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(言い過ぎたよな、っていうかシェリーの事とか言うつもりなかったのに!……けど、そもそもいきなり怒り出したアスラが悪いのに、私から謝るなんて屈辱だ)

考え込みながら歩く柚は、蹲るアンジェに躓いて勢い良く地面に倒れこんだ。

「ううっ、いたた――って、うわ!アンジェ?ごめん、大丈夫か?」
「柚、お姉ちゃん……?」

柚に蹴り飛ばされて倒れるアンジェが、ゆるりと顔をあげた。
その濡れた頬に驚き、柚はアンジェの前に膝を折ってしゃがみ込んだ。

「どうした?ライラと喧嘩でもしたのか?」
「ううん、違うよ」

アンジェは慌てたようにごしごしと顔を擦ると、苦笑を浮かべて首を横に振った。
その仕草が妙にいじらしく感じ、柚は顔を顰める。

「じゃあ、玉裁か?それともフェルナンド?」
「ううん……誰も悪くないよ。僕が悪いんだ」

柚はアンジェの隣に座り直し、首を傾けて「本当に?」と問い掛ける。

アンジェは気性が穏やかで、思いやりのある子供だ。
誰かに迷惑を掛けるようなことをする子ではなく、むしろ逆に神経質なくらいに人に気を使い、顔色を窺っている。
そんなアンジェが、人に迷惑を掛けるようには思えなかった。

アンジェは小さく頷き、ぽつりと呟くように告げる。

「僕が弱いから、駄目なんだ」

幼い子供の自責と諦めが入り混じる声に、柚は僅かに目を見開く。
心配を掛けまいと、アンジェは鼻を啜りながら小さく笑った。

政府は、使徒の能力を大きく上級・中級・下級の三段階のクラスに分けている。
さらにランクは九段階に別れており、アンジェは下から二番目の階級"アーク"になる。

兄であるアンジェが、下級クラスの第八階級アーク
弟のライラは、中級クラスの第六階級ポテンティアス

同じ血を分け合った双子の兄弟は、周囲に比較されることも多い。

アンジェにとってそれは辛いことだろう。
柚はアンジェを抱き締め、声を上げた。

「それの何がいけないんだ!」

怒りを露わにする柚に、アンジェが怯えたように首を竦めるので、柚は慌てる。
アンジェの柔らかな髪に、くしゃりと指を通す。

「ごめん、アンジェは悪くない。アンジェに怒ったんじゃないからな?」

小さく頷き、顔をあげたアンジェは「分かっているよ」と言うように、儚さの入り混じる微笑みを浮かべて返した。

柚はため息を漏らす。
アンジェに怒鳴りかかるなんて、自己嫌悪が込み上げる。

「研究員の連中がそんなこと言ったんだな?次にそんなことをいう奴がいたら、私が土下座させて謝らせてやる」
「そんなことしたら、今度は柚お姉ちゃんが怒られるよ」

拳を握り締めて鼻息を荒くする柚に、アンジェはまるで少女のようにくすくすと笑い声を漏らす。

柚は、驚いてアンジェを見下ろした。
アンジェがこうして心から笑っている姿を見るのは初めてだ。

柚は髪を撫でるようにアンジェの頭を抱き込む。
心地が良さそうに目を細め、アンジェは微笑んだ。

「柚お姉ちゃんが僕なんかの為に怒ってくれただけで、僕には充分だよ」
「アンジェ!」

柚は、もどかしい気持ちでアンジェの顔を見下す。

アンジェは、有難うと微笑んだ。
だが柚には、アンジェが本心で受け止めてはいないような気がした。

柚の言葉を疑っているわけではないのだろう。
ただ、アンジェは悪く言ってしまえば卑屈――柚にはそれがもどかしく感じるのだが、アンジェは自分という存在を価値のあるものだと認めようとはしない。
その価値を否定されてきた為、そう思えなくなってしまっているのかもしれない。

