ジョージは夕日が差し込む一室で、一日の訓練データを纏めた資料を差し出した。

「最近、柚は向上傾向にあった成績が急降下したりと非常に不安定になっています」

水色の瞳が僅かに眉を顰める。

特殊能力部隊"アース・ピース"の元帥を務める青年はまだ若いが、充分に貫禄を兼ね揃えていた。
人形のように表情を映し出さない秀麗な顔立ちをしていながら、その整った顔すら他者を威圧する要素となっている。

若いながらも部隊最高位の地位を担う青年"アスラ・デーヴァ"は、差し出された資料を手に取り、一通り目を通した。

「焔は?」
「安定しています。しかし焔はすでに基本が出来上がっていたのであまり比較の参考にはならないかと。柚は、今までの前例と比較しても、参考になるデータがありませんでした」
「……そうか」

能力は生まれつき備わっているものの、覚醒のタイプは様々で、生まれたときから力に目覚めている者もいれば、後天的に目覚める者もいる。

柚と同時に保護された西並 焔(にしなみ ほむら)も柚同様の後天性ではあるが、保護した時点で焔は自分が使徒であることを自覚しており、ある程度力の扱い方を理解していた。
だが柚の方は覚醒前であり、指摘されるまで自分が使徒であるという自覚が全くなかったのだ。

「柚は元々気分によってムラの多いタイプでしたが、ここ数日はそれが極端です。本人も、ここ一週間ほどの不調に相当苛立っている様子ですね」

ジョージは訓練時の様子を思い出し、ため息を漏らす。
使徒医師"ヨハネス・マテジウス"は、ジョージの資料をみて眼鏡を押し上げた。

「スランプかもしれませんが……女性ということが関係している線も捨てられませんね。一応、研究部に報告をしておくべきかと思います。思い当たる点もありますし、私の方からしておきましょう」
「任せる」

ヨハネスの言葉に、アスラは静かに頷く。

アスラは部屋を出て行くジョージとヨハネスに背を向け、机の上に置かれた真新しい雑誌に視線を向けた。

積み上げられた雑誌の表紙で、目を惹き付ける淡いプラチナピンクの髪を揺らし、まるで別人のようにおっとりと微笑む柚
その一冊のみではない、机に積み上げられた雑誌のほとんどを、彼女の華やかな微笑みが飾っている。

政府は使徒に多額の資金をつぎ込んでいた。
アース・ピースへの出資に国民が難色を示せば、その存続すら危うくなる為、政府は広報活動に余念がない。

政府の政略とアース・ピースの活躍あって、テロと戦う使徒達を、人々は英雄と称賛している。
その人気を維持する事が必要だ。

政府はアジア帝國初の女性使徒ということもあり、国民からの注目度が高い柚を大いに活用している。
いまや、"宮 柚"という名を知らないものがいないくらいだ。

柚は取材の他にも、政府に出向く度にアスラの護衛として指名された。
使徒の力が未完成の柚を、名目だけでも護衛として指名する政府の意図など計り知れる。

政府は使徒と使徒の間に生まれた純血の二世を欲している。
その為、政府に忠実なアスラと柚を常に隣に並べておくことで、世間に二人が定められたものであるという印象を植え付けようとしていた。

雑誌を彩る別人のような柚から目を逸らし、アスラは眼差しを窓の外へと投げる。

ブラインドから差し込むオレンジの光は、広がる森を神々しく照らす。
一見、広大な森林だが、その先には使徒を隔離するように高い塀が聳え立ち、厳重なセキュリティーが幾重も網を張っていた。

