17


思わずアスラを指してしまった指先が震える。

哀れな女には申し訳ないが、頭が真っ白になり、裸体から目を逸らせない。
同様に頭が真っ白になっているのか、女も女で声を発する事も出来ないまま固まっている。

どこからどう見ても、情事の真っ最中だ。
それは、仕方のないことなのかもしれない――が、その真っ只中に部屋に入ってもいいと言うアスラの神経を疑う。

アスラは目に掛かる自分の髪を煩わしそうに掻き上げ、何事もないかのように柚に向けて首を傾げる。

「ああ、この女は気にするな」
「きっ、き、き――気にするわァ!?」

柚は雄叫びを上げて部屋を飛び出した。

廊下の窓から外に飛び出し、行く当てもないまま全力で空を駆けると、柚は空中で声にならない悲鳴をあげる。
顔が沸騰し、心臓が壊れそうな音を立てていた。

(し、信じられない!あの状況で普通、入っていいなんていうか?)

いくら常識に欠けるところがあるとはいえ、非常識にも程がある。
その場にしゃがみ込み、柚は耳まで赤くなっている顔を覆った。

(思いっきり目に焼き付いちゃったじゃないかー!?)

明日から、アスラの顔を見ただけで先程の出来事を思い出しそうだ。

綺麗な女性だった。
おっとりとした顔立ちをした、波打つ長い髪の、まるでシェリーのようなタイプの女性だ。

思い出して、治まり掛けていた頬の紅潮が再び一気に紅潮する。
動揺に釣られるように、足場にしていた水がぐにゃりと歪んだ。

(あ、しまった!)

下を人が歩いていることに気付き、慌てて声をあげる。

「どいて」という焦った叫び声を聞き、煙草に火を付けた玉裁は、眉を顰めて声のした頭上へと顔を向けた。
途端に、頭上から降り注いだ水をかぶり、火を付けたばかりの煙草から水が滴り落ちる。

暫し何が起きたのか分らず、玉裁はずぶ濡れのまま立ち尽くした。

「げっ」という嫌そうな声が聞こえ、玉裁が上空を見上げる。
水の足場の上で正座をする柚が、両手を合わせて可愛らしく舌を出す。

「えへっ、ごめんね!」
「お〜ま〜え、かァ!?」

目を吊り上げた玉裁が、勢い良く近くの木に手を付いた。
途端に木の枝が急速に伸び、柚の足に絡み付く。

「ぎゃー!?いやー!!」

逆さ釣りにされた柚が、必死にスカートを押さえながら悲鳴をあげた。

「いい度胸じゃねぇか、エェ?」
「だからちゃんと謝っただろ!逃げずに!」
「ってことは逃げようと思ったんだな。謝って済むか!ちょうどいい、一発ヤらせろ!」
「ちょっ、やだ!スカート掴むな、変態!?いーやーだッ!?」

スカートを引っ張る玉裁と攻防を繰り広げながら、柚は声の限り叫ぶ。
すると、玉裁は不服そうにぴたりと手を止めた。

「……今更だけどよぉ……もう少し色気のある反応できねぇのかよ。萎えるぞ」
「ほっとけ!つーか、頭に血が昇るだろ、さっさと下ろせ!」
「ほぅ……」
「あっ、ごめんなさい。下ろしてください、玉裁様!」

口端を吊り上げる玉裁に、柚はころっと態度を変える。

地面に降ろされると、柚は素早く立ち上がり、全速力で玉裁から逃げ出した。
そして、足に絡みついたままの蔦に引っ張られ、顔面から地面に滑り込む。

「お前、馬鹿だろ……」
「自分でもそうじゃないかと薄々感じてる……」

表情一つ変えずに呟いた玉裁に、地べたに這い蹲る柚は少し涙した。
ずぶ濡れの玉裁は、ポケットに手を突っ込み、煙草を取り出して舌打ちを漏らす。

「あーあ、まだ結構残ってたのに全部湿気ちまったじゃねぇか」
「……それはー、もしかしてもしかしなくても、煙草、か?」
「当たり前だろ、これがチョコに見えるってなら食わせてやろうか?ほら、口開け」

