「と言うわけで、それが一日のスケジュール。決められた訓練量さえこなしていれば、任務がない限り基本的に自由だ」

柚と焔はひとつのソファに座っていた。
互いにソファの両端に座りながらそっぽを向いて座る二人に、ライアンズが咳払いを挟む。

「ジョージ・ローウィー教官がお前等に戦闘訓練の担当だから」
「それより……私は一度家に帰りたい」

柚がぽつりと呟いた。
ライアンズがぴたりと口を紡ぎ、柚を見下す。

彼は冷めた口調で告げながら、柚から顔を背けた。

「却下。本人の意思に関係なく一度此処に入ったら、二度と外出、面会、一切許可されないのが此処のルールだ」
「……なぜ?」
「俺が決めたんじゃねぇよ、そんな目で見んな」
「じゃあ、せめて電話とか手紙とか……」
「それも無理だ」

きっぱりと言い切るライアンズに、柚は俯く。

別れすら言えず、今まで注がれた愛情へのお礼も言えず、それはあまりに唐突な離別だった。
両親が死んだわけではない、だが二度と会えない。
それがもどかしい。

気持ちが沈んでしまう。

ライアンズはばつが悪そうに頭を掻いた。
ヨハネスが申し訳なさそうな面持ちで、柚の機嫌を窺うように口を開く。

「前に……家族との手紙のやりとりを通して、テロ組織と密通していた使徒がいたらしいです。それが発覚してからは、全て禁止になってしまったんですよ」
「そいつ一人のせいで?」
「ええ。で、ですがその代わり」

ヨハネスが気分を切り替えるように明るく告げた。

「ご家族には政府から多額の報奨金が出るんですよ」
「ふうん……」

素っ気ない返事が返って来る。
ヨハネスが笑顔で固まった。

「使えねぇ……」と、ライアンズが吐き捨てる。

すると、くつくつと肩を揺らす焔が皮肉めいた視線を向けた。

「で、お前等は泣き寝入りしたのか?」
「……露出狂が偉そうに言ってくれるじゃねぇの?」

腰に手を当て、ライアンズが鼻で笑い返す。
フランツが額に手を当て、思わず溜め息を漏らした。

その瞬間、柚が小さく噴出し、笑い声をあげる。
焔の顔が引き攣り、焔はソファから勢い良く立ち上がった。

「て、てめえ!笑うな!?」
「笑いたくもなるわ……なんで戻って来た?」

柚の笑みはすぐに暗い陰を落とし、返る言葉は責めるように冷たい。
焔はたじろぐように、ばつが悪そうに顔を逸らした。

イカロスに言われたからじゃない――と、焔は心の中に苦々しく呟く。

女一人を囮に逃げるような卑怯者になりたくなかった。
あの時、恐怖を押し殺して囮になろうとしてくれた彼女が「恐かった」と本音を漏らした時、少しでも出ていくことを迷った自分が許せなかった。

それなのに……

「てめぇのような女に貸し作ったら、後で何言われるかわかんねぇだろ」

口から出る言葉には、いつも後悔を覚える。
もう少し別の言い方が出来たはずだと……。

素直に「ありがとう」の一言も言えない自分が無性に嫌になる。

柚は焔と目を合わせずに俯いた。

「馬鹿だろ、お前。そんな理由で戻って来たのか?それで一緒に捕まってたら話にならん。大体……あんな無茶して、死んじゃたかと――」

膝の上で、ぎゅっとスカートの裾を握り締めた。

焔は唇を引き結び、ふいっと顔を逸らす。
こうなると、どうしていいのかさっぱり分からないので、ついむすっとした顔になってしまう。

ライアンズは溜め息を漏らし、二人の前に立った。

「お前等なぁ……一応これから一緒に生活する仲間なんだから、もうちょっと歩み寄れ」
「「……」」

二人が全く同じタイミングでライアンズの顔を一瞥し、鼻を鳴らしてそっぽを向く。

「なんでこんな暴力女と仲良くしなきゃなんねぇんだよ、願い下げだ」
「それはこっちのセリフだ。普通あんな格好で部屋から出てこないだろ?無神経にも程があるぞ、変態。それともそういう趣味か?お前の将来不安だな」
「なんだと、てめぇ!てめぇが勝手に見やがったんだろうーが!いつまでもネチネチ言ってんじゃねぇよ!大体、お前こそ人の事をボコボコ殴りやがって、自分の方がそういう趣味なんじゃねぇの?」
「そういう趣味ってなんだ?え?言ってみろ、露出狂!見せられたこっちは精神的苦痛を味わったぞ!不愉快極まりない!」

