11


「え……なんで?」
「護衛はライアンズに頼んだ。規定訓練も免除する。お前は今日一日部屋で休んでいろ」

正装をしたアスラを見上げる柚は、食い下がらずにアスラの腕を掴んだ。

「だからなんで?体のことだったら、今日は薬飲んだから大丈夫なのに!」
「なんだよ、こんなことで無理したってしょうがないだろ。大人しく休んどけって」

ライアンズが、アスラの腕から柚を引き剥がして宥める。
それでも嫌だと首を横に振る柚に、ライアンズは困り果てたようにため息を漏らした。

すると、アスラは思い至ったかのように静かな声音で「そうか」と呟きを漏らす。

理解して貰えたのかと思い目を輝かせた柚に、アスラの手が触れた。
まるで子供に言い聞かせるかのように、頬に軽く触れた手が離れて行く。

後に残るのは、余韻のように優しさを含んだアスラの眼差しだった。

「すぐに戻る。大人しくしていろ、命令だ」
「はァ?」

眉を顰める柚を他所に、アスラはライアンズに声を掛けて車に乗り込んだ。
納得がいかない面持ちの柚を見やり、ライアンズは慌てたようにその後に続き、車はあっという間に走り出す。

ぽつんと取り残された柚は、暫し立ち付くし拳を握り締めた。

例えお飾り目的の任務だろうと、今それを取り上げられたら、自分の使徒としての価値は何処にあるのだろう?
これでは、本当にただの役立たずだ。

そんな柚に、シェリーが遠慮がちに声を掛けた。

「あの、柚さん?せっかくお休みを頂いたんですし、お部屋に戻りましょう?」
「……休まなくても平気。訓練行ってくる」
「あ、柚さん!」

唇を噛み締め、柚はシェリーに背を向ける。
呼び止めるシェリーの声を聞かず、柚は一直線にジョージの下へと向かった。

「教官!」
「なんだ、柚。休んでなくていいのか?」

後ろから飛び付いて来た柚に、ジョージが驚いたように振り返る。
柚はジョージの筋肉質な体にしがみ付いたまま、背中に顔を埋めた。

「規定訓練、見て!」
「は?ああ、元帥から聞かなかったのか?今日は休んでいいんだぞ」
「平気だ!元気だもん!」

ジョージは目を瞬かせる。
一体何があったのか……検討も付かなかった。

「何かあったのか?」と訊ねても顔を上げない柚に、ジョージは思わず溜め息を漏らしてしまう。

すると、途端に柚の肩がぴくりと跳ね、柚はジョージから手を離して踵を返した。
青白い顔をしながら想い詰めたように噛み締められた唇に、ジョージは少なからずぎょっとする。

「あ、おい、柚!」

柚は無言で走り去った。

ジョージが途方に暮れていると、ヨハネスが顔を出して首を傾げる。

「柚君の声が聞こえましたが、どうかしましたか?」
「あー……いや」

ジョージは泣き出しそうな柚の顔を思い出し、言葉を濁した。
ばつが悪くなり、ジョージは頬を掻く。

「年頃の娘は難しいな……」
「は?」

ヨハネスは目を瞬かせた。





その日は、どこもかしこも閑散としているように感じた。
殆んどの仲間が任務に向かっており、いつも以上に疎らだ。

ふらふらと歩き回り、ついには建物の壁に背を預ける。

青空の下に出ても、やはり何も変わらない。
憂鬱さが、心にも体にも巻きついているかのようだった。

(これ以上迷惑掛けたくないのに……また迷惑掛けてる)

痛み出した腹を押さえながら、壁に凭れるようにしてずるずると座り込む。

(なんで、私だけ女なんだろう……)

二度と会えない父と母に届くくらいに強くなりたい。
アスラ達に恩を返せるくらいに、役に立ちたい。

そう強く願う心とは裏腹に、体が付いてきてはくれない。
それが周囲にいらぬ心配と気遣いを呼んでしまう。

悔しくて、腹立たしくて、情けなくて……
涙が出そうになる。

柚が立ち上がろうとすると、廊下を歩いていく研究員の声が開け放たれた窓から微かに漏れてきた。

「PMS?毎月能力が不安定になるなんて、戦闘には向かないじゃないか」
「全くだ。スローンズなのに勿体ない」

柚の瞳がみるみると見開かれていく。

自分の事だ。
心が締め付けられるように苦しくなった。

手が胸元を握り締め、ぎりりと奥歯を噛み締める。
逃げ出したくなったが、地面に縫い付けられたかのように足が動かなかった。

「だから、最初から大人しく子供を産むようにさせるべきだったんだ。なんだってあんな我侭を聞いたんだ」
「仕方ないだろ、アスラ・デーヴァが強引にそう決めたんだ。政府が頷いちまったらこっちは従うしかないさ」

胸元をぎゅっと握り締める手が、小刻みに震え始める。
それは、怒りや恐怖ではなかった。

何ひとつ反論出来ない……
自分自身、いかに役に立っていないかを知っているのだから。

壁から剥がれ落ちるように、視線が落ちていく。
自己嫌悪に、何処までも堕ちていってしまいそうな気がした。

「女だからっていい気になってるんじゃないのか?」
「はは、女王さま気取りか」

黒い刃となって、言葉が胸に突き刺さる。

その時、ガラスの砕け散る音に柚は思わずびくりと顔をあげた。

芝生にガラス片が降り注ぐ。
砕け散ったガラス片は太陽の光を弾くように、地面上で輝いて見えた。

「な、なんだ、西並!」
「どういうつもりだ!」

(焔?)

