27


「ちっ……」

ハムサが舌打ちを漏らし、周囲を見渡す。
気配を追って移動しようとしたハムサは、何かにぶつかる。

「っ……!氷の壁?馬鹿にしやがって!」
「無闇に動くな」
「うるせぇ!」

アルヴァの声を遮り、ハムサが雷を纏う。
その瞬間、背筋をぞっとしたものが走る。

ハムサとアルヴァの間を大鎌の刃が裂いた。

二人が飛び退くと、僅かにアルヴァの視界に薄く刃が映る。

飛び退いたアルヴァの目前を鎌が裂き、二撃目を受け止めたアルヴァは、背後から迫る炎の気配に身を翻した。
炎が一瞬周囲を照らし、アルヴァの背が氷の壁にぶつかる。

「うっ……」

力の気配を、いくつか感じた。

「ちっ、今のはアルヴァとかいう奴のほうか……」

敵の呟きが耳に届く。
アルヴァは、「くっ」と喉を鳴らした。

(これでは敵の思う壺だ……冷静に)

「!?」

背を付く氷の壁が、パキパキと不気味な音を立て始めた。
氷の壁から生えた鋭利な氷柱が、襲い来る。

飛び退こうとしたアルヴァは、突如腕に針を刺すような痛みを受けて目を見開いた。

腕が淡く光っている。
腕に貼り付いている燐光のような氷の結晶が、肌に食い込み、血を滴らせていた。

(これは、先程砕いた氷の矢の残骸!先程の戦闘での攻撃はこの為の――しまった!)

慌てて飛び退いたアルヴァの顔を、氷の壁から伸びた刃が掠める。

面の紐が千切れ落ちた。
手で面を押さえたアルヴァは、はっと顔をあげる。

僅かに晴れた視界の中に、人影が浮かび上がった。

(しまった!黒髪……ハムサではない。何にせよ、顔を見られるわけには――)

鎖鎌を握る手に力が籠もる。

足を一歩、前へと踏み出す。
焦りと緊張感が体を支配していた。

アルヴァの鎖鎌が、相手の体を袈裟懸けに切り裂く。
それと同時、相手の刃がアルヴァの脇腹を掠めた。

確実な手応えを感じ、相手の呻き声を聞く。

その時、ぽつりと何かが手に降り注いだ。
空を見上げると、ぽつぽつと大粒の雨が肩を打つ。

いつの間にか、空にはどんよりとした灰色の雲が覆い尽くしている。
雨音が耳に届き始めた。

霧が次第に晴れ始め、視界が透き通っていく。
服が水を吸い、炎が雨に呑み込まれて行った。

鼓動が雨音を遮る。
鎌に付いた血を、雨が洗い流していく。

肩で息をしながら、アルヴァは目の前に膝を付いて座り込んでいる人物を、信じられない気持ちで見詰めていた。

「ハム、サ?」
「アルヴァ、てめぇ……!」

アルヴァの驚きの声と、ハムサの怒りの声が重なる。

「違う!私は確かに敵を――!」

はっと振り返った二人の視線の先に、柚を囲むように立つフェルナンドとハーデス、そして焔がいた。
山全域に降り注ぐ静かな雨音が、妙に頭の奥底にまで響き渡る。

「まさか……」

アルヴァは無意識に呟きを漏らしていた。

「そう。君達は宮が発生させた霧と一緒に、ハーデスが流した幻覚作用のある毒を吸い込んだのさ」
「ユリアほどの威力はないけど、視界の悪い中でなら効果は十分だったようだね」

フェルナンドの言葉を補足するように、ハーデスが呟く。
ハムサが拳を握り締めた。

「とはいえ、君達が冷静ならば気配で仲間と敵の位置を確認出来る。だからそうさせない為にも、考える時間を与えず、仲間同士が遣り合うように僕達が追い詰めていった。これでご理解頂けたかな?」
「嫌な性格だな……お前」

得意気に説明をするフェルナンドに、柚は半眼でぼそりと呟く。

雨の雫が水面を揺らす。
地面が水を吸い、色を変える。

雨を降らせながら、柚は静かに立ち上がった。

「この雨でもうすぐ山の火は消える。お互い、これ以上の戦闘は無意味だ。アルヴァ、ハムサを連れて帰ってくれないか?」
「……」

アルヴァが座り込むハムサを見下す。
殺気立った面持ちで、ハムサは奥歯を噛み締めている。

沈黙が広がる中、アルヴァは体から力を抜き、静かに頷いた。

「そう、致しましょう」
「有難う」

柚が頷き返し、凛とした笑みで返す。

アルヴァが踵を返した瞬間、ハムサが吠えた。
驚く柚と焔の間を貫いた雷が、弾け跳ぶ。

「舐められたまま戻れるかァ!?」
「止めろ、ハムサ!」

アルヴァの制止を無視して放たれたハムサの雷が、四人の周囲を飛び交う。

焔が刀で雷を切り裂き、フェルナンドが雷をかわして立ち回る。
ハーデスは柚を抱え込み、空間を飛んだ。

木の上に着地したハーデスに、ハムサが背後から切りかかった。

振り返ったハーデスの額から鮮血が飛び散り、柚は悲鳴をあげる。
ぐらりと傾いたハーデスの体が木から落ち掛け、ハーデスの体は柚と共に姿を消して地面へと降りた。

「ハーデス!大丈夫か、ハーデス!」

膝を付いた蹲ったハーデスに柚がおろおろとして声を掛けるが、ハーデスは座り込んだまま反応がない。
慌てふためく柚の背に、フェルナンドが声をあげた。

はっと振り返った柚に、ハムサが切り掛かる。
柚は飛び退いて、右手を翳した。

降り注ぐ雨の雫が剣山のような棘となり、ハムサに襲い掛かる。
ハムサは攻撃を受けることを恐れず、真っ直ぐと突っ込んで来た。

「っ!」

柚は攻撃を躊躇った。

ハムサの血走った瞳が柚を映し、残虐に口角を吊り上げて笑う。
獰猛な獣が鋭利な爪を翳すように振り下ろされた攻撃に柚が動けずにいると、その前へとアルヴァの背が割り込み、攻撃を受け止めた。