しがらみに囚われることのない鳥達が列を成し、巣へと帰っていく。



今日もまた、一日が終わりを迎えようとしていた……



汗が額から頬へと流れ落ち、顎のラインを撫でるようにしてぽとりと地面に吸い込まれていく。
木刀を振り下ろした少年の黒髪が、空と同じ、茜の色に染まっていた。

森のサイレンが響き渡る。
それは夕刻を知らせるものだ。

気が付けばカラスの鳴き声が森に響いていた。
長く伸びる影が周囲を囲む木々の影に紛れ、その影すら沈む太陽の恩恵である光を失い、あと少しで消えようとしていた。

西並 焔は茜色の空を見上げ、もうこんな時間かと、心の中で呟く。

日が沈む間隔が大分早くなった気がした。
空が青から茜に、茜から闇に変わるように……季節も変わろうとしている。

木に掛けておいたタオルを手に取り不快な汗を拭うと、風が肌寒く感じた。

季節の変化を感じ、感慨に浸りそうになる自分に自嘲を浮かべる。

少ない荷物を片付けると、焔はポケットに手を突っ込み、森の出口へと向った。

帰り道が遠く感じる。
森を抜ける頃にはすっかり日が落ち、施設からは人口の光が降り注いでいた。

その近くで、焔は木に凭れて眠っているいくつかの人影に気付いて足を止める。

一人は柚だ。
その柚にぬくもりを分け与えるかのように凭れて眠る双子の兄・アンジェと、建物から漏れる光を頼りに本を読んでいた双子の弟・ライラ

"天使"という名を付けられただけの事はあり、まだ幼い二人の顔はあどけなく愛らしい。
だが二人の性格は正反対で、同じ顔の造形をしていながらも受ける印象は全く違う。

顔を上げたライラが、愛嬌のない面持ちを焔に向けた。
その気配に気付いたのか、アンジェが目を覚ます。

「風邪ひくぞ。お前も目悪くするぜ」
「……焔兄こそ、随分遅くまで自主トレ?柚姉といい、毎日よくやるね」

ライラは焔に一瞥を投げながら本を閉じ、すくりと立ち上がった。
焔は眠る柚を見下し、「こいつもやってたのか」と声のない呟きを漏らす。

「柚姉は途中で寝ちゃったけどね」

ここ最近、調子が出ないようで相当苛立っている様子だったことには気付いていたが、規定の訓練時間以外にまでトレーニングをしているとは思わなかった。

同時期に入ったとはいえ、柚は注目を浴びる"女"で、政府に利用されて多忙を極めている。
その間を縫って自主的にトレーニングなどしていたら、休む時間など殆んどないのではないかと思えた。

「アンジェ、行くよ」

慌てて後を追うように立ち上がったアンジェが、寝息を立てている柚をおろおろと振り返って見やる。
気の弱いアンジェは、立ち上がっても起きようとしない柚を心配しているが、声を掛ける勇気がない。

身兼ねたライラは閉じた本を小脇に抱え、さして心配した様子もなく焔に告げた。

「柚姉、具合でも悪いんじゃないの?」
「え?や、やっぱりそうなのかな?ヨハネス先生呼んで来る?」

アンジェが今にも泣き出しそうな面持ちになる。
そんなアンジェが、小さくくしゃみを漏らした。

焔も汗が引き、肌寒さを感じ始めている。
溜め息を漏らし、焔は片手を腰に当てた。

「お前等はさっさと中入れ」
「だってさ――行くよ、アンジェ」
「え、でも柚お姉ちゃんが」
「焔兄が、面倒見たいんだってさ」

顔を引き攣らせる焔に向けて肩越しに振り返ったライラは、にやりと歳不相応の笑みを浮かべる。
間違っても、アンジェには出来ない笑い方だ。

心配そうに何度も振り返るアンジェの手を引きながら建物の中へと消えていくライラに対し、焔は心底可愛くない奴と悪態を漏らす。

焔は小さく舌打ちを漏らし、頭を掻いた。

「ったく……」

ため息と共に、誰にも届かない声で呟きが漏れる。
気を取り直すように、焔は淡々とした声音で柚に声をかけた。

「おい」

降り注いだ声に、ゆっくりと柚の瞼が起こされる。

薄く起された瞼の間からは透き通る赤の瞳が姿を現し、再び長い睫が瞳を覆い隠してしまう。
小さな瞬きから冷めると、ふっくりとした桃色の唇が無意識に小さく開く。

表情と呼べるものがない、無防備な顔だった。

そんな些細な仕草が妙に艶めいて感じ、たちまち居た堪れない気分になり、思わず顔を逸らす。
いつもそう……ふとした瞬間に見せる本人すら気付いていない何気ない表情に、"どきり"というよりは"ぎくり"とした驚きと焦りのようなものを感じるのだ。

その度に変に意識をしてしまう自分が、一番嫌だ。

そんな焔の気も知らず、柚は欠伸を漏らして目を擦りながら声の主を見上げてくる。
呆れてため息が漏れた。

「寝るなら部屋で寝ろよ、チビ共が心配してるぜ」
「おんぶ」

当然のように、手を伸ばしてくる柚

口さえ開かなければ、おっとりとした儚げな印象の美少女に見えるのだが、口さえ開けばガラリと変わる。
口も悪い、手も早い、儚さとは対極に位置するような図太い神経の持ち主だ。

だが、そんな彼女だからこそ、男ばかりのこの環境に馴染めているのではないかと思う。

焔はあからさまな二度目の溜め息と共に、柚の手を引いて体を起こす。

「なんで俺がそんなことしなきゃなんねぇんだよ、ほら起してやったんだから自分で歩け」
「お兄ちゃーん」
「誰がお兄ちゃんだ!さっさと乗れよ」

なんだかんだと文句を言いながら、焔は柚に背を向けた。

甘えるように嬉しそうな幼い笑みを浮べ、柚は焔の背に乗る。
寝起きのせいか、背中に感じる柚の体温が熱く感じた。

まるで、彼女が人の温もりを求めているように感じる。
同時に自分も、そうだったのかもしれない……。

思い出すのは、幼い妹を背負って歩いた記憶だった。

やっと二ヶ月、まだ二ヶ月
時の流れは、早いようで遅く感じる。

焔の肩に顎を乗せる柚は、不服そうに口を尖らせた。

「お兄ちゃん、私にだけつめたーい。私も一応焔の妹だぞ」
「妹じゃねぇよ。お前の両親に面倒見て貰ってるだけで、雫は籍まで入れてない」

両親がいない為に施設に送られそうになっていた焔の妹を、今は柚の両親が引き取ってくれている。
それは、残された者達が互いに失くしたものを埋めるように寄り添った形だったのかもしれないが、お陰で心残りだった妹の身の振りに安堵と感謝を覚えた事には違いなかった。

