岩盤が折り重なる狭い入り口を抜け、踏み固められた坂道を上っていくと、ひらけた平坦な広場に出る。

中は別世界だ。

天井から満遍なく降り注ぐ太陽の光
その下には緑の柔らかな芝原が生い茂り、黄色の花々がときたま吹き込む穏やかな風に揺れる。

その中庭を囲むようにぐるりと背の高い岩壁が聳え立ち、何層にも別れて岩穴らしきものがひしめいていた。
岩壁に根を張る逞しい木々の上で、小鳥達が歌を歌う。
芝原を蝶が舞い、中央には巨大な林檎の巨木が聳え立つ。
その周囲を囲う噴水が穏やかな水音を立てている傍で、褐色の肌をした女達が裸で水と戯れていた。

螺旋階段が入り組み、黒い装束を纏い、頭の後ろに面を付けた男達が動き回っている。

水を運び、火を焚き、食料を運ぶ。
並んだ洗濯物の間を、小さな子供達が元気に駆け回る。

懐かしい光景を噛み締めながら、一段ずつ階段を上った。
すれ違う度、男も女も傅き、感銘を受けるかのように感嘆の声を漏らす。

最上階まで上り詰めると、男は武骨な手を手摺りに乗せ、足元に広がる光景を見下ろした。
最上階から見下す人々が生活する姿は、まるで神が地上を見下しているかのようだ。

控えめな足音と共に、嬉しそうな声が「父上」と呼ぶ。
それはとても愛しい声だった。

顔に大きな傷のある壮齢の男は、息子に対する愛しさを抑え、寛厳な面持ちで振り返った。

「アルヴァか、大きくなったな」
「はい!」

数年ぶりに会った息子は背が伸び、以前は母の面影が強く、柔らかい印象の強かった瞳がすっと切れ長に研ぎ澄まされた感がある。
笑うとやはり母に似ているその顔は、はにかんだように微笑んだ。

「おかえりなさい、いつお戻りに?」
「つい先刻だ。これより宗主に報告に参る」
「そうでしたか、お呼び止めをして申し訳ありません」
「すぐに終わる、少し待っていろ。どれ程腕をあげたか見てやろう」
「はい、お父上!」

嬉しそうに返すアルヴァに背を向け、男は岩穴への細い通路に入った。

ドアの役目を果たす薄絹の前で足を止める。

薄絹の幕越しに、うっすりと浮かび上がる人のシルエット
懐かしい香の香りが絹の奥から漂う。

「おかえり、スィフィル。長旅、ご苦労だった」

中から掛けられた声と共に、艶やかに着飾った踊り子の女が絹を捲りあげた。
床榻に腰を掛けた男は、女達に長い黒髪を結わせながら口元に笑みを乗せる。

それは、人を魅了する魔の力があった。

「ただいま戻りました、さっそくご報告を」
「そう焦らなくとも、私は逃げはしない。まずは一杯、付き合わないかい?」

スィフィルに杯を傾け、男はくすりと艶やかに微笑む。

「息子を外に待たせておりますので、申し訳ありません」
「アルヴァか……父と息子の久しぶりの再会ともなれば、長居をさせるには気が引けるな。報告は後で構わない」
「いえ、しかし」
「スィフィル」

肘掛にゆったりと頬杖を付き、男は笑みを浮かべた。

語調が強いわけでもないというのに、それ以上の言葉を紡がせない……絶対的な声
スィフィルは傅き、口を噤んだ。

女が艶やかな笑みを共に、男の口元にキセルを運ぶ。
男はそれを手で制止し、一度見たら忘れられない……血のように赤い瞳を細めた。

「アルヴァはさすがにお前の子だ。とてもよく出来た優秀な子だと常々思っている」

音もなく立ち上がった男は、まるで雲の上を歩くかのような足取りでスィフィルの隣を通り過ぎ、僅かに首を傾ける。
艶やかな黒髪が、男の肌を彩った。

眼差しはやはり優美であり、獰猛さなど微塵もない。
慈愛すら感じる視線を穏やかに細め、男は口を開いた。

「アルヴァには、近々とても重要な仕事を頼もうと思っている」
「息子に、ですか?」

傅いたまま振り返り、スィフィルは僅かに目を見開く。

「ああ、エヴァの話は聞いているね?」
「はい」
「……人の親として、大切な子を危険に晒そうとしている私が憎いか?」
「いいえ、滅相も御座いません。我が息子を重大な任務に抜擢頂き、親として嬉しく思います」

