15


「おかえりなさい!」

アンジェが嬉しそうに車から降りたライアンズに駆け寄る。

ライアンズから肩の力が抜け、「ただいま」という呟きと共に、大きな掌がアンジェの頭を撫でた。
嬉しそうに目を瞑るアンジェを他所に、少し離れた位置から黙って出迎えるライラ

森から勢い良く飛び出してきた柚に、ライアンズは呆れた眼差しを向けて歩み寄った。

「こら、柚!お前、休んでろって言ったのに何処からでてくんだ!さては訓練でもしてたな!」
「してない、してませんー!」

首に腕を回され、柚が悲鳴をあげる。

開放された柚は、ライアンズに背中をおされて数歩よろめきながら、じっとこちらを見詰めるアスラに気付いて顔をあげた。

出掛けにごねて困らせたのだ、少し気まずい。
俯き、足が止まる。

柚の視線は、アスラの足元に届いた影へと落ちた。

するとアスラの方から柚へと歩み寄り、アスラは掬い上げるように俯く柚の頬に触れる。
合わせられなかった視線が、伺うようにアスラを見上げた。

「寝ていなくていいのか?」
「……」

穏やかな声に、肩から力が抜ける。
心配そうな眼差しに、柚は釣られるように小さく微笑んだ。

「ああ、有難う。お陰様で」
「そうか、ならば十五分後に執務室に来い。話がある」
「あ、うん」

心配はしてくれているものの、アスラの機嫌はあまり良くないように思えた。
柚は躊躇うようにして頷き返す。

ライアンズに視線で問い掛けるが、ライアンズはいっぱい原因がありすぎて分からないと首を横に振った。
柚は恐々とアスラの背を見やる。

時間を置いてアスラの執務室に向うと、イカロスとジョージがいた。
柚は図書館にイカロスが置いていった本を差し出す。

「忘れ物」
「はは、どうも」

少し気まずそうに笑うイカロスに、柚は苦笑を浮かべた。
ジョージが首を傾げる。

三人を他所に、アスラは振り返るなり抑揚のない面持ちで一言、淡々と言い放った。

「任務だ」
「は?」

柚は思わず訊ね返す。

「お前に任務だと言っている、指名だ」
「指名って?」
「大統領からだ」
「……」

柚の顔が引き攣った。

大統領は、アスラの護衛で何度か会ったことがある。
好感の持てる相手ではあったが、一国の主だ――重大な任務を言いつけられるのではないかと思わず身も竦む。

「い、一体何を?」
「元を正せば、――マシュー・クック首相、オーストラリア連邦の連邦首相からのご指名だ」
「な、なんで……そんな人が私を」

全く関わり合いのない人物だ。
呆気にとられる柚の前に、アスラは新聞を置いた。

「数週間前、オーストラリア側から同盟条約の申し出があったことは知っているな?」
「えぇ……うん。あった、かな?」
「……」
「あ、はい、ありました!」

アスラにじろりと睨み付けられ、柚はびくりと姿勢を正す。
ジョージが溜め息を漏らした。

新聞を読めと、ジョージに耳が痛くなるほど言われているが、読むのはテレビの番組欄のみ。
ニュースは決まって芸能人のワイドショー専門だ。

「同盟条約を持ち掛けてきたのは、お前が発見されてからだ。オーストラリアには、今だ嘗て女の使徒が発見されていない」

「言いたい事が分かるな?」と言いたげな顔で見られた柚が、口篭った。

「えっと、まだ子供とかそういう事を言うのか?でも相手は他国だぞ?まさか、のし付けて送られちゃったりなんてしないだろ?」
「そんなことしないよ」

イカロスがくすくすと笑みを漏らす。
無表情のアスラからは、呆れ含んだ視線がチクチクと突き刺さってくる。

ほっと安堵する柚に、アスラは淡々と続けた。

「こちらとて他国に貸し与える余裕などない。しかし同盟は黄大統領も望んでいたことだ。きっかけや目的は何にせよ、折角あちらから申し込んできた同盟をこちらも成功させたい」
「そ、それで?私は何をすればいいんだ?」
「大統領と首相の会談中、警護を命じられている」
「……それだけ?それだって十分プレッシャーだけど」

