16
「あなた、焔君が怪我をしたって絆創膏を取りに来ましたよね?」
「え……うん、それが、何?」
嫌な予感が首をもたげる。
ジョージが腕を組み、深くため息を漏らした。
「怪我の原因は、窓ガラスを割ったことだな」
「……うん。でもあれには理由があって……」
柚が身を乗り出す。
二人は顔を見合わせ、「やはり」と呟きを漏らした。
不安げに見上げてくる柚に、ジョージは困ったように眉を顰めた。
「危害こそ加えなかったものの、研究所の職員に暴力を振るおうとしたと元帥に抗議がきた」
「そんな、違う!あれは私を庇ってくれてやったことなんだ!」
「そうだったんですか。理由を話してくれれば少しは違ったかもしれないというのに……ライアンが聞いても理由を話してくれなかったらしくて」
ヨハネスが溜め息を漏らす。
「これで本当に職員へ暴力を振るっていたら大変なことになっていましたよ。ガラスに踏み止まってくれて本当によかったです」
「焔は日頃から態度が悪いからな……あちら側に、無意味に暴力を振るって職員を脅したと疑われても仕方がない」
柚は青褪め、俯いた。
自分が蒔いた種が、波紋を描くように大きくなっていく。
俯く柚に、フランツが気遣うように声を掛けると、柚がゆっくりと顔を上げた。
「焔、どうなっちゃうんだ?」
「とりあえず明日は謹慎だそうです」
「謹慎!?そんな、明日の任務は!」
「取り消しだな」
ヨハネスが申し訳なさそうに告げ、ジョージが淡々と告げる。
柚の唇が震え、「そんな……」と、弱々しい呟きが漏れた。
脱力するように、その場に座りこんでしまいそうになる。
「私……」
雑誌の取材に応じない焔にとって、初の任務は重要な意味を持つ。
彼の妹だって、久しぶりに世間の前に出てくる兄の姿を待っている筈だ。
柚はフランツに「ごめん」と告げて廊下に飛び出し、走り出した。
庇ってくれただけなのだ。
それが罪になるというならば……
階段を昇る時間も惜しくなり、柚は窓から空に向けて跳んだ。
空中に、とんっと着地した足元が波紋を描く。
――本当に、罪を犯したのは自分の筈だ……
開いている窓から中央棟の廊下へと飛び込み、柚はアスラの執務室の前でゆっくりと足を止めた。
(全部……私の我侭だ)
閉ざされたドアを見詰めて、立ち竦む。
(文句を言われて仕方がないんだ)
ドアのノックする勇気が出ない。
冷たいドアに、強張った掌が触れた。
(私が最初から我慢して、政府の言う通りにしてれば)
視界が霞む。
(誰にも迷惑が掛からなかったのに……)
柚はドアの前にしゃがみ込んだ。
後から後から、涙が溢れ出して来る。
最初からそうしていれば、自分の無力さにこれほど苦しまずに済んだかもしれない。
自分だけ特別扱いを受けることに、仲間達に後ろめたさを感じ続けることはなかったかもしれない。
今更、手遅れかもしれない。
だがもうこれ以上、迷惑を掛けたくない。
「何やってんだ」
背後から掛かった声に、柚はびくりと顔をあげた。
ファイルを抱えたライアンズが不思議そうに自分を見下している。
柚の涙に気付いたライアンズは眉を顰め、ファイルを床に降ろすと柚の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。
「何泣いてんだよ、具合悪いのか?」
「ライアン……」
柚は一度膝に顔を埋め、涙を拭って顔をあげる。
「焔は……私が陰口を言われているのを聞いて、それでそいつらを黙らせる為に、やっただけなんだ」
「……そうか」
「ガラスを割ったのは悪かったかもしれないけど、そもそもの原因は私なんだ……」
まるでアスラのように淡々としたライアンズの声は、感情のない相槌に聞こえた。
瞬きのように閉ざされた瞼が数秒の間沈黙を貫き、起される。
「何て言われたんだ?」
「本当のこと……」
「だから、何て言われたんだ?」
「……役に立たないなら、子供を、産ませるべきだったって」
柚は深く俯いた。
ライアンズが長い溜め息を漏らす。
柚に触れようとした手が、行き場をなくしたように自分の短い髪を撫でた。
「お前も最初に教わった筈だ。使徒は武器を持たない人間に力を誇示するような真似をしてはならない」
ライアンズの声が静かな廊下に響いていく。
柚は無限に続くように長い廊下の先を見詰めるライアンズの顔を見上げた。
「どんな理由があろうと、だ」
反論を許さぬように、ライアンズの瞳が柚を見下す。
感情を押し込めたような、冷たい瞳だ。
柚は言葉を続けられずに俯く。
もし何かを口にすれば、言葉が濁流に飲み込まれていくような気がした。
「どうすれば、焔の解任を解けるかな……解任だけはしないで欲しいんだ」
「……」
「それが出来るなら、私、なんだってする」
