデスを止めたから、その件に関しては事なきを得たけど……」
「……」
「彼が、ハーデスに十年近く虐待を与えていたことが明るみになった。彼はこの研究所を追放されたけど……ハーデスの精神面には今だ問題が残っている」

それであの暴走だ。
柚は視線を落とした。

幼い頃から、染み付いた暴力への恐怖
罵られ続け、自分の価値を否定されてきた心

それでも誰かに愛されたいと思うのは人も使徒も一緒だが、使徒はそれが特に強い。

「柚ちゃん……」
「え?」

哀愁に満ちたまなざしが、柚を見下ろしていた。

「ハーデスを頼んだよ」
「……当たり前だろ」

何を言うんだとばかりに、柚は苦笑を浮かべて踵を返す。
すれ違う柚からは、甘酸っぱい香りがした。

柚が部屋に戻る途中、柚はシェリーに名を呼ばれて振り返る。
とても決まりの悪そうな面持ちをしたシェリーに、柚は穏やかに笑みを向けた。

「ちょうど良かった。ちょっと付き合ってくれるかな」
「え?あ、はい」

慌てたように、シェリーが柚に付き添う。

小鳥のさえずりが、唯一の救いに思えるほど、二人に会話はなかった。
施設を出て森の中に入ると、距離を置き俯いて歩くシェリーを、柚は足を止めて待つ。

「今日で、お別れなんだな」
「……え、ええ。あの、柚さん」

シェリーは完全に足を止め、泣き出しそうな面持ちで俯いた。
大きな瞳に涙が滲む。

「もう、焔さんにお聞きになってご存知でしょう?私がここに来た、本当の理由……」

「いいや」と呟き、柚は近くの木に手を触れて凭れ掛かった。

「焔からは誤解だとしか聞いてない。そういう奴なんだ」
「……私」

シェリーが言葉を喉に詰まらせる。
白い指先の桜貝のような爪先は、強くスカートを握り締め、色を無くしていた。

「本当は、焔さんとの間に……子供を儲けるように、言われて来たんです」

聞き取りづらい、途切れ途切れの言葉

例え聞いていなくとも、もう予想は付いている。
驚きはしないが、納得が出来るものでもない。

柚は、シェリーの顔を見詰めて問い掛けた。

「なんで、焔なんだ?」
「焔さんが、ケルビムだから……」

シェリーの指先に力が篭る。

今回は事には至らなかったが、焔はケルビム――彼もまた、その遺伝子を残さなければならない。
例え焔がどんなに拒もうと、いずれは直面する問題だ。

柚は僅かに視線を落とした。

「誰に言われて?」
「それは……」
「カルヴァン佐官?それとも、シェリーのお父さん?もし本当にそういうことになった時、シェリーはそれでよかったのか?」

シェリーは黙り込んだ。

使徒である自分達は逃れられない。
だが、本来愛する人を選べる立場にあるシェリーが、生れた家に縛られる姿がもどかしく感じた。

「シェリーは、好きな人がいるんだろう?」
「父の秘書なんです」
「え?」
「私の好きな人。数年前から、お仕事で家にもたまにいらして。とても熱心な方なんです。自分も政治家になることが夢なんだって。お仕事の息抜きに、私にもよく政治のお話をしてくださるんですよ」