柚はプレッシャーに押し潰されそうな面持ちで、呟くように漏らす。
アスラは遠慮なく頷いた。

「俺も、お前はまだ早いと言ったのだが相手たっての希望だ。お前一人に任せるわけではない、俺も同行する」
「……う、うん」

柚は俯く。

「気に病むことはない。外には他のメンバーも警護に当たる。相手方も、高位クラスの使徒を連れてくるだろう」
「オーストラリアの使徒か?それは会ってみたいかも」
「現金だな、お前は。少しは気を引き締めろ、ことの重大性が分かってるのか?」

ジョージが腕を組んだまま溜め息を漏らす。
柚は頬を染め、「分ってる!」と口を尖らせた。

すぐにころりと表情を変え、柚は興味津々にアスラとイカロスの二人に向けて身を乗り出す。

「アスラとイカロス将官は会ったことあるの?」
「話をしたことはないがな」
「えー、なんで?」
「顔を合わせるのは護衛の任務時のみだ。私語を交わす時間などない」
「アスラは、どうせそんな時間があっても交わすつもりなんてないんだろ?」

口を尖らせた柚に、アスラは無言で考え込む。
イカロスは苦笑を浮かべ、柚にこっそりと耳打ちをした。

「何を話すんだろう、って悩んでるよ」
「これだから……。私は折角同じ使徒なんだし、何か話したいなって思うけどな」

神森とは違う、国籍は違えど同じ使徒だ。

オーストラリアがどういうところかという話も聞いてみたいし、いろいろと相手に興味がある。
同じ使徒同士、出来る事ならば仲良くしたい。

「柚、お前は肝心なことを忘れている」

淡々とした面持ちで自分の顔を見るアスラ
柚は、きょとんとした面持ちで目を瞬かせた。

「他国の使徒はもしも戦争が起こった際、敵になる相手だ。そんな相手を知ってどうする」
「……あ、うん……」
「アスラ。同盟を進める相手だ、そう言う事を言うものではないよ」
「……想定出来ることは想定しておくべきだ。例えあちらから同盟を持ちかけてきたとはいえ、相手側に本当にその意思があるとは限らない」
「うーん……アスラ、君の言う事は最もなんだけど」

イカロスは、アスラにそれくらいにしておくようにと視線で制止する。
イカロスが向けた一瞥の先に、しゅんとした面持ちで視線を落としている柚がいた。

アスラは僅かに眉を顰め、柚から視線を逸らす。

すると、柚は思いついたように顔をあげた。

「でも、イカロス将官が同席すればわかっちゃうでしょ?」

柚は期待に満ちた面持ちでイカロスを見上げる。
イカロスは困ったように苦笑を浮かべた。

「ご期待に沿えず申し訳ないけど、俺はこういう力だから、そういう場には入れないことになっているんだ」
「そんな……」
「それにね、人間はともかく、使徒なら考えを見透かされることのないようにガードすることも出来る」

「へぇ」と、柚は呟きを漏らす。
「前にそういう使い方もあると教えただろ」と、ジョージが額を抑えてため息を漏らした。

アスラは書類を柚へと差し出した。

「任務は明後日だ、いいな」
「りょうかーい!」

柚は詳しい任務内容の書かれた書類を受け取り、嬉しそうに敬礼をすると、足早に部屋を出る。

ドアの外に出た柚は、モリス・ドルチェの秘書であるロバート・スティーヴンソンにぶつかりそうになり、慌てて足を止めた。
スーツ姿で、きっちりと髪を後ろに撫で付けたスティーヴンソンは、淵の細い眼鏡の奥から柚を睨み付ける。