人の言う事を全く聞かない二人の態度に今にも爆発しそうなライアンズに、「落ち着いて」とフランツが囁いた。
すると、青褪めてヨハネスが立ち上がる。

「せ、精神的苦痛!私のせいで……!ストレスは健康の大敵ですよ、大変です」
「お前もうぜぇ」
「うざいとは何事ですか!私は仕事を……」

ライアンズに後ろから蹴られたヨハネスがはっと口を噤む。
慌てて立ち上がり、敬礼の姿勢をとるヨハネスに気付き、ライアンズとフランツも姿勢を正した。

「デーヴァ元帥」
「何を騒いでいる……」
「申し訳ありません」
「てめぇ!」

焔がアスラに気付き、勢い良く立ち上がる。

「よくも俺をこんな場所に連れてきやがったな!」
「……」
「うっ!?」

アスラが焔を見下す。
その瞬間、焔が見えない力に圧迫され、床に倒れ込む。

ライアンズが、「ご機嫌斜めだ」と心の中で溜め息交じりに呟いた。

「元帥!相手は怪我人ですし、まだ状況を理解できていません。乱暴はお止め下さい」

慌ててヨハネスがアスラを止めると、焔の上から重圧が引く。
焔はギリリと奥歯を噛み締め、床に爪を立てた。

圧倒的な力の差、横暴な態度
アスラ・デーヴァという男が、憎らしいほどに腹立たしい。

アスラは目を丸くしてソファに座る柚に視線を向け、歩み寄った。

「ぅ……」

柚が萎縮するように遠慮がちにアスラを見上げる。
アスラが柚の手首を掴んだ。

「来い」
「え?」

引き摺られるように部屋を出て行く柚を見やり、ライアンズは頭の後ろで腕を組む。
フランツが不安そうに顔を顰めた。

「なんであんなに不機嫌なんですか?」
「戻ってすぐに呼び出されたんだよ、政府に」

腕を組んだライアンズが、低い声でぼそりと呟くように返す。
ライアンズは溜め息交じりにソファに腰を下ろした。

立ち上がる焔にヨハネスが声を掛けると、その手を振り払われている。

「性急過ぎやしないか?」
「さすがに、ねぇ……」
「何のお話ですか?」

ヨハネスが二人に声を掛けると、二人が顔を見合わせた。

「これだから、童貞は」
「どっ!?そ、それは関係ないでしょ!」
「ありますよ、先生」
「フランツ君まで!?」

「けっ」と吐き捨てるライアンズに、ヨハネスが真っ赤になって上擦った声をあげる。
焔は三人をいぶかしむ様に睨み付け、眉を顰めた。





アスラは自室の前に辿り着くと、片手でスイッチを押す。
ドアが開き、部屋のライトが自動で灯る。

自分の部屋よりも若干広い部屋からは、生活感が感じなかった。

アスラは正装の軍服を脱ぎ、ソファに掛ける。
柚はドアの前に立ち尽くしたまま、ぽかんとした面持ちで部屋を見回した。

「何をしている、来い」
「は、はぁ……」
「そこだ、飲んでおけ」

ガラスのテーブルの上に錠剤と水の入ったペットボトルが置かれてある。

「何、これ」
「催淫剤だ」
「は?何それ……なんの薬だ?」

アスラは答えずに柚の隣を通り過ぎた。
ベッドに座るアスラを目で追い、柚は薬を飲まずにテーブルに戻した。

「あの、さ……ひとつ、聞きたかったんだけど」
「……」

返事はない。
続けていいのだろうかと迷いながら、柚は意を決して続ける。

「アイツ、誰だ?あの、黒い奴……私を"エヴァ"って。"エヴァ"ってどういう意味?」
「ひとつじゃなかったのか?」
「うっ、そ、そうなんだけど……」

柚が指を絡ませ、もごもごと返す。
アスラは憂鬱そうに溜め息を漏らした。

思わず、ぎくりとする。

柚には、アスラがどういう人間なのかさっぱり検討がつかない。
