31


食堂の調理場に、消し忘れたようにぽつんと灯りが灯っている。
ここ数日、任務続きで溜め込んでいた報告書の山と格闘していたライアンズは、コーヒーカップを片手にぼんやりと観察していた。

どう考えてもおかしい。
皆寝ている筈のこの時間に、厨房に人がいる。
それも、食べる側専門の柚が、一人でだ。

寝ぼけて幻覚でも見ているのかと思い目を擦ったが、相変わらず柚の姿は消えない。

それどころか、柚は危なっかしい手付きで包丁を握りながら、まな板の上に置かれたゆずの実を中央からふたつに切り裂く。
たったそれだけの作業で、「ふぅ」と一仕事を終えたように汗を拭う柚は、今度はふたつにしたゆずを絞り始めた。

汁が目に跳ね、柚は「目に入った、痛い!」と叫びながら、顔を押さえて床を転がり回る。

一人で暴れまわっていた柚は、入り口から呆れた面持ちで覗いているライアンズに気付いて動きを止めた。
柚はごほんと咳払いをして、ライアンズに背を向ける。

ライアンズは食堂の調理場に入り込み、不審気に問い掛けた。

「お前……何やってんだ?」
「あーら、ライアンズさん。お気になさらないで下さいな」

つんとそっぽを向く柚に、ライアンズは顔を引き攣らせる。

「ど、どうしたんだ?そのおかしな口調は」
「あら、こういうのがお好きなんでしょう?このわたくしが、分不相応に清楚なお嬢様系が好きとはほざいてやがるライアンズさんの為にサービスしてさしあげてますのよ?跪いて感謝なさいまし」
「いやいやいや、いろいろおかしいぞ。疲れてるのか?熱でもあるんじゃねぇ?部屋戻ってゆっくり休め」

青褪めていくライアンズに、柚はふんっと小馬鹿にした笑みを向けた。
なんて可愛くない態度だと思いながら、ライアンズは並べられている材料に視線を落として腕を組んだ。

「材料からしてケーキだろ。お前、急に料理なんて始めて……明日から第五次世界大戦勃発か?」
「見ないで下さる?」

汁を絞りながら、柚はつんっとそっぽを向く。
ライアンズは溜め息を漏らした。

「分った分った。何拗ねてんだか知らんが、俺が悪かった。頼むからその気持ち悪い喋り方を止めてくれ」
「気持ち悪いってなんだ、貴様の顔のほうがよっぽど気持ち悪いわ。そのメッシュ引っこ抜くぞ」
「途端に口が悪くなるな……それにしてもお前、下手くそだな。ほら貸せ」

ライアンズはゆずを取り上げ、汁を絞って種をとりだす。

「で、何作ってたんだ?」
「ゆずケーキ」

包丁を片手に、柚は得意気に胸を張る。
ライアンズが恐々と柚を見た。

「共食いか?」
「ふんっ」
「大体なんでいきなりケーキに挑戦するんだよ、出来もしないくせに。ここは大人しくママレードにしとくとかあるだろ」
「ライアンの為に作ってるんじゃないんだからいいだろ」
「へぇ、誰の為だ?」

ライアンズはにやにやと笑いながら、柚の顔を覗き込んでくる。

「ハーデス。安心しろ、貴様には一欠けらも食わせん」
「いらねぇよ。で、次どうするんだ?」
「余計なお世話だ。自分でやる」

ふいっとそっぽを向いた柚に、ライアンズは先を促した。

果肉を絞ったゆずの皮をまな板に乗せ、覚束ない手付きで刻み始める柚
ゆずの皮と一緒に指まで切りそうな包丁捌きに、暫らくははらはらと見守っていたライアンズだが、耐え切れずに柚から包丁を取り上げた。

「恐ぇ!?俺の心臓に悪い、お前は俺を殺す気か!」
「うっさいな、もう!切っても治るからいいんだ!」
「そういう問題じゃねぇーぞ!お前は、自分の血が混じったもんを人に食わせる気か!なんの呪いだ、恐ろしい!」

文句を言う柚から包丁を取り上げ、ライアンズはゆずの皮をみじん切りに切り刻んだ。
慣れた手付きで白い部分を取り除くライアンズの手元を覗き込み、柚は少し不服そうに感嘆の声を漏らした。

