19


柚は訓練室の壁を蹴りつける。
その様は、まるでちんぴらだった。

「なんっなんだ、あの男はッ!?教室でエロ本見てた男子の方が何十倍も可愛く思えてくる!」
「はは、は」

汗を拭いながらフランツは渇いた笑みを漏らす。
今日の柚との訓練は、鬼気迫るものがあった。

あまりの迫力に焔も近付かなければ、ジョージも壁を蹴る柚を止めに入れずにいる。

「大体、シェリーまで口説いておいて……何が愛してるだ!あの無節操男がァ!!」
「シェリーを?元帥がですか?」

フランツは驚いた面持ちで柚を見た。
壁に八つ当たりをしていた柚ははっとした面持ちになり、肩を怒らせたまますとんと床に腰を下ろす。

「なんでもない、今の忘れて」
「……はぁ」

フランツは、腑に落ちない面持ちで頷き返した。

すると、訓練室のドアが開き、シェリーがおっとりとした微笑みと共に顔を出す。

「柚さん、訓練お疲れさまです。飲み物をお持ちしましたよ」

鈴を転がすような愛らしい声と羽のような微笑み。
媚びているわけでもなく、澄んだ微笑みが癒しを運ぶ。

怒りを忘れて、柚はシェリーに歩み寄る。

「有難う、シェリー」
「いいえ。厨房を借りてクッキーを焼いてみたんです。よろしければ皆さんもどうぞ」
「わぁ、おいしそうですね!」

シェリーが広げたクッキーからは、香ばく甘い香りが広がる。
覗きこんだフランツが目を輝かせた。

四角や丸のクッキーは、二色のコントラストを描いて渦を巻く。
甘い香りが昼前の訓練室を満たす。

するとその香りに釣られるように、訓練室の前を通り掛ったライアンズが顔を覗かせた。

「いい匂いがすると思ったら、ここか」
「なんだ、ライアンまだいたの?」
「今から出るんだよ」

柚がわずらわしそうに向けた視線に、ライアンズが半眼で返す。
焔がライアンズに一瞥を投げたが、素っ気なく前を向いた。

「お疲れさまです。よろしければブリュールさんもいかがですか?お口に合えばいいのですけれど」
「じゃあ、少し貰おうか」

ライアンズが、シェリーが手にするクッキーを見て顔を綻ばせる。
一口齧ったライアンズがおいしいと絶賛すると、シェリーは嬉しそうにおっとりと微笑みを返した。

すると、ライアンズが摘み食いをしている柚を見て、にやりと笑みを浮かべる。

「シェリーは才色兼備で、お前とは月とすっぽんだな。日系の女はやまとなでしこって聞いてたけど、大嘘だな」
「なっ!」

柚が目を吊り上げる。

「でもよかったなー、好きになってくれる人がいて」
「ラァイアぁァアンっ!?」

笑いながら告げたライアンズに、柚が手にしていたペットボトルを投げつけた。
ライアンズが、「恐い恐い」と告げて訓練室を逃げ出していく。

ドアにぶつかって弾かれたペットボトルが、地面に転がり落ちた。

肩を怒らせた柚の背中から殺気が漂ってくる。
何故火に油を注ぐんだろうと、フランツは恨めしく思う。

柚は包んで貰ったクッキーの包みを手にしながら、ため息を漏らした。
形のよいクッキーからは、空腹に染みる良い香り。

(分かっちゃいた事だけど……)

「女らしいのなんて、どうせ見た目だけさ」

柚は不機嫌に吐き捨てた。

柚が持ってきたクッキーを摘んでいた慎也が、声を上げて笑い出す。
柚は恨めしそうに慎也を睨み付けた。

「なんだよ、どうせ今更だって言いたいんだろ」
「そんなことないって。そりゃあ、お前が女らしくないのは今に始まった事じゃないけどさ」

不貞腐れた面持ちで柚が齧ったクッキーが、ポキッと軽快な音を立てて割れる。

「お前みたいのを好きになる奴だって、いっぱいいるさ」

慎也は、そう告げて何かを言い掛けた。
躊躇うように伏せられた顔に気付かず、柚は不機嫌に口を尖らせる。

「別にいっぱいはいなくていいけど……っていうか、気休めはいらん」
「本当だって」
「男なんて信じない。皆、シェリーにデレデレなんだ」
「そんなに可愛いのか?」
「そりゃーもう、シェリーは凄く可愛いぞ!同じ女なのに、守ってあげたいとか思っちゃうくらい、すーごく可愛い!まさに女の子って感じ?それに比べ、私なんて口も悪いし態度もでかいし、料理も出来ないしィ?あぁ、どうしよう。あんな野獣共のところに一人で置いてきてしまった。襲われてたらどうしよう」

