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「下手に近付くな。そいつが毒を撒き散らす事、知ってるだろう?前に止めようとしたジャンは、あいつのせいで足を駄目にされてる」
「ジャンって……確か、支部にいるっていう人?」
「そう。アイツは暴走したら敵も味方も見境なしに皆殺しだ。能力も高い上に、戦闘向きの力をふたつも抱えてる。敵にすると厄介な奴さ」

柚と焔が息を呑む。

目に見える攻撃よりも、目に見えない攻撃の方が防ぎ難い。
ましてや、呼吸と共に体内に取り込んでしまう可能性がある毒は、回復にも時間が掛かる。

「なら、どうやって止めるんだ?」

ハーデスから目を離さず、焔は緊張した面持ちでフェルナンドに問い掛けた。

ハーデスの体が風に煽られるように揺れ、音もなく姿を消す。
一気に張詰めた緊張が三人を呑み込んだ。

フェルナンドが固唾を呑む。

「暴走といっても、暴走しているのは力じゃなく人格のほうだ。だから、気絶させるか強い衝撃を与えるしかない」
「だったら――…」

そこにいるのは、確かにハーデスだ。

自分の血に顔を赤く染め、開ききった瞳孔の瞳が彷徨い、聞き取れない声で先程から頻りに何かを呟いていた。
まるで何かに追い詰められたかのように、怯えたハーデスの姿
見ていて痛々しく感じ、瞼を閉ざす。

「私が行く」

柚は緊張した面持ちで名乗り出た。

「いくら自己治癒があったって追い付かない」

フェルナンドは柚の提案の意味を汲み取り、淡々と返す。

そのまま、フェルナンドは誰もいない空間に矢先を向けて構えて、弦を引き絞った。
薄い唇から忌々しそうに言葉を吐き捨てる。

「これ以上、僕の任務を滅茶苦茶にされて堪るか……次に現れたら心臓を貫いてやる!」
「ちょ、フェルナンド?思いっきり息の根止めそうな勢いの発言なんですけど!?」

柚がフェルナンドの腕を掴む。
フェルナンドは鼻で笑い飛ばし、口角を吊り上げた。

「当然」
「お、お前に任せられるか!やっぱり私がやる」
「ふんっ、ハーデスに勝てると思っているのかい?あっちは手加減なしで来るぞ。ハムサ相手に攻撃を躊躇っている君じゃあ、とてもじゃないけど問題外だね」

そんな二人の隣を、焔が通り過ぎる。

「おい、西並!」
「俺が行く。あんたはどう見ても接近戦に向いてねぇし、お前はまだ足が治ってないだろ」

二人が口を閉ざした。
背を向けて離れていく焔に、フェルナンドが声を掛ける。

「西並。僕と宮で援護する、深追いはするなよ」
「何?あんた、俺の心配でもしてくれてんの?」
「君の心配じゃないよ。指揮官として、任務で死傷者なんて出したら僕の指揮能力が問われるじゃないか」
「へいへい」

焔はひらひらと手を振りながら、中央に歩み出た。
はっとした面持ちで、柚が焔の名を叫ぶ。

「上だ!」
「上?」

焔は促されるままに上空に顔を向け、鞘ごと剣を翳した。
ギィィンと打ち付けられる金属音が響き渡る。

緩くなった土に足を取られそうになりながら、焔は大鎌を片手で構えるハーデスを見上げた。

ハーデスと目が合った瞬間、ゾクリと薄気味の悪さを覚えた自分に歯を食いしばる。
禍々しささえ感じるほど、ハーデスの瞳だけが爛々と輝いているように思えた。

「消さなきゃ……全部」

ハーデスの酷薄な瞳が焔を見下ろし、薄く開かれた唇から呟きが漏れる。

「ちィ!」

力を込め、焔は刀を押し返した。

投げ飛ばされるようにハーデスの体が一転し、柚が身を乗り出す。
上空に張った水の網から逃げるように、ハーデスの体はふっと上空で姿を消した。

柚の残念そうな声が響く。
フェルナンドが顔を引き攣らせた。

「ま、まさか、彼は気配を探れないんじゃないだろうね……」
「おーい、焔ー!目で追おうとするなよー」
「それは教官に聞いた!」

再び現れたハーデスの攻撃を受け止めながら、焔が柚に返す。

「じゃあ最終手段だ、自分のテリトリーを広げろ」
「はァ?意味わかんねぇ!」
「だから、空間を跨いで力を使うときの感覚の応用だ」

焔が刀を弾かれ、体制を崩した。
数歩よろけた足が大地を滑り、仰け反らせた上体の上を大鎌が切り裂く。

「自分の手の届く範囲全域に、網を張ってみろ!」
「……なるほど」

本来、距離を置いた攻撃は、攻撃目標の場所に力を送り込んでから具現化させる。
柚の提案はその応用で、自分の周囲にいつでも能力を出現させられる場所を蜘蛛の糸のように無数に張れというのだ。

