29


鋭い光が、鋭利さを物語る。

「焔!」

振り下ろされた刃が水の結界に弾かれ、フェルナンドの弓が大鎌に命中し、鎌を弾き飛ばす。
数歩よろめいて、ハーデスはふっと姿を消した。

「焔!!」

柚が焔に駆け寄る。
焔は刀を杖代わりに、倒れそうになりながらも踏み止まった。

そこに襲い掛かろうとしたハーデスを、フェルナンドの弓が遠ざける。

「無意味だろうけど、結界を張っておきな」

フェルナンドが叫び、木から飛び降りた。
柚が焔に周りに結界を張り、立ち上がる。

「ハーデス!もう止めろ!」

叫んだ柚は、はっと顔をあげた。

太陽の光を遮るように、覆い被さる漆黒の陰
獲物に飢えた獣のように、ギラギラとした双眸が柚を見下しながら、鎌を振り上げる。

"柚が笑ってると、俺もなんだか嬉しくなる"

そう言って、最後には気持ちを共有するように心を痛めてくれていたハーデスの顔が脳裏を過ぎった。

「ハーデス!」

訴えるように、柚が叫ぶ。
それでも、その声はハーデスに届くことなく……刃が柚に振り下ろされる。

その瞬間、フェルナンドの弓がハーデスの肩を貫いた。

「うっ……また、血がっ……」

ギラギラとした瞳が、憎々しげにフェルナンドを睨み返す。

ハーデスが体を翻し、フェルナンドに向けて姿を消そうとする。
柚は咄嗟に手を伸ばし、その腰にしがみ付いた。

しがみ付いた柚は、はっと顔をあげる。
ハーデスの瞳は一点を見詰め、心は何処か遠くにいる。

柚は息を呑んだ。

「隠さなきゃ……殺せ、みんな――…血を」
「ハーデス!」

柚は頭を振って叫ぶ。
逃がすものかと、腰にしがみ付く腕に力を込めた。

ハーデスが鎌を持つ腕を上げ、振り下ろす。
その刃が、柚の喉に触れる寸前で止められた。

「くっ……」

刀を大鎌に滑り込ませて押し止めた焔が、歯を噛み締める。
フェルナンドが矢を放った。

その弓を避けるように、柚はハーデスに足払いを掛ける。
二人は崩れるように地面に倒れこんだ。

止めを邪魔されたフェルナンドの怒声が聞こえたが、ハーデスに跨った柚はハーデスの頭を両手で抱え込む。

「歯ァ、食い縛れ!」

頭を振り被り、柚は渾身の力を込めてハーデスの額に頭を振り下ろした。

鈍い音が辺りに響き渡る。
柚の行動をいぶかしむ様に見ていた焔とフェルナンドも、思わず首を竦めた。

ハーデスが呻き声をあげ、柚自身も頭が割れそうな痛みに涙を浮かべる。
目の前に星が散っていた。

「お、おい……何やってんだ、お前」
「く、ぅ……やり過ぎた、痛い」

柚は涙を拭い、ハーデスの頬を両掌で包み込んだ。

「目、冷めたか……?」

穏やかに問い掛ける声に、返るのは呻き声だった。

柚はハーデスの顔を覗き込む。
零れ落ちたプラチナピンクの髪がハーデスの頬に触れた。

「ちゃんと見ろ、目の前にいるのは誰だ?」
「ゆ…ず……?」

「そうだよ」と、柚は微笑んだ。

「もう終わっている……戦わなくていいんだ、ハーデス」

確かめるように伸ばされた手を握り返す。
その手の冷たさに悲しくなった。

「俺……もしかして、また、やった?」
「それは……」
「ああ、そうだよ!最悪だ、さっさと西並を解毒してもらおうか。後遺症なんて残ったら僕がなんて言われるか」

フェルナンドが苛立った面持ちで爪を噛みながら、ハーデスを睨み下ろす。
柚はフェルナンドを睨みあげた。

ハーデスの手が顔を覆う。
長い前髪を自虐的に握りこみ、胎児のように背を丸めて横を向いてしまう。

それはまるで、殻に閉じこもるかのようだった。

「ハーデス……」
「また……ごめん、なさい、俺……俺また……」