力説したと思えば今度は青褪める柚に、慎也は乾いた笑みを漏らす。

保管室の前を人が通り過ぎていく。
昼時ということもあり、比較的人通りは多い。

風通しがあまり良くない保管室は、他の部屋よりも少しだけ暑かった。

一通り騒いだ柚は、パンを齧る慎也の隣で膝を抱え込んだ。
柚からうんざりしたような溜め息が漏らす。

あまり考えもしなかったが、相手にも当然選ぶ権利というものがある。
生殖研究班が用意した母体候補の女達の中から、好みの女を選べると、以前玉裁が言っていた。

長く緩やかな波をうつ、色素の薄い金の髪をした女性だった。
まるで、シェリーのようだと思ったのだ……

「男って本当、シェリーみたいな女が好きなんだなぁ……」

しみじみと呟く柚に、慎也が驚いたように柚の顔を見た。
柚は頬杖を付き、遠い眼差しで積み上げられたダンボールの山を見詰める。

「宮……」

人並みに恋愛に憧れてはいた。

沢山の人の中から、奇跡的に同じ相手を想う。
それは運命的な確立だ。

「それを、意味も分りもせずにっ……あの男はっ!ぬァにが、愛してるだ!言葉が安っぽいんだよ!」

柚が手にしていた紙パックが、ぐしゃりと握り潰された。
ぽたぽたと苺牛乳が滴り落ちていく。

慎也が引き攣った笑顔のまま固まった。

「はぁ……なんで私が使徒なんだろう」

使徒の女は圧倒的に数が少ないのだ。
例えそれがどんな女であろうと、種を残す為には、必然的にその一人を選ばなければならなくなる。

柚は引き寄せるように膝を抱き締め、顔を埋めた。
伏せられた眼差しが、とても悲しそうに見えた。

「どうせ使徒の女が見付かるなら、私よりもシェリーみたいな女の子の方が、皆もよかったんだろうな……」

慎也が眉間に皺を刻んだ。

「なんだよそれ。宮らしくないぜ?」

慎也が憤慨したように、身を乗り出す。

「自分よりとか言うなよ」
「え?」

柚はゆっくりと顔をあげ、首を傾げる。
顔をあげた柚に対し、慎也は難しい面持ちをして俯いた。

躊躇うように伸ばされた慎也の手が、柚の肩を掴む。

「俺、本当はこの仕事が決まった時、宮に会えるんじゃないかって期待してた……ずっと、会いたいと思ってて、今日俺の為に時間とってくれるって言ったとき、俺凄く嬉しかった」
「……え?」

慎也が、拳と共に唇を噛んだ。

「もし会えたら今度こそいい加減、気持ちにけじめを付けようと思ってきたんだ。俺、あの時凄くガキであんな馬鹿な事いってたけど……ずっと基也と虐めた事、謝りたいと思ってた」