柚は恩人の娘だが、恩を着せるわけでもない。
女らしいという言葉も当てはまらない性格で、むしろ男だったら……と思う事すらある。

だからこそ、ふいに女だと思い出させられて慌てるのだ。

焔が騙されなかった事が不服だったのか、柚は「ちっ」と舌打ちを漏らした。

「……焔のくせに」
「ふんっ、お前の浅知恵に騙されるか」

焔は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。

そんなやりとりに、妙に安心する。
先程彼女に感じた感情が、錯覚であったかのように思えた。

エントランスから中に入るのが面倒で、渡り廊下から中に入ると、外の寒さが嘘のように温かい空気が肌を包む。
中央棟にある食堂から、東館にまで夕食の香りが漂ってくると、さすがに空腹感を覚える。

すると、柚は背中から身を乗り出した。

「やっぱりお姫様だっこがいい」
「調子にのるな。姫って柄か」

悪態を漏らしていると、焔は眉を顰めて柚を肩越しに見やる。
「ん?」と、柚は不思議そうに焔の視線に応えた。

「お前……やっぱり体熱くないか?」
「え?そうか?」
「馬鹿でも風邪ひくんだな」
「風邪じゃない、馬鹿も余計だ」

柚がムッとした面持ちで焔を睨み返す。
首を絞めると柚に、焔が抵抗した。

「てめえ……人に背負わせといて首絞めるか、普通!つーか重い!太ったんじゃねぇの?」
「言うに事欠いて、今度は太っただとォ!?」

焔が転んだ途端、教官直伝の逆肘固めを決める柚に、焔が真っ赤になって床を叩く。
すると、重鈍そうな足音と共にジョージの怒声が響き渡った。

「コラー!柚、お前はまた!教えた技を無闇に試すな!!」

小柄な筋肉質の男の姿を見付けた瞬間、柚は脱兎の如く逃げ出していく。
柚を追い掛けて去っていくジョージに、「その前に教えるな!」と声にならない抗議する焔の隣を、遊戯室から出てきたフランツがくすくすと笑みを浮かべて通り過ぎた。

「女の人に太ったとか禁句ですよ」

その隣から、白髪に炎のようなメッシュを散らしたライアンズ・ブリュールが、にやにやとした面持ちで顔を覗かせる。
ライアンズは焔の肩を抱くと、その耳元で訊ねた。

「で、胸当たったんだろ?どーだった?」
「なっ!?」

焔の顔が火を噴く。

「ば、ばかじゃねーの!くだらねぇ!」

ライアンズの腕を振り払った焔は、ポケットに手を突っ込んで踵を返した。
すると、思い出したようにライアンズが焔の襟首を掴む。

「待て待て。そういえば、保管室にお前宛の荷物が届いてたぞ」
「あ、あぁ。届いたのか……」

思い当たったように、焔が呟く。
心なしか嬉しそうな焔の反応に、一部が興味を示した。

「何?」
「何です?」

焔の後ろから逃げたはずの柚がひょっこりと顔を出し、フランツと共に好奇心を露わに焔の顔を覗き込む。
焔は迷惑そうに背中に張り付く柚を振り払い、ふいっとそっぽを向いた。

「てめぇ等には関係ねぇ」

途端に、柚がムッとした面持ちで焔を睨んだ。
そして、思い当たったかのようなしたり顔で腕を組む。

「さてはエロ本だな!」
「ばか、んなわけあるか!?」
「本じゃなくビデオですか?」
「いっぺん死ね」

便乗したフランツにからかわれ、赤くなりながら怒鳴り返す焔
身兼ねて、ライアンズが「やれやれ」と呟く。

「おいおい、お前等あんまり虐めるなよ?焔、泣いちまうぞ」
「誰が泣くか!?」

食堂に向かったライアンズを残し、焔は後ろから付いていく柚とフランツを無視して保管室へと足を向けた。

中央棟のエントランス傍にある小さな倉庫の一室は、外部から届けられた荷物の引渡し場所となっている。
焔は窓口のガラス窓を開け、中で届いたばかりの荷物を整理していた軍人に声を掛けた。

すぐさま人の良さそうな青年が振り返り、愛想の良い声で伝票を受け取る。

「西並 焔さんですね。えっと……」

慣れない様子の軍人は、山の様に積み上げられた荷物を漁り始めた。

その姿をじっと見詰め、柚が目を瞬かせる。
すると、その視線に気付いた青年が振り返り、驚いたように声をあげて柚を指す。

「宮!ほんとに居た……」
「あ、やっぱり相澤兄?」
「え、え?知り合いですか?」

フランツが、指を指しあう二人に首を傾げた。





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