「誰にだって失敗はあるさ。今回は皆軽症で済んだ、それでいいじゃないか」

「私なんて失敗ばかりだぞ!」と、柚は笑いながら付け加える。
だが、反応のないハーデスに柚の声は空回った。

「いいんだ……どうせ俺はいつもそうで……皆に嫌われて、迷惑掛けるくらいなら」

柚は呟くように、ハーデスの名を呟く。

「生まれてこなければよかった……」

呟きが、悲しい雨音に吸い込まれるように消えた。
柚は深く俯く。

沈黙を破るように、フェルナンドが鼻で笑い飛ばした。

「鬱陶しいね。なんて言って欲しいんだい?少なからず、ああ、そうだねとしか言ってやれないよ」
「フェルナンド!」
「煩いな」

咎める柚を一蹴するフェルナンドを、焔は横目で見やる。

「すぐに"どうせ"とか、"生まれてこなければ"とか言い出す奴を見ていると苛々する!ああそうだよ、使徒としての役目を果たせないなら価値がない」
「なんだよ、価値がないって!自分だって使徒だろ、物みたいに言うな!」
「決まってるだろう?僕を含め、使徒は皆人間の道具さ。使徒の価値は戦場での功績、それだけだ」
「戦場での価値なんて、政府や研究所の奴等が勝手に決めたものじゃないか!そんなもののせいで、アンジェもハーデスも苦しめられてる。そんなのおかしい!」
「君の方こそ、何を言っているんだ?戦場で功績も上げずにもてはやされているのは君ぐらいだよ。君のような理想主義は女に生まれたことを感謝するんだね!」

フェルナンドが柚に指を突き付ける。
声を荒げる柚に対し、淡々と捲くし立てるフェルナンド

柚はその勢いに蹴落とされるように、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「けど、男である僕達は違う。研究所組の連中なんて尚更だ。その為だけにつくられたんだからね。デーヴァを見な。中身は空っぽ、まさに奴等の理想通りの人形じゃないか」

嘲笑を滲ませたフェルナンドの言葉に、柚は音がなるほどに奥歯を噛み締める。
握り締めた拳に爪が食い込んだ。

「研究所がつくった使徒は皆欠陥だらけだ。その中でも最悪なのはこいつだね。こんな奴はさっさと廃棄処分すべきだ。どうせ隠居したって"種無し"じゃあ、リサイクルにもなりはしない!」
「お前ッ……」

柚が怒りを露わに立ち上がり、フェルナンドに掴み掛かった。

「言葉に対し、暴力を奮うのかい?」
「っ……お前、最低だ。本当に嫌な奴だな」
「地位を得る為なら嫌な奴にだってなるさ。それ以外、僕達使徒は何を目指すっていうんだい?他者に存在の価値を認められずして、何の為に存在するっていうんだ」

皮肉めいた笑みを浮べ、柚の反論を挟む隙も与えず、フェルナンドが捲くし立てる。
次第に強くなっていく語調と、険しくなっていく顔の奥には、何処か悲しさが揺らいでいた。

「その為に、この僕達をあんな場所に閉じ込めているんだろう?僕が今まで努力して積み重ねて来た人生の過程、全てを奪って」

胸倉を掴み上げていた手を叩き落とされる。
ギリリと握り締められた拳と憎しみに染まる瞳に、柚は戦慄を覚えた。

「君には分らないさ……」
「"女だから"って、言うのか?」

フェルナンドは、否定も肯定もせずに顔を背けた。
分るものかと、心の中で吐き捨てる。

「何処だって一緒さ。人の社会だって、学歴や経歴でその人間の価値を決める。下の者は切り捨てられていく、常識だ」

いい高校に入り、いい大学を卒業し、いい企業に就職し、出世を繰り返し……
両親の望むまま順調に歩んできた人生の過程を、ある日突然へし折られ、見ず知らずの人間に全く別の人生を歩めと言われた。