「引け、ハムサ。これ以上暴虐を働くというならば、アダムにその"名"を返す覚悟とお伝えする」

低く放たれた一言と共に、ざわめくように威圧的な気配が放たれる。
柚はぞっと身震いをした。

ハムサが舌打ちを漏らし、姿を消す。

アルヴァは自分を見上げる柚へと振り返り、膝を折ってその手を取った。

「お怪我はありませんか、エヴァ」
「……な、ない」

ぽかんとしていた柚は、慌てて首を横に振る。
仮面に隠されて顔は見えないが、アルヴァのほっとする気配がした。

「それでは、私はこれにて」
「あ、えっと……アルヴァ?」
「はい」

落ち着いた声が、呼び止めた柚に振り返る。

「有難う」
「礼には及びません」

アルヴァの姿が森に消えた。

その姿を見送っていた柚に、フェルナンドがずかずかと歩み寄る。
途端にフェルナンドの怒声が飛んだ。

「敵に有難う何て言う馬鹿が何処にいる!?」
「ここにいるだろ、ここに!!」
「開き直るな、報告書に書いてやる!」
「か、書けよ、勝手に!それよりハーデスが怪我したんだ」

柚は、蹲るハーデスに振り返った。

「ハーデス、ちょっと怪我見せて?」

俯いたままのハーデスの顔を覗き込むように、柚は声を掛ける。
額を押さえるハーデスの指と指の間から、ぽとり……と、血が流れ落ちた。

次第にハーデスは肩を揺らしながらくつくつと笑い声をあげ始め、柚と焔はぎょっとする。

その瞬間、ハーデスの手が柚の首を掴み、柚は背中から地面に倒れこんだ。

「ぅ、あ!」

首が折れそうなくらいの力に掴み掛かられ、柚は苦しさに足を暴れさせる。

焔が慌ててハーデスを羽交い絞めにして柚から引き剥がすものの、ハーデスの手は執着するように再び手を伸ばそうとした。
ハーデスの力強さに焔が眉を顰めてフェルナンドに振り返る。

青褪めたフェルナンドが肩を怒らせた。

「冗談じゃない!暴走だ!」

フェルナンドがハーデスに向けて弓を構える。
驚く焔の制止も聞かず、フェルナンドは弓を引いて放った。

風を切って放たれた氷の弓矢は、ハーデスに触れる寸前でその対象を失う。

「なっ!――ぅ」

突如腕の中から消えたハーデスの代わりに、矢は焔の腕を掠めた。

「てめぇ!?」

フェルナンドに向けて怒鳴り声をあげた焔の背後にハーデスが舞い降り、大鎌を振りかぶる。
血相を変えて鎌の軌道をかわした焔が、転がるようにハーデスから逃げた。

「こっちに来るぞ!」
「お、おい!?」

フェルナンドの隣に逃げ帰っていた柚が声をあげる。

その体が小刻みに震え、だんっと蹴られた地面に水飛沫があがった。
それと共に、ハーデスの姿が消える。

「接近戦に持ち込ませるな、距離をとれ」
「だから――ッ!」

何故仲間をハーデスが襲うのか、何故戦わなければならないのか……

はっとした柚の目前で、刃を振り下ろそうとするハーデスの姿が飛び込む。
あまりにも一瞬の出来事だった。

「空気を吸い込むな!」

「そんな無茶な!」と、柚は言い掛けた言葉を呑み込んだ。

ハーデスの大鎌が振り下ろされ、水を含んだ土を抉る。
後ろに跳んでかわした柚に、ハーデスは鎌を抜いて横薙ぎに払う。

金属音が響き渡り、鎌を水を固めた棒で受け止めた柚が、ぎりりと歯を食い縛る。
その額から頬へと汗が伝い落ちた。

ハーデスの背後から、フェルナンドが弓を一斉に放つ。
ハーデスは勢いをつけて上体を捻り、矢を全て叩き割った。

その隙にハーデスから距離を取った柚に、焔が駆け寄る。

「どーなってんだ、ハーデスは」
「私が知りたい……」

げんなりとしながら、柚は痺れる腕の握力を確かめるように手を開いて握った。
木の上に降りたフェルナンドが、忌々しそうに吐き捨てる。

「ソイツは任務中に暴走して、何度か仲間の一般兵まで殺してるんだよ」
「だから、"死神"か」

焔がぼそりと呟きを漏らす。
柚の手が、ハーデスに締められた首に触れた。

柚がハーデスを見やる。

「止めなきゃ……」

呟くように告げた言葉は、あまりにも唐突で受け入れがたい現実に微かに震えていた。





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