柚が握り締める掌に力が籠もる。
ライアンズは複雑そうに、すっと視線を背けた。
「今回の件を起したのはあくまでも焔だ。それに、今回の任務に焔が欠けたところで差し支えはない」
「焔や雫ちゃんにとっては、そういう問題じゃない!妹さんは、きっと待ってるんだ!」
声を荒げた柚は、首を横に振る。
ライアンズに背を向けたまま、柚は膝に顔を埋めた。
「アスラ達には感謝してるけど、私のせいで……皆に凄く迷惑を掛けてるっていう自覚がある。だから、私もういい……」
「もういい?」
「私だけ特別扱いしてもらうのは、皆に申し訳ないし……だからって役にも立ってないし。迷惑ばっかり掛けてるのに、私は本当に子供産むくらいしか出来ないんだ。私がちゃんと政府の言う通りに子供を作るって言ったら、焔のこと、なんとかなるかな……」
ライアンズは、背を丸めて小さくなっている柚を見下す。
苛立ったように、ライアンズが頭を掻いた。
呆れた溜め息がわざとらしいほどに響く。
「何を言い出すかと思えば……逃げたいなら逃げればいいんじゃねぇ?」
溜め息交じりの声と共に、ライアンズはファイルを手に取り立ち上がった。
柚の肩がぴくりと揺れ、目が見開かれる。
「俺は最初に言ったよな、犠牲になるのは周りの人間だって。迷惑を掛けることを承知の上で、お前は上の命令を拒んだんじゃないのか?それとも最初から、周りの小言で揺れる程度の思いだったのか?」
ライアンズが、座り込む柚へと顔を向けないまま視線のみを向けた。
闇の中、その眼光だけが鋭く、言葉が針のように心に突き刺さる。
「だとすれば、それは本当にただの我侭だ」
柚がはっと息を呑む。
「今更何もかもが元に戻ると思うか?その後焔の奴がどんな気持ちになるか、お前はちゃんと考えてるのか?お前がしようとしてるのは、自分が苦しいから逃げて、その苦しみを焔に擦り付けようとしてるんだぜ」
ライアンズは部屋のドアを開き、柚に振り返った。
部屋の中は、寂しいほどにがらんどうだ。
まるで、自分が発した言葉と同じように……とても空虚に感じる。
「いっておくが、最終的に上申を決めたのは元帥だ。お前一人の感情で動いたと思ってるのならば大きな間違いだぞ」
「え……?」
「元帥の考えを変えたのは、お前一人の力じゃない。それを忘れるな」
ヨハネスや、イカロスの言葉
イカロスを駆り立てた、仲間達の想い。
それがアスラの考えに変化を生み、形となった。
柚は床に視線を落とす。
「まあ、その沸騰した頭を使ってよく考えろ。焔の件は今更無理かもしれないが、元帥はもう部屋に戻ってると思うぜ」
ライアンズは執務室の机の上にファイルを置き、座り込んでいく柚の額を小突く。
ひらひらと手を振り、薄暗い廊下に消えていくライアンズを、柚はただじっと見詰めていた。
熱い涙が、ひとつ……
床に吸い込まれる。
ライアンズの言葉は優しくない。
だが、脱走を誤魔化してくれたときのような優しい嘘がない。
柚は額を擦りながら、もう一度膝に顔を埋めた。
涙を拭って立ち上がる。
考えも纏まらないまま、来たときとは対極にゆっくりとした歩調で階段を降りた。
階段のガラス窓から差し込む月明かりの下で足を止める。
ぼんやりと唯一の光を眺めた。
消えてしまいそうな月明かり。
とても危うく頼りない……だが、それはとても優しい光
ふと、ハーデスを思い出した。
今のハーデスと重なるように、幼いハーデスの寂しい瞳が甦る。
研究の対象として、兵器として……
人であり、人でないものとして、実験動物のように扱われている使徒
それを理解しながら、人類の為に甘んじてその行為を受け入れてきた仲間達
――この狭い世界の中で、使徒は今、変わっていってもいいのだろうか……?
柚はアスラの部屋の前に立つと、そっとインターフォンを押した。
部屋の中から淡々とした声が返ってくる。
息を吸い込み、小さく吐いた。
「アスラ、私だ。少し話があるんだけど、今、いいかな?」
『ああ、構わない。入って来い』
もともと感情を読み難い声音ではあるが、やはり今日も、声でアスラの機嫌をうかがい知ることは出来ない。
柚はスイッチに手を伸ばし、アスラの部屋のドアを開けた。
薄暗い部屋の中に人影を見付けられず、足を踏み込みながら部屋の中を見回す。
名を呼び掛けると、ベッドからアスラが僅かに身を起した。
「俺もちょうどお前に用があった。先にお前の話を聞こう」
窓から差し込む月明かりが、彼の輪郭をぼんやりと照らし出す。
だが、月明かりが照らし出したのは彼だけではない。
アスラと重なり合うように――否、実際重なり合う女は、訪問者の出現に頬を赤く染めながらも青褪め、たわわな裸の胸を隠している。
「な、なっ……」
やっとの思いで声を絞り出し、柚はアスラと女を凝視した。
―NEXT―