その"嘘"を見透かすように、男は口元を吊り上げた。


第四次世界大戦の最中だったという。

統一国家からの分裂により起った長い戦争の時代が続き、人々は強いストレスを抱え込んだ。
その影響により、環境と社会に適合すべく新しい力を宿した新人類が誕生した。

人によって備わる能力は違えど、自然を操り空を飛ぶなど、人外の力を宿す。

人々は新人類を神の使い"使徒"と名付け、世界は一時的に戦争を放棄した。
各国家は膨大な資金をつぎ込んだ研究施設を立ち上げ、軍機関に使徒のみで構成された部隊"特殊能力部隊アース・ピース"を創設する。

それに反発し、使徒は人類を滅ぼす脅威だと主張する者達が、テロ組織"エデン"を結成した。
同時に、使徒こそが世界を担うべきと主張する使徒とその信者による組織、"神森(しんしん)"が名乗りを上げた。


神森の宗主の本当の名を、知る者はいない。
血のように赤い瞳をしたその男は、自分の名を人類の父"アダム"と名乗り、対となる"エヴァ"を求めていた。










太陽の光が空でさんさんと輝いていた。
だが、ここには決して届かない。

遠い笑い声を、離れた場所からいつも眺めていた。

そこには、太陽の光が溢れている。
否、彼等の微笑みが、まるで太陽の木漏れ日のように思えた。

羨ましかった、ただひたすら、憧れた。
皆と一緒に話をして、笑ってみたい。

だが、一歩を踏み出す勇気がないのだ。
喉がカラカラに渇き、声の出し方を忘れたように喘ぐのみ。

いつも、ずっと……
誰かが声を掛けてくれるのを待っていた。

誰も自分など気に止めてくれない事を知っていながら、ただひたすら、待つ事しか知らない――…

ある日、そんな自分に太陽の光が差し込んだ。
今思えば、どちらかというと後悔をしているのかもしれない。

"こっちへおいで?そんな日陰にいたら寒いよ?"

初めて手を差し伸べてくれた人は数年後、目を血走らせて叫んだ。

――返せ!私の足を返せッ、この疫病神!!

優しかった顔を歪ませ、穏やかだった口調を乱暴に染め……
形容するのに"憎悪"以外当てはまらない、そんな憎しみの目で俺を見て、あの人は叫んでいた。

醜いまでに……



一台のトラックがゲートをくぐった。
ゲートを抜けた先に続く一本道を木々が囲み、トラックは真っ直ぐと進む。

一本道の先には、白く巨大な建造物があった。

鏡に映したかのように、同じ構造の建物が並んでいる。
その中央で塔のように突き出たビルの上から、ハーデスは自分の自由が許される"世界"を見下ろしていた。

エントランスの前で目を光らせる軍人の腕には、腕章が誇らしげに存在を主張している。
この特殊な施設に派遣されている"人間"は、世間一般にエリートと称される部類の人間だ。

中央棟にはアジア帝國の国章が刻まれ、龍が描く円の中央に、アジア領土が描かれた国旗が悠然と空にはためく。

だが、西館の中を行き交うのは白衣を着た研究員の姿ばかり。
東館にいたっては、ほとんど人影もない。

"特殊能力国家研究所"と"特殊能力軍事基地"が並ぶこの広大な敷地を訪れたトラックが、中央等の横に車を停止させる。
トラックから降りた軍人の青年はまだ年若かった。

警備兵に敬礼を送り、証明証を呈示する動きがまだぎこちない。

一日に一度、この基地内で生活する人々の為の生活物資を運ぶ。
お陰で荷物は大量だ。
朝に入り、荷物の整理と引渡しを一人でこなし、基地を出るのは夜になる。

次に空を見上げる時、出会うのはきっと白く丸い月だろう……
青年はこれからの作業を覚悟するように、眩しい太陽の光を遮りながら空を見上げた。

ハーデスは森に別の気配を感じ取り、中央棟の屋上から空に向けて足を踏み出す。

ふっと体が軽くなり、再び重力に引かれる。
白い軍靴の爪先が突き出た巨木の上に舞い降りた。

純白の生地に赤のラインを散らした軍服の左肩で、ここでの"価値"を示す、二枚の肩章が風に揺れる。

風が目に掛かる長めの前髪を揺らし、隙間から灰色の瞳が顔を覗かせた。
薄い唇が小さく開き、青年は小首を傾げながら、ぼんやりとした気だるげな瞳を細める。

その瞳の先に、周囲の木々の間に浮ぶように立つ、白い軍服を纏う少女の姿があった。

何もない少女の足元で、小さな水飛沫があがる。

少女は光を浴びるとピンク色の輝きを浮かべる銀髪を揺らしながら、青い空を全力で駆け抜けた。
踏み出した足元で小さく水が跳ね、押し出された体と共に空を蹴る足元が更に飛沫を散らす。