強い力を持ち、人形のような感情を映さない顔をして、抑揚のない声で淡々と話す。

アスラという人間性が全く見えてこない。
先程の質問すらアスラにとって気分を害するものだったのではないかと思えてしまう。

「あれは、テロ組織"神森"宗主・アダムだ。お前をエヴァと呼んだのは、おそらくお前が女だからだろう。アダムとイブのイブと言えば分るな?エヴァはイブの別称だ」
「アダムと……イブ」
「人類の始祖を意味する。お前に子供を産ませ、今度は使徒の始祖になろうとでも考えているんだろう」
「こっ、こ、子供!?」

柚は赤くなり、上擦った声をあげた。

「別に驚くことでもない。誰もが考えることだ」
「え……?」
「種の繁殖は、生物に備わった本能だ」
「え、えっと……」

柚が頬を掻く。
そういう言われ方をすれば、身も蓋もない。

ベッドに座っていたアスラが立ち上がり、目の前に立つ。
こうして改めると、やっぱり大きいなと柚は思った。

すると、アスラが柚の手を掴んでベッドに突き飛ばす。

「っ!ちょっと、いきな……り」

何か怒らせるようなことをしただろうか?
柚は困惑した。

だが、圧し掛かってくるアスラに柚の頬を汗が伝う。

「何を、するのでしょうか?」

思わず態度が下出になる。

恐ろしく整った顔
完璧な顔立ちの上、無感情な顔が彼を人形のように見せる。

アダムは妖艶な美しさを持つ男だが、アスラは白馬に乗って現れそうな正統派の美しさだ。
そのくせ恐ろしいほど淡々と、まるでロボットのように残酷な言葉を吐く。

「政府も同じだ」
「それって……もしかして、もしかしなくても」
「任務だ。政府はアスラ・デーヴァの遺伝子を引き継ぐ、純血の使徒を望んでいる」

頭にカッと血が昇った。

「馬鹿言うな!?なんで好きでもない相手と……絶対いやだ!」

暴れる柚の腕をひとつに纏め上げ、片手でベッドに縫い付ける。
柚は、さっと血の気が引いていくのを感じた。

「嘘、冗談だろ……?」
「……」
「ぉ、お願い、やめて」

アスラの片手が柚の軍服のホックを外す。

押さえ付けられた腕がびくともしない。
恐怖に声が震えた。

「やだ――」

とうとう堪え切れず、目頭がじわりと熱くなる。

泣きたくない。
けれど怖い。
だが泣きたくない、涙を見せたくない。

アスラが自分を見下ろし、僅かに眉を顰めた。
否、顰めたような気がする。

「……何故そんな顔をする?」
「い、嫌だからっ――」

恐いからとは、意地でも言わない。
だが、男はそれが当たり前であるかのように見抜いている。

「俺が恐いか?」
「ちがっ……」
「同じ種で、何故恐れる?」

柚は僅かに目を見開き、思わず抵抗を忘れてアスラを見上げた。
一瞬、彼の瞳が何処か寂しげに感じたのは何かの間違いだろうか……

もしかしたら、話せば通じるのかもしれないと、柚は僅かに期待を抱く。
だが、その期待はあっさりと裏切られた。

「覚えておけ。個人的感情で任務を拒むなど愚か者のする事だ」

機械のように冷たい声
ガラス球のような冷たい瞳
優しさを感じない手が、体に触れる。

――恐い…

目の前の男は、自分に欲情しているわけでも、愛してくれているわけでもない。
ただ淡々と、事務的に、自分を抱こうとしている。

まるで、人形を相手にするかのように……

「こんなのは違う」と、叫びたかった。
我武者羅に悲鳴を上げ、誰でもいいから助けを呼びたい。

だが、喉に何かが詰まったように声も出ない。
息を呑み、恐怖にぎゅっと閉ざした瞼から、押し出されるように涙がこぼれた。





NEXT