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慌しいの一言だ。

一度フェルナンド達と共に基地に着替えに戻った柚を見掛けた慎也は、走り抜けていく柚を見て思わず錯覚かと思った。
大統領の護衛で、昨日から留守にしている筈だ。

程無くして、ばたばたと駆け戻ってくる柚と焔

「こら、待て!そのぼさぼさ頭をなんとかしていけ!」

慌しく柚を追い掛けるレフが、ドライヤーと櫛を手に叫んでいるが、肩にタオルを掛けて髪の水気を拭いながら走る柚は止まらない。

「宮!」

保管室から身を乗り出し、慎也は柚に声を掛けた。
ぴたりと柚の足が止まり、振り返る。

髪を下ろしている姿は久しぶりに見た。
緩く波打つ綺麗な髪から、長く尖った奇形型の耳が覗く。

以前、自分が「変だ」と言い、虐めるきっかけにした。
思い出しただけでも胸が痛む。

慎也は柚に向け、照れたように笑った。

「一昨日言えなかったけど、その耳、本当はずっと可愛いって思ってたんだぜ」

柚が目を瞬かせ、手が耳に触れる。
頬を染め、柚は嬉しそうに笑って走り去った。





宮家では、柚の母・弥生が焔の妹・雫と共に、緊張した面持ちでテレビの前に正座していた。

「あ、今の!ちょっと黒髪の子、映らなかった?焔君じゃない?」
「え、お兄ちゃん何処?あ、いた!」

雫が笑顔を浮かべる。
テレビに張り付きそうな二人を、父・洋輔が苦笑を浮かべて宥めた。

飛行機を前に、大統領の後ろに整列する使徒
白い軍服に身を包む軍人達は、疲れを感じさせない面持ちで背筋を伸ばし、立ち姿が様になっている。

弥生としては、テレビ中継の最中、そそっかしい娘が何か大変なミスをしないかハラハラの連続だった。

「あら、柚……」

カメラが向けられた先では、変わらない娘の顔が大きく映し出される。

長いプラチナピンクの髪が、日の沈み掛けている寒空の下に揺れていた。
いつも気にしていた耳を隠すでもなく、堂々と人々の前に晒している姿を見るのは、随分と久しぶりだ。

「いいこと、あったのかしら」

弥生の呟きに、洋輔が耳を傾ける。
二人は顔を見合わせ、小さく笑みを交わした。

すると、雫が目を輝かせて声を上げる。

「あー、デーヴァ様!」
「相変わらず綺麗な顔してるわねぇ、アスラ君」
「そうか?」

洋輔が、不機嫌に吐き捨てた。
すると、弥生は「ふふふ」と笑い、洋輔の顔を覗き込む。

「あらあら、あなたったら妬いてるの?」
「娘の心配をしているんだ」

むっとしたように、洋輔はビールを煽った。

「いいじゃない。雫ちゃんは誰が好み?」
「雫はイカロス様かな」
「イカロス君も優しそうでいいわね。でも私は、ユリア君のファンなのよ」
「ユリアさん、テレビで観るよりも綺麗だったよね。あ、フランツさんもいいな」

女二人の会話に花が咲く。
洋輔が、勢い良く缶ビールを置いた。

「あ、あんなチャラチャラした男達、俺は絶対に認めないぞ!」

洋輔の怒声が宮家に響き渡る。

雫は、洋介を宥める弥生と共に笑いながら、テレビへと視線を向けた。

飛び立っていく飛行機を見送る大統領と使徒達の姿をカメラは追い続ける。
踵を返す大統領と言葉を交わし、付き添うアスラと、ガルーダを中心に何かを話し合っている残りのメンバー達

遠巻きながら全員の姿を映し出したカメラが、焔の顔を映し出す。
リポーターが、「期待の新人」と嬉しそうに語っていた。

雫の頬が誇らしげに緩んだ。










高い塀に囲まれ、まるで監獄だと思った。

だが、いつの間にかそこにいることにも慣れ、おかしなことに帰ってきたと感じるようになっている。
無機質な壁に囲まれた部屋から少し離れた森が、「おかえり」と言うかのようにさわさわと風に揺れていた。