そこの自分以外の力を纏った誰かが触れれば、必ず感知できる。

焔の鞘がハーデスを薙ぎ払い、掠りもせずにハーデスが消えた。

焔は周囲に目を走らせながら、耳を澄まし、目を眇めた。
心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。

木々のざわめき
柚とフェルナンドの気配

ゆらゆらと、不確かに……
炎が風に吹かれて揺れるかのように、決して見えはしないが、自分達の周囲を移動するハーデスの気配を感じた。

(目で追うな、気配を追え……焦るな、集中しろ)

精神統一――何をするにも付き物で、そのくせ一番嫌いでじれったくなる、苦手な訓練だ。

落ち着けと、自分に言い聞かせる。
緊張感が一気に高まった。

邪念を払うように瞼を閉ざすと、焔の視界は闇に染まる。
その中に、ひたり、ひたり……と、まるで暗闇に光る足音を残すように近付いてくるおぼろげな気配が一瞬、動きを止めて気配を消した。

(来る!)

感覚を研ぎ澄まし、糸のように自分の力を伸ばす。

(来い!)

張った弦を弾くように、自分の力を張り巡らせた空間にハーデスの気配が飛び込んできた。
その気配がはっきりと人の形を成す。

(そこだァ!)

確かな気配を捉え、焔が鞘ごと刀を薙いだ。

焔の背後から現れたハーデスの瞳が驚愕に見開かれ、ハーデスがぎりぎりで受け止めた。
そのまま、また姿を消して逃げようとするハーデスの足に水が巻き付き、這い上がりながら腕を絡めとる。

「捕まえたぞ、フェルナンド!」

柚が叫ぶのと、フェルナンドが弓を放つのはほぼ同時だった。

唸る矢尻の先で、ハーデスがゆらりと顔をあげる。

柚は、水がハーデスの足を締め上げるように絡み付いている感触を感じていた。
だが次の瞬間、一瞬にしてハーデスの姿が消え、柚は肩透かしを喰らったかのように喪失した感覚に目を見開く。

「そん、なっ……!」

矢はハーデスがいた場所を貫き、砕け散る。
フェルナンドが舌打ちを漏らし、慌しく周囲を見渡した。

「何をやっている!捕まえておくことも出来ないのか、君は!」
「捕まえてたさ!こう、ガッシリと!」

怒鳴るフェルナンドに、柚がジェスチャー付きで怒鳴り返す。
苛立ったように、焔が「うるせぇよ、お前等!」と叫んだ瞬間、焔ははっとその場を飛び退いた。

ハーデスの大鎌が木ごと空気を切り裂き、姿を消す。
唸る風の音を聞きながら、後方に跳んだ焔は息を呑んだ。

その背後から再びハーデスが姿を現し、大鎌を振りかぶって焔を切り裂く。

「いっ――!?」

左腕を切っ先が掠め、痛みを堪えながら焔は咄嗟に刀を薙いだ。

掠めることもなく、ハーデスの姿が消える。
焔は血が滲み出した腕を押さえ、自分が甚振られ、追い詰められていく感覚に戦慄した。

(落ち着け!姿を消して敵を翻弄し、精神的に追い詰め、集中力を削ぐ。これがあいつの戦術だ)

自分にいい聞かせる。

だが、一度追い詰められた精神はそう簡単に平静を取り戻せない。
手に汗が滲み、心臓が早鐘を打つ音にすら苛立ちを感じ始めていた。

「ちっ、集中を乱したな。西並、一旦こっちに戻れ!」

見兼ねたフェルナンドが、弓で援護をしながら焔に向けて叫んだ。

焔がそちらに顔を向けようとした時、背後にはっきりと気配が迫る。
焔は咄嗟に上体を捻り、刀を薙ぎ払った。

確かに気配を感じ、それを斬ったはず……
しかし感触はない。

雲のような白い塊が真っ二つに切り裂かれ、空中を漂っていた。

「ッ!?」
「吸い込むな!」

焦ったようにフェルナンドが叫んでいたが、すでに遅い。
肺に流れ込む酸素と共に、白い蒸気を吸い込んだ瞬間、視界がぐらぐらと揺れ始める。

「っ――…」
「焔!?」

柚の叫び声が、頭に痛いくらいに響いた。
周囲が歪み、今、自分が二本の足で立っているのかも分からない。

崩れ落ちるように膝が曲がり、地面に片手を付く。

ハーデスが膝を付いた焔の前に立ち、鎌を振り翳した。





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