「せめてな。私の力と交換とか、してやれればいいのにな」
「柚お姉ちゃんと?どうして、折角お姉ちゃんは"スローンズ"なのに」

研究所で生まれた者にとっては、政府の為に働くことに意義を見出す。
幼くとも、それは絶対だ。

「女は面倒なんだよ。男に生まれたかったなってつくづく思うな。ライラはそういうことないのか?女に生まれたかったとか……そうだ、ライラになりたかったとか」

少しの間考え込み、アンジェにしては珍しくはっきり、「ない」と否定の言葉を口にする。
不思議そうにする柚の顔を見て、アンジェは苦笑を浮かべた。

「だって、そうしたらライラが僕みたいに悲しい想いをするから」

言葉が胸を締め付ける。
いじらしい優しさに、柚はぎゅっとアンジェを抱き締める。

「私がライラなら、こうしてる」
「ライラはそんなことしないよぉ」

アンジェが照れたように返した。

それだけアンジェを強く想っていると伝えようとすると、言葉よりも体が動く。
柚はさらに腕に力を込めた。

「アンジェはライラがいて幸せだけど、ライラもアンジェがいて幸せだな」
「そうかな?僕お兄ちゃんなのに、ライラに迷惑掛けて怒らせてばっかりだけど……」
「それは、ライラがアンジェを愛しているからだよ」

柚は呟くように言葉を紡いだ。

慎也が、伝えるつもりのなかった気持ちを口にしてまで伝えようとした事が、少しだけ分かった気がする。
柚は、改めて自分の言葉を悔いるように瞼を閉ざした。

目を瞬かせたアンジェが、心配そうに柚を見上げる。

「また、具合が悪い?」
「え?ああ、違うんだ。もう大丈夫」

柚は苦笑を浮かべて返す。
子供にまで心配を掛けていた自分が情けない。

アンジェの大きな瞳が、心配するように柚を見上げて瞬く。

そうやってアンジェが親身に人の心配をするように、自分達も――ここにいる使徒も、アンジェを心配しているのだと伝えたかった。
だから、自分が価値のないモノだと思わないで欲しい、もっと自分を愛してやって欲しい。