慌てふためく研究員達の声を聞きながら、柚は隠れるように身を縮める。
慌てながら怯えを隠すようにしている男達を、焔は侮蔑するように鼻で笑い飛ばした。

「別に?ガラスに手が当たっちまっただけだ」

皮肉めいた口調と共に、焔が口角を吊り上げる。
傾けられた漆黒の双眸が、まるで汚い物を見るかのように研究員達を睨み据えていた。

「つーか、退けよ。通れねぇ」
「なんだと、それが大人に対する口の利き方か!」
「あァ?なら、てめぇ等の考えはガキに対する考えか?」
「何を生意気な!お前達は黙って我々のいう事を聞いていれば間違いないんだ!この事は報告させてもらうからな!」

捨て台詞を残して逃げるように去って行く男達に向け、焔がうんざりした面持ちで舌打ちを漏らす。

羨ましいくらいに焔は揺るぎない。
自分が決めた事を、周りになんと言われようが貫く心の強さがある。

柚から小さなため息が漏れた。

柚はスカートの芝を払って立ち上がり、窓枠に手を掛けて廊下を覗きこんだ。

現れた人影に気付いた焔の鋭い双眸が振り返り、見開かれた。
あっという間に面白いまでに耳まで赤く染まっていく様は、柚には微笑ましくすら思える。

唇が喘ぎ、焔は上擦った声を上げた。

「い、いたなら言い返せよ!」

窓から身を乗り出し、照れた焔が怒鳴るように声を張り上げる。
先程の威嚇するような低い声ではない、歳相応の少年の声だ。

柚はなんだかおかしくなり、くすくすと苦笑を浮かべた。

「うん、そうだな」
「大体お前、具合が悪いんじゃなかったのかよ」
「別に、もう平気」

柚は焔に背を向け、窓と壁に凭れ掛かる。
柚が凭れる窓枠の隣で、焔は頬杖を付いて森へと視線を投げた。

「そうは見えないぜ。今日くらい休めばいいだろ」
「……私ばっかり、これ以上の特別扱いは受けられるか」

柚はつんとそっぽを向いた。
焔の溜め息が聞こえてくる。

柚は壁と焔に背を向け、芝生の上にぺたりと座り込んだ。

「どうせ焔はこれから自主トレだろ」
「……だ、だったらなんだよ」

図星を言い当てられ、焔は何処かばつが悪そうに頷く。

盗み見るように、焔は座り込んだ柚に一瞥を向けた。
柚の手は腹を覆うようにして体を丸めている。

すると、悪戯を含んだ赤い瞳が焔を見上げてきた。

「焔、ハーデスにボロ負けだったしなぁ……」
「う、うるせぇよ!お前だってフランツに勝てねぇだろ」
「うぅ……耳が痛い」

柚は耳を塞ぎ、膝に顔を埋める。

柚の口から出るのはいつも通りの憎まれ口だ。
しかし、どうみても本調子とは思えない。

無理をされては気になって仕方がない。
だが、こちらの心配を他所に柚は壁に手を突いて立ち上がり、意を決したように顔を上げた。

「私も今から自主トレする」
「お前が何しようと勝手だけどな、さっきの奴等にいわれた事、気にしてんのか?」
「そんなんじゃ……でも」

柚ははっきりとは否定せず、不貞腐れた面持ちで壁に凭れ掛かる。
八つ当たりをするかのように、ブーツの爪先が芝を蹴った。

「このままじゃ、焔ばっかり強くなっちゃうし」
「当たり前だろ。俺はお前と違って、前から力の使い方を知ってたんだぞ」
「でも、嫌なんだ。私だって、強くなりたい……」

ひやりと、焔の胸を締め付ける。
泣き出すのではないかと思うくらい、弱々しい声だった。

だが、彼女の気持ちも分かってしまう。
自分だって焦っている。

自分から妹の手を離したあの日、自分の力と向き合い、強くなると決めたのだ。

強さとは何か……
一番分りやすく自分が納得出来るものは、アスラ・デーヴァに勝つことだと思っている。

上級クラス、第一階級セラフィム
自分達が二人掛りでも倒すことが出来なかった神森のハムサを、まるで赤子の手を捻るようにあっさりと倒したあの強さは圧倒的だった。
元々いけ好かない相手だ、倒すことに何の躊躇いもない。