躊躇うように上げられた顔が痛々しいほどに赤い。
必死な形相の彼は繊細で、今にも壊れてしまいそうに見えた。

彼が今、心の底から勇気を振り絞っている事が痛いほどに伝わってくる。
柚はわけが分からず、困惑気味に慎也を見上げた。

「本当は言うつもりなかったんだけど――俺、お前のこと、今でも好きだ」
「え……」

あまりにも予想外の言葉に柚は赤い瞳を見開き、思わず慎也の顔を見詰める。

心臓が緩やかに鼓動をあげていく。
鼓動にあわせる様に赤く染まっていく頬

視線が彷徨い、肌の様に色素の薄い睫が瞳を覆い隠した。

はっとしたように、柚の睫が揺れる。

柚は顔を伏せ、その顔には自嘲染みた笑みが浮かぶ。
柚は静かに口を開いた。

「相澤は、使徒が憎くないのか?」
「……え?」
「エデンによる無差別テロに巻き込まれたんだろう?」

慎也が目を見開き、冷たいコンクリートの地面へと視線を落とす。
柚は唇を噛む慎也を見上げた。

「使徒が存在するから、起きたテロだ」

柚の掌の中で、水が刃となる。
驚く慎也の目の前で、柚は自らの掌を切り裂いた。

「なっ!?」

慎也が青褪め、柚の手を掴む。
溢れ出した血を慌てて拭おうとした慎也の手を跳ね除け、柚は掌の血を舐めとる。

赤かった掌にあるはずの傷は、慎也の目の前で早送りを見ているかのように綺麗に塞がっていった。
慎也の手が震え、柚から離れる。

「私も、その使徒だ」

柚は慎也を見上げ、淡々と現実を告げた。

そんなことを言うつもりはなかったのだ……
彼が平静を装ってくれるから、自分も最後までそうしようと思っていた。

自分が懐かしくて、つい甘えてしまっていたのかもしれない。
ここに来て慎也と話すことで、何の疑問も持たずに生活していた頃に戻った気分を味わっていた。

自分の中の未練だ。

目の前の慎也は青褪め、言葉を無くしている。

慎也の気持ちは、素直に嬉しいと思った。
彼が、同情や勢いで告げた言葉でないことは、再会した彼の素直な人柄を見ていれば分かる。

だが、人との違いを見せ付けられた今、慎也は柚に同じ言葉を言えはしない。
やはりこれが現実――…

柚は、慎也の前から去ろうと立ち上がる。
ドアに向かい掛けた柚の肩を掴み、「違う」と叫んだ慎也が強引に柚を振り向かせた。

「無理をしなくていい」
「無理じゃない、少し驚いただけだ!会って思ったんだ。使徒だとか、人間だとか――どうでもいいんだ!お前は宮だろ?例え使徒が人間と違っても、中身は使徒も人間も変わらないじゃないか!」
「相澤……」

呟くように、真剣な目をした慎也の名を呟く。

「俺達が束になって虐めても、お前は泣くどころか立ち向かってきた。俺達顔負けの強さだったけど、何よりも"心"がっていうのかな?……お前は本当に格好良い女だよ」

慎也は、柚を称えるように瞳に穏やかな弧を描く。

言葉には、閉ざしかけた心を開くような力があった。
窓から差し込む暖かい光のように、胸の奥を照らしだす。

「俺は、そんな宮に惚れたんだ。だから自分の事を――」

言い掛けた慎也が、はっとした面持ちで目を見開く。
突如柚の肩から手を放し、おろおろとし始めた慎也を、柚はきょとんとした面持ちで見上げていた。

なんだろうと慎也の視線を追った柚は、痛いくらいの力で腕を掴れて驚く。

「痛っ!な?あ……アスラ?」

アスラが自分を冷たい眼差しで見下している。
柚がゾクリと背筋を震わせ、アスラを見上げた。

「……だ」
「は?何?」

腕を引かれ、柚はよろめきながら保管室の外へと押し出される。

「戻れ」
「でも……」
「戻れと言った」
「……う、うん」

ゾクリと、背筋が氷付く。

柚が慎也に視線を向け、立ち去ろうとした。
だが、慎也の前から動こうとしないアスラを見ると、立ち去るに去れなくなる。

アスラは時々、不機嫌になる。
元帥という大役を任せられている立場ながら、本人は機嫌の良し悪しを隠そうともしない。

とにかく、不機嫌なアスラには近寄らないのが一番だが……
これは不機嫌を通り越し、明らかに怒っている。

その矛先が慎也に向けられるようならば、さすがに黙ってはいられない。
柚は、遠慮がちにアスラに声を掛けた。

「戻らないのか?」

遠慮がちに訊ねると、冷めた一瞥が投げられる。

「この男に話がある。お前は戻れと言ったはずだ」
「あ、相澤に何の用だよ。そんな恐い顔して……別にやましい事は、その、してない……のですが」

再び睨み返され、柚の声が小さく萎んでいく。
柚でさえ、不機嫌なアスラは恐い。

アスラは眉間に皺を寄せて柚を見下した。

「やましいことはしていない?」
「ぅ、だ、だって。……」
「お前がっ!」

突然苛立った声と共に手首を掴まれ、柚はビクリと首を竦める。
アスラが、はっとした面持ちで柚から手を離した。

柚は途端に投げ出されたような不安に駆られる。
何か、よほどの悪い事をしてしまったかのように思えてきた。

「私?何か怒らせるようなことしたなら、謝るけど……その人は、関係ないから」

(今のアスラ、ちょっと……恐い)