だがきっと今は何を言っても、彼の心の常識を覆すことは出来ないのだろう。
柚はアンジェの頭を撫でながら、思いに耽った。

ハーデスの悲しみを、アンジェが引き継いでいる。

それを、いつか誰かが止めなければならないのだ。
焔がしてくれたように……

柚は立ち上がり、アンジェへと手を差し出す。

「ライラがきっと捜してるぞ?迎えに行こう」
「……うん」

差し出した手に、アンジェの手がおずおずと重なる。
少し体温の高い幼い手が、柚にはとても儚く頼りないものに思えた。

捜し始めた二人は、すぐにきょろきょろとしながら歩いているライラを見付ける。
柚は後ろからライラを抱きすくめると、さほど驚きもせずにライラが振り返った。

「柚姉?重いよ」
「重くて悪かったな、アンジェが捜してるぞ」

柚は凭れていたライラから体を離し、手を引く。
柚に引っ張られて走りながら、ライラは呆れた面持ちで溜め息を漏らした。

「自分からいなくなったくせに……本当、しょうがない奴」

口ではそう言いながらも、ライラはいつもアンジェの傍にいる。
アンジェも、ライラの傍に戻っていく。

「どうせ、またうじうじしてたんでしょ。あいつ等の言う事なんて気にするなって言ってるのに……」

柚は苦笑を浮べ、ライラの頭を撫でた。
ライラが不満そうに顔をあげ、やんわりとその手を押し退ける。

「子供扱いしないでよ」
「ちぇ」

柚は口を尖らせた。
アンジェが笑顔で駆けて来る。

「あ、ライラ!」
「アンジェ!何処行ってたんだよ、勝手にいなくなるなって言ってるだろ」
「ごめんね、ライラ」

怒ったように口を尖らせるライラと、慌てて謝るおっとりとしたアンジェ
彼等の救いは、一人ではないことだ。

アンジェの背を押しながら、ライラが見守る柚へと肩越しに振り返った。

「ありがと」

恥ずかしそうに小さく呟くライラに、柚はきょとんとした面持ちで目を見開く。
柚は、咄嗟にアンジェを呼び止めていた。

不思議そうに、アンジェとライラが振り返る。

「ここでは力を求める人達が多いかもしれないけど、人の価値は力とかで決めるものじゃない筈だ」

アンジェが、あどけなくゆっくりと首を傾けた。

「私は、そう思ってる……」

呟きは、願いのように溶けていく。

穏やかな風が、吹き抜けていった。
太陽は沈み、今は月が淡く輝く。

屋上への梯子を上ってきたユリアは、先客を見付け、一瞬動きを止めた。

「また、君?」

迷惑そうに呟くユリアに、柚は小さく笑って返す。

「さっきヨハネス先生に、間違って頼み過ぎちゃったってケーキのお裾分けを貰ったんだ。お裾分けのお裾分け」
「甘い物は嫌いだよ。この僕が醜く太ったらどうしてくれるんだい?」
「細いくせに、細かいことを気にするなよー」

柚は不服そうに口を尖らせる。

「でも、嫌いなら私が貰う」
「醜い脂肪の塊は、その胸にだけ留めておきなよ」
「ムカツク……ユリアに言われると、より一層ムカツク」

カップに入ったケーキを食べながら、柚は不機嫌に呟いた。

斜に構えた笑みを浮かべ、ユリアはいつもの定位置にごろりと寝転がる。
ユリアは来る者を拒みはしない。

「明日は大統領の護衛か……」
「何も起きはしないさ。あちらの御国も今回は様子見ってところだろうね。神森も今は動かないだろうし、陸軍が配備されるからエデンも無駄な事はしない」
「そっか……」

柚は月を見上げた。
ユリアは、くすりと笑みを浮かべる。

「回りくどいね」

柚は、瞼を閉ざすユリアに視線を向けた。

「そんな事を言いに来たのかい?」
「……ユリアは、本当に鋭いな」

諦めたように苦笑を浮かべ、膝を抱える。
揺り籠のように前後に揺れる柚は、小さく口を開いた。

「私達を分かってくれる人はいるんだ。それなのに、一番近くにいる研究所の人達は私達を研究対象としての価値でしか見てくれない。人と使徒が対等になることは出来ないのかな?」