悲しそうに、自嘲染みた笑みが浮かぶ。
スカートを握り締めていたシェリーの手が解かれ、自分を守るように胸元に握り締められる。

大きな瞳に浮かぶ涙が、彼女の本当の気持ちだ。
苦しそうな笑みと、自身をあざ笑う声が痛々しく耳に届いてくる。

「その人に言われたんです……私と焔さんとの間に子供が生まれれば、後々お父様の力になるって」

シェリーの頬を涙が零れ落ちた。

「断れなかったんです……好きだから」

零れ落ちた言葉が、柚の中に波紋を描く。

「馬鹿だなぁ」と、柚は呟いた。

その声が妙に優しくて……
シェリーは顔をあげた。

「私は、シェリーの友達のつもりだけど、シェリーはどう?」
「え?私は……柚さんとお友達になれればいいなと思っていました」
「じゃあ、これは友達として」

柚は息を吸い込んだ。

「そんな男、やめてしまえ!」

怒声が森に響き渡った。
びりびりと肌を震わせる怒号に、シェリーが目を丸くして言葉をなくす。

「女を出世の道具にしようとする奴なんてサイテーだ!そんな男、シェリーにはふさわしくない」
「そっ……そんな。あの人のこと、悪く言わないでください!」

シェリーが顔を赤くして声を荒げた。
柚を睨み返すシェリーに、柚はぷっと吹き出すように笑い出す。

手を伸ばし、柚はシェリーを抱きしめた。

「彼を悪く言ってごめん。でもほら、私には言えるじゃないか」
「ぁ……」

シェリーは違うとでも言うように、柚から顔を背ける。
柚はシェリーから手を離し、シェリーを見詰めた。

「今のは柚さんだから言えたんです。あの人の前だと、思っていること全然言えなくて。断って、嫌われたり愛想を尽かされたりしてしまうのも怖いです」

シェリーの手が小さく震えている。
その震えに呼応するかのように、風が木々を寂しくざわめかせた。

柚は、瞼を閉ざす。

「それは、分かるな」

苦笑を浮べ、顔をあげた柚はシェリーの震える指に手を触れた。
シェリーがはっとした面持ちで、柚の顔を見る。

「私も迷ったんだ。何も言わず、シェリーとお別れしたほうがいいのかなって……」

自分の震えか、柚の震えか……
互いの指先が震えている。

柚は瞼を閉ざし、穏やかに告げた。

「でも、私はシェリーが好きだから。例え喧嘩別れになっちゃうとしても、お互いの気持ちをぶつけたいって思った。でなきゃ、本当に胸を張って友達とは言えない。賭けみたいなものだよな」

柚は申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。

シェリーは唇を噛み締めて俯いた。
長い髪が、涙に濡れた頬に貼りつくことすら、気にもならない。

胸の奥に押し込めていた感情が溢れ出し、シェリーは口を開いた。

「あの日……焔さんが断ってくれて、実はほっとしました。でも、失敗をして彼にがっかりされてしまうと焦りもしました。何より、柚さんがこの事を知ったら嫌われると思って恐くもなりました」

掌が、ゆっくりとその顔を覆い隠してゆく。

「私は、嫌な事を嫌と言えない臆病な自分が嫌いです。人の顔色ばかりを伺っている自分が嫌なんです。お会いしてからずっと思っていました、柚さんのようになりたい……」

"でも、なれない"
シェリーの心の叫びが聞こえてくるような気がした。

「なんだか……おかしなものだな」

思わず苦笑が漏れる。
柚は、少しだけ複雑なようで、嬉しく感じていた。

俯くシェリーへと顔を向け、持て余すように自分の髪に触れる。

「逆に、私はシェリーに憧れていたよ」
「柚さんが?私に?」
「なんていうか、そういうもんだよな。自分にないものに憧れるんだ」

口元に指を当て、柚はくすくすと困ったように笑った。

「人ってさ、そうやって足りない物を補っていくんだろうな」

ゆっくりとあげられた眼差しが、蒼い空へと向けられる。

突然思い付いたように、柚はシェリーの手を取って駆け出した。

シェリーに振り返ると、シェリーの足が地面から浮き上がるように離れる。
驚くシェリーの手を引き、柚は空中へとシェリーを導いた。

「ほら、見える?ここに足場があるから」

柚が、何もない空間を爪先で叩く。
空中に波紋が広がった。

柚に手を引かれ、シェリーは一歩一歩、空への階段をあがっていく。

青い空が近い。
あと少しで雲に触れられそうだった。

小さくなった森を見下し、シェリーは惚けたように世界を見下している。

そんなシェリーを覗き込むように、柚は明るい声で口を開いた。

「シェリーは、私が恐い?」
「いいえ」

シェリーは首を横に振る。
「ありがとう」と微笑み、柚はシェリーの手を強く握った。

「実は私、最初、自分の使徒の力を見て恐いと思った」
「柚さん……」
「この間私達の家族が人質に取られた事件知ってるだろう?フランのお父さんもね、助けに入ったフランを見て、口にはしなかったけど脅えていたらしい」