濡れた煙草の箱を、玉裁が柚に突き付ける。
柚はその手を押しのけ、玉裁の顔をいぶかしむように見上げた。

「なんでそんな物持ってるんだ?配給されるわけないよな?」
「ばーか、研究所の連中や一般部隊の奴が持ってるだろ」
「いや、でも、くれるわけないし……あ、まさか!盗んで来たのか?」
「はんっ、俺はどっかのお坊ちゃん方と違って育ちが悪いんだよ」

驚く柚に顔を突きつけ、玉裁は口角を吊り上げて笑う。
柚は身を引きながら、呆気に取られた面持ちで玉裁を見上げた。

「別にお前がどうなろうと知ったこっちゃないが、バレたら怒られるぞ?」
「こちとら物心付いたころからやってんだ。そんなヘマしねぇよ」

生き残った煙草に火をつけながら、玉裁は退屈そうにパラパラとメモ帳を捲る。

玉裁が手にしている見覚えのあるメモ帳に、柚ははっとした面持ちで自分のポケットを漁った。
予想通り、ポケットに入れておいたメモ帳は玉裁の手の中だ。

「返せ」

柚がメモ帳に手を伸ばすと、玉裁は放り投げて返し、にやりと勝ち誇った笑みを浮かべる。
慌てて拾い上げた柚は、メモ帳をポケットに戻しながら玉裁を睨み付けた。

「くだらない特技だな」
「くだらなくねぇよ。生き残るには必要だ。スラムじゃ常識だぜ」
「……え?」

政府が治安維持を放棄した地区は貧民街と化し、親のいない子供達や表では生きられない大人が集まって暮らしている。

掏っては掏られの繰り返し。
弱者は、野晒しの屍となる。

まさに弱肉強食の世界だと聞く。

「ここはいいよな。適当にやってるだけで毎日飯は出てくるし、女はより取り見取り。まぁ、自由に煙草が吸えねぇのが難点だな」

煙草の煙を吐きながら、玉裁は生き返るかのように満足そうに目を細める。

「外で生きてくのが馬鹿らしいぜ」

柚は声も出せないまま、呟く玉裁の横顔を見詰めた。
世界に愛想を尽かせたような顔の中に、自身に対する自嘲が見えた気がする。

彼の言葉は、真意であって真意でないように思えた。
そもそも、彼がこの世のルールに甘んじるようなタイプには思えない。

「玉裁は、どうしてここにいるんだ?」
「何、俺のこと聞くなんてどういう風の吹き回しだ?」
「べ、べつに!知りたくて聞いたんじゃないぞ。話したついでだから聞いてやっただけだ」

柚が口を尖らせた。

立ち上がった柚が「ふんっ」とそっぽを向いて玉裁に背を向けると、玉裁は柚の手を掴み、木に押し付ける。
肩を押さえつけられ、柚は痛みに顔を顰めた。

間近に顔を寄せる玉裁の顔に浮かぶ笑みは、獲物を捕らえた狼のように、爛々と輝いて見える。

「何勝手に帰ろうとしてるんだよ。さてと、どうやって落とし前つけて貰おうかな」
「いやいやそれよりまず、玉裁は風邪をひかないように着替えるべきだと思うな!」
「いいんだよ、これから運動するから」
「何の運動!?っていうか、さっき色気がないとか散々文句言ってたじゃないか、自分の本能には素直に従ったほうがいいと思うぞ!」
「……確かに」
「それはそれでムカつくな」

柚は不貞腐れた面持ちになった。

「そういやぁ、お前のところに育ちの良さそうな美人が来てたな」
「なっ!シェリーに手を出したら許さんぞ!」
「誰が手ー出すって言ったよ。俺、ああいうのタイプじゃねぇし」
「え?」

