10


「なんだ、そうだったんですか。風邪とかじゃないんですね、安心しました」

部屋の前で、フランツはほっと胸を撫で下ろした。
シェリーも安堵の微笑みを浮かべて返す。

「本当にシェリーがいてくれてよかったですよ。有難う御座います」
「そんな!でも、お役にたてて良かったです」

人気のない廊下に、軍靴の音が響き始める。
フランツとシェリーが顔をあげて振り返った。

颯爽と歩くアスラと共に、イカロスが此方へと向ってくる。
フランツは廊下の端へと避けながら、二人を見上げた。

「ご苦労様、柚ちゃんはどう?」

フランツの頭を撫で、イカロスの穏やかな声音がシェリーに向く。
イカロスの問い掛けに、シェリーは部屋に視線を向けた。

「今、お休みになったところです。お薬も飲みましたし、もう大丈夫だと思いますよ。ところでデーヴァ元帥……そのお花は?」
「見舞いには花だ。撮影に使ったものだが」

少し得意気に返すアスラが手にする、似合い過ぎる大きな赤い薔薇の花束に、フランの顔が引き攣る。
イカロスが渇いた笑みを漏らした。

「そんな、病気ではありませんし……その、花なんて――…」

申し訳なさそうに、シェリーは花束から顔を逸らす。
アスラは無言で花束を見下した。

イカロスが苦笑を浮かべ、「ほらね」と呟く。

「だから、柚ちゃんは甘い物が食べたいんだって言ったでしょ」
「イカロス将官、その手にしているのはもしかしてチョコレートですか?柚さんに?」
「え?そ、そうだけど……駄目、だったのかな?」
「せっかくですが、チョコも、その……生理痛が酷くなると聞きます」

気まずそうにするイカロスに、アスラが不機嫌に「ふんっ」と呟きを漏らす。

「お二人とも、柚さんを心配なさっているお気持ちは同じ女として有難いとは思うのですが、放っておいて差し上げてください。私、生理痛と知ってお見舞いに来られたら、あの、恥ずかしいです。場合によっては……なんてデリカシーのない方だろうと幻滅します」

申し訳なさそうにしていたシェリーの瞳が、心なしか責めるようにアスラとイカロスを見上げた。
二人が、「うっ」と言葉に詰る。

シェリーに圧倒される二人に、フランツは必死に笑いを堪えた。
「笑いたければ笑えばいいよ」と、拗ねた面持ちのイカロスが吐き捨てる。

「その……そうですね、トイレのようなものだと思ってもらえれば」

シェリーは恥らうように頬を染めて俯いた。

「ごめんなさい、出過ぎたことを言ってしまって。辛い時は本当に辛いので、痛みを分って欲しいと思うこともあります。ですが、気付いても知らないフリをしていて欲しいんです」
「いや、いいんだ。ね、アスラ?柚ちゃんの為に来てもらったけど、俺達も助けられる。シェリーちゃんのお陰で、柚ちゃんに嫌な思いをさせずに済みそうでよかった」
「そうだな。俺からも礼を言おう、感謝する」
「あ、はい!」

アスラの顔に小さな笑みが綻んだ。
シェリーが目を見開き、頬が赤く染まってゆく。

そして、そのまま自室へと戻ろうとしたアスラが思い出したように振り返り、シェリーの手に花束を渡した。

「やろう」
「え……ですが」
「そうだね、俺達が持っていても仕方がないし……ついでにこれもあげるよ。チョコは嫌い?」
「いいえ、有難うございます」

シェリーは、おっとりと微笑んで返す。

去って行く二人を見送り、シェリーは緊張の糸を解くように溜め息を漏らした。
なぜかフランツにまで再度感謝の言葉を告げられ、シェリーは苦笑を浮かべて柚の部屋に戻る。

薬が効いてうとうととしていた柚は、部屋に戻って来たシェリーに瞼を起こした。
ぼんやりとしたままシェリーの名を呟くと、柚が起きていた事に驚いたように、シェリーが慌てて振り返る。

「え?あ、はい?」

シェリーが隠し切れない大きな花束と有名なチョコブランドの袋を背中に隠した。

(あの花……あぁ、今日の撮影で使った花束?)

よく回らない思考で、柚は記憶の中から見覚えのある花束を引き出す。

明日はアスラの護衛任務だ。
その事で何か用があって、アスラが部屋を訪れたのかもしれない。

「声が、したけど……誰か来てた?アスラ?」
「い、いえ!ちょっと、いらないのでと頂いて……その、深い意味はないんですよ?たまたま頂いただけですから!」

見舞いの品だと悟られないように必死に隠そうとするシェリーは、逆に不審だった。
逃げるように上着を手に取り慌てて部屋を出て行くシェリーに、柚はぼんやりとした頭に疑問を浮かべる。

(アスラがシェリーに?花を?)

