12


肩越しに振り返った柚は、廊下を歩いていく焔の姿を見やる。

ヨハネスの医務室とは別の方向に歩いて行く焔に、思わずため息が漏れた。
怪我常習犯の焔だ、それほど酷ければ自分で行くだろう。

焔と別れた柚は、周囲を見回した。

(とはいえ、何しよう)

部屋に戻る気分でもない。
慎也も到着したばかりで忙しそうにしている。

探検気分で中央棟の中を歩き回っていた柚は、研究所側にある図書館の前で足を止めた。

(そうだ)

何百年掛けても読み終わりそうにない、本の山
古い本が放つ独特の香りに混じり、今日慎也が届けたばかりの新書がカウンターの奥に山済みにされていた。

図書館に入ると、柚は幾重にも並べられた本棚の間を縫って歩く。

図書室と言っても、主に利用しているのは研究員だ。
本を片手に意見を交わす彼等の影響で、静かが鉄則の図書館の常識を覆し、図書館は比較的賑やかに感じる。

目的のものは奥にあると教えられた柚は、道中立て掛けられた本に気付いて足を止めた。

「そういえば」

軍服とは名――昨日そう告げたアスラの言葉が蘇る。
"アスラ"とは、どういう意味なのだろうか?

柚は睨み合うようにして、ぎっしりと詰め込まれた本棚から一冊の本に手を伸ばした。

パラパラと本を捲り、なかなか見付からずに本を本棚に戻す。
今度は別の本を手に取り、調べ始めたその時……

「神話の本?」

突如背後から掛けられた声に悲鳴を上げそうになり、柚は慌てて呑み込んだ。

よほど集中していたのか、全く気付かなかった。
心臓が壊れたように音を立て、腰から力が抜けそうになる。

「イ、イカロス将官……」
「また驚かせちゃったかな?」

反省の様子もなくくすくすと笑みを漏らしながら、イカロスは柚が戻した本を手に取り、窓際の席へと導いた。
イカロスが椅子をひくので、柚はきょとんとしながら腰を下ろす。

イカロスは隣に腰を下ろし、柚と向き合うように座ると、まずは確認とばかりに穏やかな笑みと共に首を傾けた。

「寝ていなくていいのかな?」
「うん……そんな、病気じゃないし」
「部屋にいると気が滅入る?」

言おうとした言葉を先に言われ、柚はため息と共に頷き返す。

一から十まで口にしないと伝わらないアスラも疲れるが、一を言う前に十を悟ってしまうイカロスと話すのも、少し張り合いに欠ける気がする。
そう思っていると、「癖なんだ」と苦笑を浮べ、イカロスは軽く謝罪を口にした。

「それにしても、柚ちゃんが図書室にいるなんて珍しいね」
「うん、ちょっと調べたい事があって……そうしたら、別の気になる本を見付けちゃってさ」

反省をするように、柚はイカロスが持ち出してきた神話の本に視線を向ける。
その他にも、イカロスはジャンルを問わない数冊の本を手にしていた。

「難しそうな本」
「本はいいよ、特に推理ものは面白いかな」
「へぇ……」

イカロスは本に手を触れ、目を細める。

「俺でもちゃんと犯人を予想出来るからね。こういう場所のものだと、たまに前に読んだ人の残留思念を感じちゃうこともあるけどね。さすがに著者の思いまでは伝わってこない」

柚は感心したように相槌を打った。

イカロスの力は、精神的な負担が大きい。
本の中の世界に没頭することで現実から逃れ、心を読むことの出来ない"普通"を味わう。
彼独特の楽しみ方だ。

イカロスはパラパラとその本を捲りながら、目を細めた。

「デーヴァというのは父方の姓らしい。これも神話からだね」
「へ?」
「肝心の"アスラ"だけど、どちらかというと"阿修羅"と書かれることが多い」

目を瞬かせる柚の前に、イカロスは捲っていた本を止めて差し出す。

「それを調べたかったんだろう?」と問い掛けるように、穏やかに微笑むイカロス
柚は、道理で捜しても出てこないわけだと納得する。

柚はイカロスの顔を見上げ、本に視線を落とした。

「"ガルーダ"はヒンドゥー神話の鳥の王。"ハーデス"はギリシャ神話にでてくる冥府の王神、"アンジェ"と"ライラ"はどちらも天使だね。俺は……」
「イカロス将官はイカロスの翼だろ?小学生の頃に習った歌の印象が強くて、よく覚えてるんだ。蝋で固めた鳥の羽で空を飛ぶなんて、非現実的だなぁって。って、使徒の私が言うのも説得力ないけど。でも最後は……最後は、えっと」