だが、追い掛けるように伸ばす手は、今だ掠めもしない。
柚が強くなりたいと思う理由は知らないが、追い掛ける者の焦る気持ちは分かる。

「だからって、規定訓練と講義に自主トレ、護衛任務に取材じゃ休む暇もないだろ。訓練したいなら、せめて取材の量を減らすとかあるんじゃねぇの?」
「それは!それは、駄目。だって政府には一応恩があるし、それに多分……パパとママが見てくれてると思う。元気にしてるってくらいの手紙も書けないんだぞ?まだまともな任務もないし、だったらせめて雑誌を通して、元気にしてるって現状を伝えるくらいしかないじゃないか」

顔を上げた柚は、必死の形相で捲くし立てた。

焔は僅かに目を見開く。

自分も同じだ、任務の内容によってはニュースに取り上げられる事もある。
ケルビムの力を持つ焔の初任務となれば、それは確実だ。
任務が決まったとき、やっと妹に現状を届けられると思った。

焔は持て余すように、長い指でくしゃりと黒髪を握りこむ。

すると、柚が小さな苦笑を浮かべた。

「でも、やっぱり違うかな……」

焔から、背を向けている柚の顔は見えない。
だが、声が、背中が、自分を押し込めているように感じた。

「本当は……私の理由はそんな綺麗なものじゃないな。ただ、そうすることで自分が満足したいんだと思う」

女として特別な扱いを受けたから、仲間達に対し、無意識に引け目を感じているのかもしれない。
だからこそ、所詮は女と言われないように、仲間達に負けないくらい強くなりたいと努力している。

仲間達は何も言わないが、強くなることで恩に報いなければ、存在する意味すら見失いそうだ。

使徒という理由で家族と引き離されたのだから、使徒としての役目を全うしなければならない。
そうしなければ、自分の為に涙を呑んだであろう二人に顔向けが出来ない。

口を噤み俯いたまま黙り込む柚に、焔は上げ掛けた右手を下げ、左手でがしがしと頭を掻く。

「ったく……」

顔をあげた柚は、背を向けた焔を見上げた。

「ごちゃごちゃ考え込んでんじゃねぇよ、お前らしくもねぇ……。具合が悪いからろくな事考えないんだろ」
「そうかな?」
「さっさと部屋に戻って寝ろ」

焔の背が、凭れていた窓から離れる。
そのまま何処か遠くへ行ってしまう気がした。

だが、何処へ行くでもなく、焔は肩越しに振り返って柚を見下ろす。

「調子戻ったらいつでも訓練の相手してやるから……」
「え?本当に?」
「あ、ああ」

驚いたように見上げてくる柚に、焔はたじろぎながら頷き返した。

「言っとくが、タダじゃねぇぞ」
「え?何?デザートとかか?」
「お前の思考回路と一緒にすんな」

顔を曇らせる柚を、焔は半眼で見下ろす。
そして、顔を背けながら小さく口を開いた。

思わず声を潜めるように小さくなる。
それは、自分の弱みを曝け出すことと変わらないように思えたからだ。

「教えろよ……ハーデスの見つけ方」
「あぁ、なんだ。はは、そんなこと?」

柚はおかしそうに体を丸め、声を上げて笑い出す。
笑われた焔は、赤くなりながら柚を黙らせようとした。

すると、柚は顔を上げて目を細める。

「じゃあ、焔が約束守ってくれたとき、教える」
「……ああ」

くすくすと笑う柚に、焔は調子を狂わせながらため息を漏らした。

「じゃあ、俺もう行くからな。大人しく寝てろよ」
「んー……寝るのは嫌だな」
「お前っ!」
「分かってるって。訓練はしない、寝ないけどちゃんと大人しくしてる」

柚は、焔にくるりと背を向ける。

儚い風貌を強調する白い肌も、プラチナピンクの髪も、白い軍服さえも……
今は不安を抱かせるくらいに柚を弱々しく見えた。

「だから、焔もその手……」

焔はぎくりとする。

右の拳からは、ガラスを殴った衝撃で出来た傷から血が滲んでいた。
先程から一度も見せていないので、気付かれていないと思っていたのだが……

苦笑を浮かべ、柚は指摘した。

「不自然に隠し過ぎだ」

焔は、複雑そうに視線を落とす。

彼女の洞察力には、舌を巻くものがある。
自分が敵わないと思う要素を沢山持っていながら、本人が一番それを理解していない。

「私も大人しくしてるから、焔もちゃんとその怪我、ヨハネス先生に診て貰えよ?」
「これくらいなんてことない」
「じゃあ、私も訓練する。焔、今から付き合って」
「お前なァ……」
「なんだよ、約束破るのか?」
「あぁ、くそっ!分かったよ。ちゃんと診てもらうから、もうお前も行け」

柚は満足したように笑みを浮かべた。

柚の唇が、声なく「ありがとう」と呟く。
一瞬でもそんなしおらしい姿を見せられると、とことん調子が狂う。

去っていく柚を見送り、焔は小さく舌打ちを漏らした。





NEXT