以前の様に、感情の見えないアスラに対する得体の知れない恐怖ではない。
単純に、人の激情に対する竦みを感じてしまう。

アスラはふいっと顔を逸らし、吐き捨てた。

「二度とこの男に近付くな」
「どうして?」
「くだらない質問をするな」
「なっ、何だよ、その言い方!この間はいいって言っただろ!」

柚は思わずカッとなる。
気分によって発言を変えられ、怒られては堪らない。

「良くない、俺が不愉快だ」
「はァ?」
「自分の立場を踏まえて行動しろ。お前は使徒の女だ。男ならばまだしも、女であるお前が人間の男と親睦を深める必要は一切ない。そんな暇があるならば、俺を理解する努力をしろ」

未練を見透かされていたかのような気分になった。
柚はギリリと奥歯を噛み締める。

「貴様もだ。身の程を弁えないにも程がある」

アスラの瞳が、滾るように暗い色を落として慎也を見据えた。
慎也の肩が震えた。

「アスラ!」

柚はアスラの腕を掴み、自分の方へと振り向かせる。
アスラは柚の手を振り払い、慎也を侮蔑するかのように見下す。

「お前はただの人間だ、分相応を考えろ」
「っ――ふざけるな!使徒がそんなに偉いのか?」

柚は声を荒げ、力いっぱいにアスラを睨み上げた。
アスラが柚を睨み下ろす。

「そうは言っていない。使徒は国家の財だ。本来、補給兵程度の人間が許可なく触れていいものではない」
「はんっ、そっちこそくだらない事を言うな」
「何……?」

アスラの声が低くなる。

思い通りにならないことへの苛立ちが、その顔に滲み出ていた。
これほどまでにアスラの感情が見えることが珍しい。

「そんなに心配しなくてもいずれ使徒の子供は産むさ。けど、私の心は私の物だ。お前だってシェリーに花をやったりしてるだろ。この際だから言っておくけど、無理して私を好きだとか言わなくて結構だ。空っぽの気持ちで愛してるなんて言われたって、嬉しくもなんともないんだよ!」

柚は吐き捨て、アスラを睨みあげる。
アスラが眉間に皺を刻んだまま、柚を睨み下ろす。

息の詰る睨み合いの末、アスラが不機嫌に踵を返した。

「もういい、勝手にしろ」
「ふんっ!」

背を向けて去って行くアスラに、柚はそっぽを向く。
アスラの姿が見えなくなると、柚は慎也に顔を向けた。

「嫌な思いさせてごめんな」
「いや……俺の方こそごめん。いいのか?婚約者と喧嘩して」

慎也は申し訳なさそうに視線を落とす。

「誰が婚約者だ!ただの上司だ」
「え……でも、デーヴァ元帥は――」
「所詮、子供を産むだけの関係だ。どう思われようと関係ない。そりゃあ、ちょっと言い過ぎた気はするけど――…」
「なら、謝った方がいいぜ。人生ってさ、本当に何処で何が起きるか分らないんだ。だからさ、俺のように後悔を残さないようにしろよ」

慎也は片手を腰に当て、少しだけ寂しそうに笑った。
苦笑を浮かべる慎也を横目で見やり、柚は視線を彷徨わせて眉間に皺を刻む。

突然家族を亡くした慎也の言葉だからこそ、重みがある。

「……うん」

柚は考え込むようにして、ゆっくりと保管室を後にした。

取り残された慎也が溜め息と共に座り込もうとしたときだ。
くすりと失笑のような笑いが耳に届き、慎也はびくりと飛び上がった。

カウンターに腕を乗せてくすくすと笑う青年は、中性的で神々しい美しさを持つ。

「無様だねぇ、無様過ぎて愉快だよ。君もそう思わない?」
「え……あ、あの?」
「嫉妬が可愛いなんていう酔狂な連中もいるけど、僕には到底理解できない。嫉妬なんて感情は見苦しい、醜いものさ」
「は、はぁ……」

自分に話し掛けているようで、彼が返答や相槌を求めているようには思えなかった。
戸惑う慎也に、ユリアは美しく、だが何処か冷めた笑みを向ける。

「君がさ、一緒に逃避行とかやってくれたらもっと面白いんだけどね」
「は?」

くすくすと笑うユリアは、するりとカウンターから身を翻し、去って行く。
最初から最後まで、白昼夢に魅せられた気分になる。

慎也はぽかんとした面持ちで立ち尽くし、やっとその言葉を理解したように苦笑を浮かべた。





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