「ライアンって料理出来るのか?」
「まあな。ここに来る前は一人暮らしでほとんど自炊だったんだぜ」

柚が目を瞬かせる。

「えー、でも恋人と同棲してたってユリアが言ってたぞ?」
「はァ?ったく、余計なことを……」

ライアンズは、複雑そうに呟いた。

柚はライアンズの顔を覗き込み、首を傾げる。
「どんな人?」と訊ねてくる柚に、ライアンズは照れたように頬を掻いた。

「あ?まあ〜なんていうか、清楚な美人系かな」
「……土下座してお付き合いしてもらったのか?それとも脅して付き合ったのか?そもそも、恋人発言が嘘か?」
「お前、俺をどういう目で見てんだ?」

まるで殺人犯に自首を促すかのような眼差しで自分を見上げてくる柚に、ライアンズはこめかみに青筋を立てた。

「で、次はどーすんだ?」
「バターとグラニュー糖を混ぜる」

柚は図書室から持ち出したレシピの本を読み上げる。
ライアンズは横からレシピを覗き込み、分量を量った。

秤と睨めっこをするライアンズを見て、柚は腕を組む。

「男の癖に細かい」
「菓子は分量適当にすると失敗するぞ。ま、大雑把なお前には出来ない芸当だな」

ふふんっと、得意気に返すライアンズ
否定はしないが、柚はむすっとした面持ちで鼻を鳴らした。

ボールと泡だて器の奏でる音が、誰もいない食堂で軽快に響きる。
バターの香りが食欲をそそった。

ライアンズは練り上げたバターにグラニュー糖を加えるように指示をする。
グラニュー糖を加え終えると、今度は溶き卵を加えて丁寧に混ぜ合わせると、最初に絞っておいたゆずの果汁と皮を加えて混ぜ合わせた。

最初は柚が作っていたのだが、いつの間にかライアンズが作っている。
綺麗に交じり合っていく色彩を見詰める柚は、すっかり見物人だ。

「見てないでお前も手伝え」
「なんか間違ってる、その言葉」

ライアンズは指に付いたバターを舐め取りながら、ぷっと吹き出した。

「ほら、俺が混ぜるから小麦粉とかをふるいに入れて上で振ってろ」
「へーい」

柚はその指示に従うことにする。
なぜか、ライアンズが楽しそうにしていたからだ。

混ぜ終えた生地をあらかじめ冷やしておいたいくつかの型に流し込み、余熱をしたオーブンに入れる。

「後は焼き上がりを待つだけだぜ」
「おお!意外と簡単だったな」
「ああ、作ったのはほぼ俺だからな」

ライアンズが半眼で呟く。
「勝手に手伝ったくせに」とは言わず……オーブンを覗き込んでいた柚は、シンクに凭れるライアンズに振り返った。

「ところで、ライアンはこんな時間に何してたんだ?いかがわしい事でもしてたのか?」
「仕事だ、仕事。お前こそ、何でこんな時間に菓子なんて作り始めてんだよ」
「気が向いたから」
「ふーん」

深くは追求せず、会話が途切れる。

オーブンを覗き込んでいる柚と、その後ろに立つライアンズ
柚は、鬱陶しそうに振り返った。

「寝ろよ」
「目が冷めた」

ライアンズは置いたコーヒーカップを手に取り、小さく笑みを漏らす。

「菓子作りなんて久しぶりだ」
「へぇ。それ以前に、作れるって事が意外」
「ちっこいのがウヨウヨ居たんだよ」

ライアンズは、自分の膝よりも少し上の辺りを指し示し、懐かしそうに目を細めた。
「子供?」と問い掛ける柚に、ライアンズは頷いてコーヒーを一口飲み干す。

「高校出るまでは施設に居たからな。年長組になると、飯やおやつの仕度を手伝わされたんだ、これが」

腕を組み、懐かしそうに語るライアンズを見上げ、柚は思わず笑みを漏らした。

「だから面倒見がいいんだな」
「お前のように手に負えないガキがわんさか居たぜ?」
「ここで役立ってよかったな」
「全くだ。で、高校出て、一人暮らしをするようになってあいつと出会ったんだよ」
「おっ!あいつってのは、噂の清楚美人か?」