ゆっくりと、ユリアの瞳が柚へと向けられる。
全てを見透かすように澄んだ、青の瞳だ。

柚は視線を膝に落とす。

「なら、外の世界は違った?全ての人間が対等だったかい?」

くすりと、耳に残る嘲笑
試すように、向けられる言葉

柚は思わずユリアの顔を見て口篭る。

長引いた戦争により、今や人種は一部の地帯や国家に分布するものではなくなった。
とはいえ、人種による差別は今も消えてはいない。

それだけではない。

豊かな者、貧しい者
優れた者、劣った者

世界は決して、対等どころか平等ですらない。

柚は顔を曇らせ、俯いた。

「違った……」
「君は素直だね」

ユリアが瞼を閉ざす。
人を食ったような顔は、やはりいつもと変わらず神々しいほどに美しい。

そこにいて、そこに存在していないかのように、彼は一歩退いたところから世界をただ悠然と見下ろしている。

「答えはもう、決まっているんじゃないの?」
「……」

ユリアと目が合った。
「仕方がないな」と、彼の瞳が語っている気がする。

「すでに始まっていることをリセットすることなんて、出来はしない」

「口にしてしまった言葉を、取消すことが出来ないようにね」と、ユリアの涼しげな声が呟く。
柚は目を見開き、俯いた。

ユリアの悠然とした眼差しが月を見上げる。

「だったらいっそ、変えていくことの方がよっぽど価値のあるものだと思うね、僕は」
「変えていくこと……」

柚は、空を見上げて呟いた。
穏やかな風が、背中を押すように吹いてくる。

柚はぼんやりとしながら、部屋に戻った。

だが、部屋に戻ってもシェリーの姿がない。
部屋の電気は付いたままだった為、すぐに戻ってくるのだろう。

カップケーキに視線を落とし、柚は溜め息を漏らした。

「何処か、行ってるのかな」

呟きを漏らした柚は、カップケーキを手に焔の部屋のインターフォンを鳴らした。
中から話し声が微かに聞こえてくる。

「焔、こっちにシェリー……」

ドアを開けた柚は目を見開いた。

その拍子にカップケーキがひとつ転がり落ち、焔に抱き付いているシェリーの足にぶつかって止まる。
シェリーが青褪めて振り返った。

「ぁ……」
「柚」

焔が驚いた面持ちで呟く。
そして、思い出したように抱き付くシェリーの体を押し返す。

「ちょっと待て、これは!」

焔は、柚の中で誤解が広がっていくのを感じた。
慌てて否定をしようとする自分の焦りに、焔自身が戸惑う。

「ご、ごめん……邪魔した。ほんとごめん。あ、後これ、ヨハネス先生から焔とシェリーの分のケーキ。じゃ、じゃあごゆっくり!」

柚はあたふたとした様子で、棚の上にふたつのカップを置き、二人と目を合わせずにドアを閉める。

慌てて追い掛けようとした焔の足が転がったままのカップケーキを蹴り付け、はっと視線を落とし、足を止めた。
スポンジが潰れ、カップの中に生クリームが散乱している。

止めようとして伸ばし掛けた手が、結局呼び止められないまま途方に暮れた。

「っ……」

苛立ちに舌打ちが漏れる。
青褪めて立ち尽くすシェリーに、焔は怒鳴り掛かりたい衝動を堪えた。

「あ、あの……」
「俺はアスラ・デーヴァのようにはならない。分ったらさっさと出てけ」

焔は落ちたカップケーキを手に取り、シェリーに押し付ける。
おずおずと部屋を出て行くシェリーに背を向けたまま、焔がぐしゃりと髪を握りこんだ。










目指す先から、太陽の光が差し込んできた。

贔屓にしているアシャラを数名連れ、光に向けて足を踏み出す。
暗い通路を潜った後の太陽の光は眩しすぎた。

目を細めて太陽を睨みあげた少年の髪は、炎のように赤い。
鋭く飢えた眼光が、人の気配に気付いて目を眇めた。

「何処にいくつもりだ、ハムサ」

淡々とした声が響く。

ハムサと呼ばれた少年は、忌々しいと言わんばかりの面持ちで入り口の壁に寄りかかって立つ少年に視線を向けた。
少年に向け、ハムサは威嚇するように大股で歩み寄り、睨み付ける。

「うぜぇな、俺が何処へ行こうと関係ねぇだろ」
「そうはいかない。お前の素行の悪さは目に余る」
「だったらなんだ?アルヴァお坊ちゃまよォ。お父上の威光でその地位にいられること、忘れるなよ」
「下賎な……私の父が誰であろうと、アダムは誰に対しても平等だ」

アルヴァは不愉快そうに眉間に皺を刻んだ。

「お前の素行がサラーサ殿の風評までをも落とすことになると、何故分らない」
「兄貴は関係ねぇだろ!てめぇ、ぶっ殺すぞ」
「それが浅はかだと言っているのだ」

掴みかかって来たハムサに動揺も見せず、アルヴァはその手を振り払い、服の乱れを正す。
ハムサは頭に血を昇らせ、アルヴァを睨み付けた。

「その愚かさで、危うくアスラ・デーヴァに首を取られそうになったこと、忘れたか」
「っ――うるせェ!?」

ハムサの周囲に雷が弾ける。
腕で顔を覆ったアルヴァは、消えた気配に腕を下ろし、眉を顰めた。

ハムサとアシャラ達の姿が忽然と消えている。

「……愚かな」

小さな呟きを漏らし、アルヴァは眉を顰めた。





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