その少女を追って放たれた風の針の追随を許さず、少女は目標の少年を射程距離に捉えると、長い髪を揺らし、何もない空間から勢い良く飛び降りた。

ミルクティーを思わせる柔らかな髪色の少年は、振り返った瞬間、少女の目前から消える。

それは決して姿を消したわけではない。
単に、少女の目が少年の動きに追い付けなかっただけの事だ。

攻撃目標を失って着地した少女を、風の余韻が撫でて消えていく。

その気配を追って振り返ると、太陽を覆い隠すように立つ少年が少女の喉元に針を突きつけるのとは、ほぼ同じタイミングだった。
振り上げかけた手があと数秒ほど早ければ、良くて引き分けに持ち込めたかもしれない。

勝負あったとばかりにフランツ・カッシーラーは、少女の喉元に突き付けていた針を下ろした。

「僕の勝ちですね」

フランツは、指に挟んだ針を腕に装着したグローブに戻しながら、ピンク色の瞳を嬉しそうに細めてにこりと微笑む。
少女・宮 柚(みや ゆず)はため息と共に地面に腰を下ろし、ピンクの前髪をかきあげた。

「あーもう!また負けた」

不貞腐れたように芝生の上に寝転がる柚に、巨大な影が掛かる。

「どうした、柚。スランプか?」
「きょうかーん!」

不服そうな少女に対し、困ったように自分の髭を撫でる筋肉質で背の低い男
ジョージ・ローウィーに対し、柚は口を尖らせた。

「なんかこう、すかっと一撃でフランを打ちのめせるような技ない?」
「ゆ、柚!?聞き捨てなりませんよ!」
「だってフラン、ちょこまか逃げるんだもん」
「風属性の最大の特徴はスピードなんです」

口を尖らせてそっぽを向く柚に、フランツは涙目でジョージの後ろに隠れる。
ジョージは柚を見下し、溜め息を漏らした。


政府は新人類が新たな戦争の兵器になることを確信していた。
政府政策の甲斐あって、使徒は人々の期待と関心を一身に背負うこととなる。

国は広大な土地に研究施設と隣接したアース・ピース専用の基地を造り、周囲を厳重な塀で囲った。
国民から使徒の情報を募り、使徒と確認すれば、莫大な金額で反論も許さず家族から買い取り、一切の交流を絶った。
まだ数の少ない使徒の生態を維持する為、徹底した管理を行い、同時に使徒が不穏な行動を起さないように自分達の監視下に置いた。

しかし、使徒には女性の出生率が圧倒的に低いという欠陥がある。

過去を含め、今まで百六十八名確認された使徒の内、女性の使徒は今だたったの五人
現在では、四人しか生存していない。

アジア帝國唯一の女性使徒・宮 柚は、二ヶ月前にアース・ピース元帥、アスラ・デーヴァにより保護された。
女性であり、国内に五人しか存在しない上級クラスの力を持つ柚は、純血使徒の誕生を願う政府にとって、貴重な人材だった。


彼女の肩には、最高クラスである三枚の肩章が揺れている。
だがハーデスは、一度も彼女が自分よりも強いと思った事はない。

決して、彼女を見下しているわけではない。

純粋に力のみをぶつけ合えば当然ながら自分は負けるが、戦いとは力の押し合いではない。
だからこそ、下級クラスであるフランツが上級クラスである柚に勝っても、不思議にも思わない。

「柚……」

小さな呟きが風に乗る。

彼女がここに来て二ヶ月
生まれて始めて見た、同種の"女"

すぐに皆と馴染み、今では昔からいたかのように仲間に囲まれている。

柚が来て、皆の何かが変わった気がしていた。
それはまだ、言葉に出来ない。

ただ言える事……彼女はとても眩しい存在だ。
触れれば自分が溶けてしまいそうな程に。

それが、"女"という存在なのか……
はたまた、"柚"という存在なのか……

知りたいと思う気持ちと同時に、胸に針を刺すような痛みを覚え始めたのはいつからだろう?

ハーデスは静かに瞼を閉ざし、瞳からその姿を消し去った。





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