柚がライアンズを見上げ、目を輝かせる。
ライアンズは「そうそう」と、嬉しそうに頷いた。

懐かしさと愛しさに溢れる表情が、見惚れるほどに憧れを抱かせる。

「名前は?」
「エリスって言うんだぜ。名前からして彼女の人柄を表してるって言うか、もう一目惚れってヤツだぜ。淡い黄金色の髪と深いエメラルドの瞳で、ちょっと世間知らずで抜けてて、おっとりとした無垢な微笑みが俺の好みにドンピシャ」
「それで、それで?襲ったのか?脅迫か?強姦か?」
「んなわけねぇだろ」

幸せそうに語っていたライアンズが、柚のこめかみをぐりぐりと締め付けた。

「俺のアパートから職場に向かう道の途中に花屋があってさ、エリスはそこでバイトしてたんだ。花って結構高いんだよな。安給料なのにさ、毎日花屋に通って、一本だけ花買って……」
「なっ、なんだよ、ライアンのくせにー!そのべたべたな少女漫画展開は!でもライアンが格好良く見えてくるじゃないかー!」

眩しいとばかりに、柚が手で顔を覆ってライアンズから背ける。
得意気に胸を張るライアンズは、足を組み替えてシンクに凭れ直した。

「まあ、そんだけやってれば俺がエリスに惚れてるのが周りにバレバレなわけでさ。エリスは、同じバイト仲間に言われるまで気付かなかったらしいけど、周りにからかわれて俺を避けだしてな。あれは応えたなー」
「うわぁ〜。それでもめげずに頑張ったのか?」
「当たり前だろ」

幸せそうに笑い、ライアンズは柚の額を小突く。
まるでライアンズの温かな気持ちが流れ込んでくるようで、柚は額を押さえながら目を細めて微笑んだ。

「いいな、そういうの」
「なんだ、お前でも憧れんのか?」
「当たり前だろ。ライアンはお断りだけど、そんなふうに想ってもらえたら幸せだな」
「俺だって、お前はお断りだ」

ライアンズが半眼で柚を見下ろす。
柚はオーブンの中のケーキを見詰めながら、夢見る少女のように微笑んだ。

「エリスさんは、ライアンに愛されて幸せだな」

ライアンズの笑みが、自嘲じみた寂しさに染まった。

別れすら言えずに突如目の前から消えた恋人を、彼女は恨んでいないだろうか?
誘拐のように政府に攫われ、薬で眠らされたまま道具のように母体にされそうになり、彼女は自分を憎んでいないだろうか?

だが、どちらも彼女には似合わない言葉だ。
そう思っているのは、彼女に憎まれることを怖れるあまり、勝手に彼女に夢を抱いているのかもしれない。

自分にとってエリスとは、神聖さすら感じる恋人だった。
少なからず、自分は彼女と出会えて幸せだった。

彼女は、自分と出会わなければ良かったと後悔していないだろうか?
彼女は、自分に愛されて幸せだっただろうか?

「だと、いいけどな」

そう呟き、穏やかに瞼を閉ざした。
随分前に止めた煙草が、ふと吸いたくなる。

「お前だって、いるだろ」
「え?ぅ、うん……」

どきっとしたように、柚は頬を染めて俯いた。

使徒でも、好きだと伝えてくれた人がいる。
まだ、始まってもいない恋だった。

もし時間があれば、もっと早くに再会していれば、それは変わっていたかもしれない。

黙り込む柚を、ライアンズが意外そうに見下ろした。

「予想外の反応だな」
「え?そ、そう?」
「何か進展あったのか、元帥と」
「はァ?」

柚が眉間に皺を刻んでライアンズに振り返る。
その顔に、ライアンズは笑顔のまま固まった。

(元帥じゃないなら焔か?それともまさかハーデス?聞きたい、けど聞けねェ!?)

オーブンからケーキの香りと共にゆずが香る。
長細い型の中で、ケーキが膨らみ黄金色に染まり始めた。

柚があくびを漏らす。

ライアンズの心にもやっとした疑問を残し、空に太陽が昇った。





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