当然、そこの拒否権など存在しない。

テストでいい点を取れば親は喜ぶ。
就職が決まり、周囲にエリートともてはやされる度、誇らしげな母の顔がたまらなく嬉しかった。

例え自分の本当の欲求を抑えようと――…

放課後、遊ぶ約束をする同世代の子供達を見て、羨ましいなどと思うことすら、両親への罪悪感を感じた。
そんな自分の心を隠すように、周囲を見下した。
両親との話題も思いつかず、いつも勉強の話ばかりしていた。
塾の友人達と話しながらも、本当は常に競い合い、本心を語り合うことなどなかった。

親が望む通り、一度もレールを外れることなく、余所見もせずにただひたすら。

両親が喜べばそれが嬉しく、大して苦に思うこともなく、正しいのだと思えた。
頑張ってよかったと、心から思えた。

これからもそうして、ただ上を目指し、生きていくのだと思っていた……

両親の望みこそ、自分の望み。
だが、皮肉な事にそれすらが使徒の本能だったのだ。

"冗談じゃない、家の息子が使徒だって?息子をここまで育てる為に、一体どれだけ金が掛かったと思っているんだ!"
"そうですよ、それを横からいきなり。就職も決まって、この若さで来月には昇進なんです。この子の人生はまさにこれからなんですよ!"
"使徒であることのほうが、よっぽど素晴しいことですよ。それにご安心下さい。ご両親には政府より多額のお礼金が支払われます"
"え?"

二人の顔付きが変わった瞬間を、頭の中を真っ白にしたまま見ていた。

"有難う、フェルナンド。あなたは、何処にいても私達夫婦の誇りよ"
"リッツィの名に恥じぬよう、アース・ピースに入っても頑張るんだぞ?"

最後に両親に抱き締められた時、"此処に居たい"とすら、言えなかったのだ。
これから、何を目標に生きていけばいいのだろう?

"おめでとう、正確に使徒の適性が確認された。君は、中級クラス・第四階級ドミニオンだ"

両親の思い描く未来という目標を失い、虚空を見詰めたガラス球のような瞳から、何故か一筋……
涙が零れ落ちた。

俯いていた柚が、ゆっくりと顔を上げる。
その頬を、振り続ける雨の雫が撫でるように流れ落ちていく。

「人の価値は、学歴や力じゃない……」
「それは、君がまだ知らないだけさ。いや、嫌な事から目を逸らしているだけだ」
「確かに、そういうもので人の価値を決める人達もいる。けど、私はそういうのが嫌だって思ったんだ」

焔が柚の顔を見やる。

揺るぎない声だった。
雨の中、濡れる事をいとわずに開かれている瞳が、何故かとても優しい。

「ここにいるのは心を持っている人だ。例え誰かがそれは無意味だと言おうと、私にとっては心の方がよっぽど価値がある。ハーデスは優しい、ハーデスといると凄く落ち着く、ハーデスが好きだ。私にとってハーデスという人は、十分に価値のある人物だ」
「柚……」

ハーデスが、呟くように柚の名を口にする。

ハーデスは顔を伏せ、卑屈な笑みを浮かべた。
掌が泥を掴むと、地面には指の痕が五本残る。

「それはきっと、違うんだ。柚に優しくしたのは、柚の為なんかじゃない。きっと自分の為なんだ……」

柚が眉を顰めてハーデスを見下ろした。
言葉に力があるように、水気を吸った服が次第に重く感じてくる。

「俺はっ、なんだか今が好きで――だから、皆に嫌われたり、変な目で見られるのがもう嫌で……っ」

縋るように、泥に塗れた手が柚のそでを掴む。

しゃくりあげながら言葉を紡ぐハーデスが、まるで幼い子供に見え……
柚はその肩にそっと両手を添えた。

「俺は身勝手で、一人は嫌だから、皆と一緒がいいから、好きな人達に嫌われたくないから、皆と同じことをすればずっと皆と一緒にいられるかなって思った。柚が基地に来てから、皆が柚に興味を持っていたから、俺も柚に何かしなきゃいけないのかなって思った」

ぽつりぽつりと呟かれる言葉は、まるで許しを請う懺悔のようだ。
ハーデスの瞳から溢れる涙に釣られるように、目頭が熱くなる。

「そんなこと考えながら声を掛けている俺に、柚は皆と同じ様に接してくれて……嬉しかった。でも柚に有難うって言われると、違うんだって苦しくなって――」
「ハーデス……」