「気をつけなさい」
「ご、ごめんなさい」

部屋のドアをノックし、中へと入っていくスティーヴンソンを、柚は不思議そうに見送った。





任務から戻った柚は、フランツと共に食堂に座り込んでいた。
食堂に入った途端にアスラに呼び出された焔を待っているのだが、一向に戻ってくる気配がない。

「お腹空いたー」
「そうですね、先に食べちゃいます?」
「うーん、後五分だけ我慢して待つ。フランは任務から戻ったばっかりだし、先に食べていいよ」

テーブルに伏せていた柚が、時計を見て告げる。
「僕はまだ大丈夫です」と返したフランツは、食堂の外の廊下へと視線を向けた。

いい香りが漂ってくる食堂で、焔を待って二十分程が経過している。

待っていると告げたのに戻ってこない焔に、二人はいい加減に焦れていた。
離れた席から、麺を啜る音が聞こえてくると、一層苛々する。

気分を変えるようにと、フランツは明るく柚に声を掛けた。

「そういえば、僕も話し聞きましたよ。明後日の任務」
「あ、うん!護衛と取材以外の初任務なんだ。少しは使徒として役に立てるかな」

柚は嬉しそうに笑みを漏らす。
フランツも、釣られるように微笑みを浮かべて紅茶を口に運んだ。

ふとフランツのピンク色の瞳が顔を上げ、首を傾ける。
手にしたカップの中で、琥珀色の紅茶が波紋を描いた。

「そういえば、明日は焔の初任務ですね」
「あ、そっか。用ってその話かな?どんな任務なんだろう?」

柚は、暇つぶしに研究員用のメニューと睨めっこをしながら呟く。
柚の関心の半分が食べ物に向いている事を知りながら、フランツは苦笑を浮かべて口を開いた。

「確か、以前からガルーダ尉官が担当しているものですよ。大きな犯罪組織です」
「私達が追うってことは使徒が関係するんだよな?」
「もちろんですよ。人身売買組織で、スラム街から人を誘拐して奴隷商みたい真似から臓器売買までしているんです。さらには、保護前の使徒を攫って商品にしたり……」

柚が驚きの声をあげ、メニューから顔をあげる。

「そんな連中がいるのか?聞いた事ない」
「一般には公にされていませんが、いるんですよ。世界中から指名手配されていてもなかなか捕まらないそうです。今回も、アジトらしきものがあるって情報が入ったんですが……多分無理でしょうね」
「そうなんだ……」

俯く柚の視線は、桃色の爪先に落ちた。

以前ならば、ニュースで「大変だ、早く捕まればいいのに」と聞き流していたような話だ。
だが、今は違う。

柚が知る友人達は以前と何も変わることなく、「大変だ、早く捕まればいいのに」と、自分とはあまり関係のない話のように思うだろう。
だが、今の自分は「捕まえなければならない」側の立場だった。

人々の安全な生活を守る為に、自分達がなんとかしなければならないのだ。
それは世界が反転したような気分だった。

「ところで、大統領警護の任務、僕も一緒なんですよ」
「え、本当?」
「はい、ガルーダ尉官とライアン、ユリア、玉裁もなんです。結構大掛かりな任務になりそうですね、緊張します」
「ええ?フランが緊張するなら私はどうなるんだ?」
「大丈夫ですよ。元帥と尉官が一緒なんですし」

青褪める柚に、フランツはくすくすと苦笑を浮かべた。

フランツがカップを置く音が静かに響く。
気が付けば、フランツは笑いながらも真剣な眼差しで柚を見詰めていた。

「でも、柚。オーストラリアの意図も分りませんし、あまり気を許さないようにしてくださいね?」
「うん……そうだな」

柚は、真剣な面持ちでこくりと頷き返す。

もし、オーストラリア側が自分に何かしらを仕掛けてきたら、戦争になりかねない。
こちらにそのつもりはないが、相手方もこちらを警戒しているだろう。

そのような重要な場に、いろいろと不安な要素を抱える自分が立ち合う。
それも当事者としてだ。

周囲の注目に反し、自分はごくごく普通の女子高生という気分が今だ完全には抜け切らずにいる。
もう自分は、そのような甘い考えを捨てなければならない立場なのだ。

そうでなければ、何かを守るどころか傷付けてしまう。

すると、話をしながら食堂に入ってきたジョージとヨハネスに、二人は顔を向けた。

「あ、教官。焔知りませんか?元帥に呼び出されたんですが、戻ってこなくて……」

難しい面持ちで話しこんでいた二人が、声を掛けたフランツに振り返り、言いよどむ様に顔を見合わせる。

すると、ヨハネスがはっとした面持ちで柚を見た。
詰め寄ってくるヨハネスに、柚は圧倒されるように首を竦める。

「柚君!あなた、何か知りませんか?」
「はぁ?」

ヨハネスの言葉に、柚はきょとんとした面持ちで首を傾げた。





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