柚がきょとんとした面持ちで玉裁を見上げる。
無防備な柚を舐めまわすように見下ろし、玉裁は柚の顎を掴み、鼻で笑い飛ばした。

「なんだよ、その顔」
「だって、男は好きだろ?女の子らしい女の子」

柚は玉裁の手を払い、ふいっとそっぽを向く。

玉裁は目を瞬かせ、愉快そうにくつくつと笑みを漏らした。
指先が柚の唇を撫で、玉裁は悪戯を含んだ眼差しで目を細める。

「どっちかってぇと、俺はお前みたいに気の強い女、好きだぜ?」
「え?」
「そういう女を無理やりってのが最高なんだよな」
「さ、最低だ、お前!寄るな犯罪者ー!?」

柚が青褪めて玉裁から逃げ出す。

玉裁はくつくつと笑みを漏らし、「ばーか」と呟く。
そしてひとつ、くしゃみを漏らして腕を抱いた。





部屋には、一番嫌いな相手と二人きり。
それは、焔にとって苦痛だった。

腰に片手を当て、自分を見下ろすイカロス

常に柔和な笑みを浮かべ、誰にでもいい顔をする。
結局のところ、その真意の見えない―― 一言で言えば、胡散臭い男だ。

早く出て行けと心の中で何度も繰り返しているものの、心を読めるはずの相手は、その願いを全く汲み取ってはくれなかった。

「ちゃんと理由を言えば、アスラだって減罰したのに……」

焔は顔を逸らす。

「そんな期待、してねぇ」
「君も大概、不器用だね」

イカロスは苦笑を浮かべ、部屋のドアを開く。

まただ……と、不快なものが込み上げる。
全てを見透かすようで、達観した眼差し。

その腹の中で、何を考えているのか……

廊下から差し込む人工的な光がイカロスの顔を覆い隠した。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、青白く焔の輪郭を照らし出す。

途端に、猪が突進するように廊下を駆けてきた柚が、イカロスに正面から衝突した。

「うぐっ!?」
「うっ……柚、ちゃん」

「今のは効いた」と、イカロスが腹を抱えて膝を付く。
呆気に取られる焔を他所に、柚はおろおろとしながらイカロスの周囲を徘徊した。

「ごめん!ごめんなさい!大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ……」

イカロスはおろおろとしている柚を宥めるように頭をぽんっと撫でる。
少し落ち着いてイカロスを見上げた柚が、はっと思い付いたようにイカロスの腕を掴んだ。

「あ、そうだ!イカロス将官、お願いが……」
「とりあえず、落ち着こう。ね?」
「う、うん……」

穏やかな声に促され、柚は視線を落とすようにしながら頷いた。

柚が遠慮がちに焔の部屋に視線を向けると、焔は「騒ぐなら他所でやれ」と言いたげな顔でこちらを見ている。
だが、イカロスはその場で話を始めた。

「まずは、アスラかな。アスラには……後でそういう時は部屋に人を入れないように言い聞かせておくよ。本当に悪気はないんだ、ごめんね」
「うっ……」

赤くなりながら、柚は俯いて言葉を濁す。

「後は、焔の件だけど……理由は俺の方から話しておく」

イカロスは、部屋の中へと視線を向けた。
焔が眉を顰める。

「解任を解くことは出来ないけど、埋め合わせはする。それで勘弁して欲しい」
「……焔、あの!」

柚は、部屋の中の焔に声を掛けた。
それを止めるように、イカロスは軽く手を翳して制止する。

柚は不安そうにイカロスの顔を見上げた。

「焔、君は人として正しいことをしたかもしれない。けれど、ここでそれは通用しない」
「……知るか。俺がムカつけばまたやる、それだけだ」

焔の素っ気ない返答に、イカロスは苦笑を浮かべた。
柚は顔を曇らせて焔の顔を見やる。

イカロスは静かに立ち上がり、肩越しにくすりと笑みを浮かべた。

「ものにはやり方というものがあるんだよ。フォローするのは今回限りだ、次は上手くやりなさい。それじゃあ、おやすみ」

壁に触れていたイカロスの掌が離れ、爪先が壁を掠める。
一瞬、アダムを連想させるような艶やかで考えの知れない笑みを浮かべたイカロスの唇が、三日月を描いた。

「と、止めないんだ……」

ゆったりとした歩調で去って行くイカロスを見送りながら、柚は引き攣った面持ちで呟く。

焔の舌打ちに、柚ははっとなる。
柚はしょ気込んだ顔を焔に向けた。





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