使い慣れたシャワーも、ベッドも、部屋に置かれた小物も、何もかもが落ち着く。

一日ぶりに戻った基地で、疲れ切った体を横たえた柚は夢を見た。

眼鏡をかけた白衣の男が、冷たい目で自分を見下している。
知らない男にいきなり頬をはられ、柚は怒りよりも驚きとショックを受けた。

「何故この程度のことも出来ないんだ!」

肌を震撼させるような怒声を浴びせられる。
叩かれた頬が熱い。

体中の筋肉が収縮するように、小さくなった。
男に恐怖を感じる。

「ごめんなさい……」

自分の唇からは、何故か少年の声が出た。
声の主である"自分"は、脅えたように男に向けて謝罪を口にする。

男の眼鏡に、少年の姿が映し出された。
頬を腫らし、脅えたように男の目を見ている。

まるで、アンジェのようにおどおどとした態度だった。

この男が怖い。
この男の言葉は絶対だ。
この男の言葉こそが全て。

なぜか、そう体に染み付いている。

「この愚図が!この程度の課題、他の子供達はすぐにクリアしたぞ!」

男は叫んだ。

再び振り上げられる手を、かわそうと思えばかわせるというのに、あえて受け止める。
逃げ出したいと思いながらも受け止めなければならない。

「なんで私がお前のような出来損ないの担当なんだ!あいつより、私の方が優秀なのにっ!」

今度は反対の頬を叩かれる。
口が切れ、血の匂いがした。

「いいか、次の初任務――しっかりやれよ!何かミスを犯してみろ、役立たずは上に申請して処分してやる!」

柚は目を見開く。

次の瞬間には、砂漠が広がっていた。
柚には見慣れないが、使徒と思われる大人達がアシャラと戦っている。

大人達の手を逃れたアシャラが、一際小さい自分に狙いを定め、襲い掛かってきた。

初めての戦場に脅えていた少年は、恐怖に体を強張らせ、動くことが出来ず……
少年の顔を敵の刃が切り裂いた。

痛みに喉の奥から悲鳴が迸る。
顔を抑え、地面に倒れ込み、泣き叫んだ。

少年の額から、血が噴出すように溢れ出す。
血の勢いは凄まじく、目すら開いていられない。
傷を押える掌は真っ赤に染まっていた。

次第に呼吸がおかしくなり始める。
引き攣ったような短い呼吸を繰り返し、胸が苦しくなる――過呼吸だ。

それと同時、耳に奥に響くように声が頭の中で木霊した。

"血、血が……どうしよう、怪我"

少年の名を呼びながら使徒の仲間が駆けつけ、アシャラを追い払う。

"怒られる、嫌だ、恐い"

名を呼ぶ声が、鼓動に掻き消された。
一向に止まらない血に眩暈がした。

"どうしよう、どうしよう!皆に黙ってて貰うしか……でも、駄目だ。怪我を隠さなきゃ――"

少年の目付きが変わる。
がむしゃらに、投げ出した武器に手を伸ばす。

「うあぁぁああああああ!!」

少年の手が、大鎌を握り締めて振り上げた。

駆けつけた一般兵部隊の人間の体を刃が切り裂く。
掌に、骨ごと肉を裂く生々しい感触を感じた。

(やめろ……)

仲間の返り血が、肌に生暖かく降りかかる。

(やめてくれ……)

むせ返るような血の匂いに、吐き気が込み上げた。

「ハーデス……」

唇から、呟きが漏れる。
そんな自分の声に、瞼はゆっくりと起こされた。

起き上がるなり、柚は口を押えて洗面所に掛け込んだ。

水を流しながら、胃の中のものを全て吐き出す。
生理的な涙がぼろぼろと溢れ出した。

人を殺したのだ。
夢の中で、この自分の手で……
あまりにも生々しく、臭いと映像、そしてこの手に肉を裂く感触が残っていて忘れられない。

口を拭うと、時計に目をやった。
明け方の四時だ。

柚は部屋を出る。

廊下はすでに人影もなく、真っ暗闇だ。
足元を照らす照明灯が唯一の道しるべだった。





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