シェリーが悲しそうに柚の顔を見やる。

「私さ、自分が使徒だってずっと知らなかったんだ。ママはそれでも私を守ろうとしてくれた。でも、友達はどうだろう?もし会う機会があったら、どんな顔をされるだろうって思ってた。シェリーが来たとき、本当は少し不安だったんだ」

柚は自らの掌に視線を落とす。
白い肌と整えられた爪、傷ひとつない少女のものだ。

軍服を着ていても、軍人には見えない。

「使徒でも普通に接してくれる人は沢山いる。でも、表面はそう装っていても、心の中では差別している人達がここには沢山いる」

大きく見開かれる瞳と共に、シェリーの愛らしい唇が一度引き結ばれ、再び開かれる。

「柚さんは普通の女の子です!」
「でも使徒だから……それじゃ駄目なんだ。私は変わらなきゃならない」

まるで、その先を恐れているかのような瞳だった。
ゆっくりと向けられた視線は穏やかだが、彼女に秘められた決意を感じさせる。

柚の手が、風に揺れるたびに触れる髪を抑え、赤い瞳が弧を描いた。

「シェリーはね、私が使徒だって分かってからの最初の友達なんだ。私を普通に受け入れてくれて有難う。そんなシェリーが好きだよ」
「例え立場が逆でも、柚さんだってそうしたはずです!」

訴えかけるように、シェリーが強い口調で告げる。
柚はただ微笑み、長い睫毛が影を落とした。

「私自身、大好きな人達を守れるように強くなりたいとは思う。でもまだ、人を殺す覚悟が出来てないんだ……」

傷付くことに躊躇いなく向かってきたハムサへの攻撃を躊躇い、隙を産んだ。
夢で見た人を殺す生々しい感触を、今だ忘れられない。

「いずれは子供を産まなきゃならないように、誰かを殺さなければならない時が来ると思う。それが、エデンなのか神森なのかは分からないけど……人を殺す感覚に慣れてしまう時がくるのかな」
「柚さん……」
「今の自分を忘れたくない。この先私は変わっていくかもしれない。でもシェリーは、今の私を忘れないで欲しい」

シェリーはその言葉を噛み締めるように黙り込み、青い空を見上げた。

遮るもののない広大な空
自分達の悩みや、世界中の争いが、とてもちっぽけなものに思えてくる。

シェリーは静かに瞼を閉ざし、穏やかに微笑んだ。

「焔さんに言われたんです。自分を大事にしろって……」
「焔が?あいつに言われたくないよな」

柚はくすくすと笑みを漏らす。
「やっぱり無茶をなさる方なんですね」と、シェリーが一緒に控えめな笑みを浮かべた。

「皆さんがどんな力を持っていようと、私はあなた方が誰よりも心ある人だと思いました」

シェリーが、真っ直ぐと柚を見る。
居抜くような強い視線と共に、いつもは人を癒す微笑みが、今は柚を力付けるように逞しく微笑む。

「私はあなたの味方です。この先何があっても……私は、あなたを友と呼びます。だからどうか、柚さんもその心は変わらないで下さい」
「……ありがとう、シェリー」

柚はシェリーの手を取って、その胸に顔を埋めた。

友という存在を、これほど嬉しく、心強く思った事がない。
心から、感謝の言葉が溢れた。

水の階段を降り、空へと振り返ると、水が砕け散るように散っていく。
小さな七色の虹が空に掛かった。

「あと少しの間、宜しくな」
「はい!」

シェリーは微笑む。

友へと、尊敬と感謝の念を抱きながら……
二人は歩き出した。





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