ハーデスの言葉を遮るように、柚は自分よりも大きな体に手を回し、そっと濡れた髪に指を通した。
「もういい」と、呟きが漏れる。

フェルナンドの足が、苛立ちを露わに水溜りを踏み付けた。

「さっきから黙って聞いてれば、苛々する!僕は君のそういうところが嫌いなんだよ!大体、周りの目を気にするのが一番くだらないね!」

フェルナンドは、勢い良く顔を上げたハーデスに指を突き付ける。
柚は、ハーデスと共に目を丸くしてフェルナンドを見上げた。

降りしきる雨を鬱陶しそうに、フェルナンドは顔に張り付いた髪を手で掻き上げて後ろに流す。

「自分の為で何が悪い!自分の為、当たり前じゃないか。人の為とか言ってる奴の方がよっぽど信用ならないね。そんな事を抜け抜けと言ってる奴がいたら、それは偽善ぶってるだけだって言ってやるよ!」

唾が飛び散りそうな勢いで、フェルナンドは一気に捲くし立てる。
唖然とした面持ちでフェルナンドを見ていた焔が、ふっ……と口元を緩め、瞼を閉ざした。

「いいかい?人の為って言っても、それは結局は皆自分の為にしてるんだよ。そいつに嫌われたくないと思うのは、自分が傷付きたくないから。そいつに喜んで欲しいと思うのは、そうすると自分が満たされた気分になるから。結局は自分の為だってことに、気付いてないだけさ!誰かの為なんて言葉は恩着せがましいんだよ!」

押し倒すように力を込め、フェルナンドの細い指がハーデスの額に押し付けられる。
ハーデスがびくりと首を竦め、目を閉じた。

「ふんっ」と鼻を鳴らし、フェルナンドは腕を組んでハーデスに背を向ける。

「そもそも、自分を嫌いだなんて言ってる奴が、人に好かれようなんておこがましいね!!」

突如、焔が声を上げて笑い出した。
むっとした面持ちで、フェルナンドが焔に振り返る。
すると、釣られるように柚も声をあげて笑い始め、フェルナンドは「何故笑う」と言いたげな面持ちで柚に顔を向けた。

「そうか!そうなんだよ、ハーデス!」

柚はハーデスの肩を叩くと、力を込めて抱き締める。
驚くハーデスに、顔を上げた柚が微笑んだ。

「周りがなんて言おうと、ハーデスの価値は私が認めてる。私が必要としている。だからもう、そういうのを気にするのは止めようよ」

雨の勢いが衰え始める。

「それから、ハーデスに"生まれてこなければよかった"なんて言われたら、私は悲しい。この先、もしハーデスに何か遭ったら、私は悲しくて泣くぞ?」

空の雲が割れ、太陽が顔を出した。
次第に雨音は柔らかな音へと変わっていく。

「ハーデスは、私が悲しんだら一緒に悲しくなるんだろう?だから私の為にも、もうあんなことを言わないでくれ」
「柚……」

雨が降り止んだ空を見上げ、柚は「力が尽きたな」と呟きを漏らした。
先程までの雨が嘘のように晴れ渡った空から、眩しいほどに太陽の光が降り注ぐ。

太陽が差し込む中、振り返った柚はハーデスの掌を差し出し、目を細めて微笑んだ。

「帰ろう、ハーデス」

太陽の光から逃れるように、ハーデスは目を眇めた。

平凡でいい。
ただ、皆と同じがいい。

輪の中心にいたいわけじゃない。
ただ、その輪に入れて欲しいだけだった。

"こっちへおいで?そんな日陰にいたら寒いよ?"

物陰からアスラやイカロス達を見詰めるハーデスを見付け、声を掛けてくれた人がいた。

差し出されたのは、当初の自分よりもずっと大きくて堅い大人の固い掌だ。
今、目の前にあるのは、自分よりも小さく柔らかな掌だった。

その人に手を振り払われたように、またこの手は、いつか自分の手を振り払うのだろうか?

それでも吸い寄せられるように……
ハーデスはその手を握り返していた。





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