眠気が押し寄せた。
眠気に負けて、柚は瞼を閉ざす。

(シェリー、可愛いしなぁ……)

無性に悲しくなってくる。
心が、意味もなく不安定だった。

自分はシェリーのように、女らしくも可愛気もない。
戦力としては不完全で、そのくせ女としての役目も果たしていない。

自分の価値はなんだろう?
この先、毎月このような状態を迎える自分は、皆に迷惑を掛けていないだろうか?

アスラにとって一番である母と喧嘩をしてまで与えてくれた、女の使徒としてではなく、普通の使徒として過ごせる"時間"
その時間を、とても無駄に消費している気がする。

そこまでして彼にさせた決断は、正しかったのだろうか?

(私……何やってるんだろう――…)

ぽつりと心の中で呟き、柚は夢の世界へと誘われた。


笑う声が耳に届く。
柚は不機嫌な面持ちで振り返った。

「なんだこいつ、変な耳!」

クラスの男子が、野次を飛ばす。

「気にしないほうがいいよ、柚ちゃん」

前の席に座る友人が、男子に呆れた眼差しを向けた。

「お前みたいな凶暴ブス、絶対嫁の貰い手いないぜ」
「余計なお世話だ!」
「わー、逃げろ!凶暴女が怒った」

蜘蛛の子を散らすように、教室から逃げ出していく男子
柚はむすっとした面持ちで椅子に腰を下ろした。

「嫌な奴ら」
「あいつ等、柚ちゃんに気があるんだよ、きっと」

後ろの席の友人が、他人事の様に笑いながら告げる。
途端に、柚は肩を竦めた。

「ありえないよ。皆、ユリちゃんみたいなお淑やかで可愛い子が好きだもん」

視線が、クラスのマドンナ的存在の少女に向けられる。


柚は、はっと目を覚ました。

「ごめん、起した?」
「ぁ……ハーデス?」

瞼を起こした先には、ベッドに浅く腰を掛け、自分の顔を心配そうに覗き込んでいるハーデスの顔
あまりにも不安そうなハーデスの顔を見て、柚は静かに首を横に振った。

「嫌な夢でもみた?」
「わかるの?」

思わず苦笑が漏れる。
ハーデスの顔にふっと寂しげな笑みが浮んだ。

「分かるよ……」

心地の良い、穏やかな声音と口調
少し冷たい掌が、柚の髪を撫でていく。

時計に視線を向けると、夜の十一時だ。
随分眠った気がするが、それほど時間が経っていないことに気付く。

するとハーデスは、柚の枕元に熟れたゆずの実を置いた。

「前に双子がね、柚と同じ名前の実があるって言ってたから、菜園に行って採ってきたんだ」
「いい香り」

柚は枕元に置かれたゆずの香りに目を細める。
そんな柚の顔を見下し、ハーデスも目を細めた。

「俺、柚のことが気になってるんだって」
「え?」
「確かにそうかもしれない。柚が笑ってると、俺もなんだか嬉しくなる。でもこの頃、なんだか元気がなかったから心配だった。昼は元気だったのに、具合が悪いって聞いて……」

ハーデスの声が、喉に詰まるように途切れる。
ハーデスは、心配そうに顔を歪めていた。

「ユリアに聞いたら、男は口を挟まない方がいいって言ってたけど……本当?心配するのは迷惑?」

柚は苦笑を浮かべる。
枕元のゆずに手を伸ばし、愛しそうに瞼を閉ざした。

「心配してくれてるのに迷惑なんていわないよ。でも病気じゃないから、心配してくれるほどのことじゃないんだ」
「……そうなの?」
「うん」

柚はこくりと頷き返す。
その顔に穏やかな笑みが浮かび、柚はハーデスの心配そうな顔を瞳に映した。

心配で、不安で、今にも泣き出すのではないかと思うような……頼りない顔をしたハーデス
それほどまでに、自分を心配してくれる人

申し訳ないくらいだ。
だが、嬉しいと思ってしまうのだ。

「すぐにいつも通りになるから」
「わかった」

ハーデスは控えめな笑みと共にベッドから立ち上がった。

「おやすみ」と耳元で囁くような声を残し、ハーデスの姿が闇に消える。
柚は小さく笑みを漏らし、心地が良さそうに瞼を閉ざした。

明日からはまたいつも通りに振る舞い、せめて与えられた任務をこなし……
ただ前を向いていよう。

そう決意した翌朝、柚は途方に暮れた。





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