歌詞を思い起こしていた柚の声が萎んでいく。
イカロスは苦笑を浮べ、「落ちて死んだ」と呟いた。

"デーヴァ"というのはアスラと敵対する神の名で、"阿修羅"は戦闘を好む鬼神だ。
かつては不死身で人間を助ける大いなる力を持った神とされ、「輝く者」という意味を持ちながらも、時代と共に地位が堕ちた神として知られている。
"イカロス"とは、脱出の為に鳥の翼を蝋で固めて空に飛び立ったが、父の忠告に背いて高く飛び過ぎたことにより、翼を固めていた蝋が太陽の熱に溶けて海に落下し死んでしまう話だ。
"ハーデス"は死者の王と言われ、名前を呼ぶことすら忌み嫌われている。

指を絡ませながら、柚は言い辛そうに口を開く。

「なんだか……こういうことって言うべきじゃないんだろうけど、一部若干その……不吉というか、その」
「うん、あまりいい意味ではないね」
「なんで?」
「どうしてだと思う?」

柚の問いに、イカロスはクイズを出すように訊ね返した。
柚は首を横に振る。

「実のところ、俺も本当の意味は知らない。けど……それは多分、戒めなんだと思う」
「戒め?」
「そう。神の名を与えながら、人間は俺達が神になることは望んではいない」

柚は眉を顰めてイカロスを見上げた。
言葉に出来ない違和感が押し寄せてくる。

太陽の光が差し込む窓辺に背を向ける彼の顔は、影が掛かったように表情が窺えない。
それがより一層、柚の中にざわめきを呼んだ。

「むしろ邪神の名を与え、そうなるなと警告しているんだろう。傲慢で、強欲で、実に愚かな――全ての生き物の頂点に立とうとする人間らしい。人間なんてものは、所詮自らを見失った下等な生物さ」

蔑むように放たれる言葉は、肌に針を刺す力があるかのような気がする。

窓から差し込む風が、ぱらぱらと本を捲った。
イカロスの手が、音を立てて本を閉ざす。

「……イカロス将官?」

躊躇うように手を伸ばした。
触れる寸前でその手を掴んだイカロスが、はっとした面持ちで息を呑む。

暫し……長く短い沈黙が流れた。
後悔をするように、イカロスは額を掌で覆い尽くす。

「……ごめん。無神経なこと、知ろうとしたかな?」
「ああ、違うよ。そうじゃないんだ……うん、俺のほうこそごめん」

伸ばされた柚の手を取ったまま、イカロスは小さく首を横に振った。

「参った、とんでもない置き土産だ」

イカロスは掌で目を覆ったまま、聞き取れないような声で独りごちる。
イカロスは溜め息と共に顔をあげたが、その顔には疲れのようなものが色濃く見えた。

「昨日、あまりよくないモノを拾ってしまったらしい」
「……大丈夫?顔色が悪いよ」
「柚ちゃんに言われるようじゃあ、よっぽどかな」

イカロスは苦笑を浮かべる。

「少し、力を貸してくれるかい?」
「何か出来るなら……」
「有難う。少しの間、こうしていてくれるだけでいい」

心配そうに顔を覗き込んでいる柚の掌を、イカロスは自分の頬に導く。

まるで眠るかのように、イカロスは瞼を閉ざした。
イカロスに触れる掌に重みが加わる。

瞼を閉ざしたまま、イカロスは心地が良さそうに小さな笑みを浮かべた。

「君達の心は、温かいね……」
「そ、そうかな?」

赤くなりながら、柚は首を傾げる。
静かな声が、思い出したようにぼんやりと語った。

「あまりそういう事例はないらしいけど、アスラの名前は彼の母親が直接付けたらしい」
「は?アルテナ・モンロー……議員が?」
「阿修羅というのは、インド神話では邪神として知られているけどね、神話によっては逆なんだよ」
「……そうか、そうなんだ。だから――」

アスラにとって、軍服とは"名"
"名"とは、母に与えられたモノ

あの時、アスラが浮かべた表情――それは"誇り"だ。
柚は安心したように、穏やかな微笑みを浮かべる。

すると、イカロスの肩がぴくりと揺れた。

「ああ、ハーデスが……そうか」
「え、ハーデス?何処?」
「いや。昨日、柚ちゃんの部屋に行っただろう?」
「ああ、うん」

イカロスは薄く瞼を起こし、小さく口を開く。

「あの子には、申し訳ない事をしたと思う」
「イカロス将官が?」

目を合わせないまま、ぼんやりとした声で呟かれるイカロスの言葉
こちらが理解をする前に話は進み、柚は必死に会話を追う。

イカロスの瞳がゆっくりと柚を見上げ、目が合った瞬間、吸い込まれて落下するような不快な浮遊感が体を襲った。
瞬きをした柚ははっと息を呑む。

図書館にいたはずだが、気が付くと目の前に青々とした森が広がっている。
幼いアスラとガルーダがいて、数名の研究員が見守っていた。

(これ……この感覚は、前に――アスラの記憶を見たときと一緒だ。じゃあ、今私が見ているのは……)

「イカロス、遊ぼう?」

ガルーダが自分に向けてその名を呼んだ。
体が勝手に動き、呼ばれた方へと駆け出す。

(イカロス将官の、過去の記憶?)





NEXT