突如、アスラの手がひたりと止まった。
意識が体から剥ぎ取られるような錯覚が襲う。

瞼を起すと、一面は氷に覆われた世界だった。

"寒い、寒い、恐い――パパ、ママ"

寂しげな声が耳に流れ込んだ。

氷に覆われた世界の中央で、一人の少女が唇を蒼くして膝を抱え、震えながら座り込んでいる。
少女は何かを見ていた。

アスラがその視線を追うと、その先には四十代ほどの男と女がいる。
女には、何処となく少女の面影がある――父親と母親かと、アスラはぼんやり認識した。

少女の母は、泣いていた。
ただひたすら、悲しげに、引き裂かれるように、痛々しく……娘の名を繰り返す。

父はただ、その背を抱き締めるしか出来ないことを悔いるように、唇を噛み締めている。

少女はそんな両親を、座りこんだまま見詰めていた。

"ごめん、ごめんね……急にいなくなってごめんね。泣かないで、ママ"

両親を見詰める少女の横顔は、抜け殻のように表情に乏しい。
それは少女自身が、自分の身に起きた事態に一番戸惑い、呆けているからだ。

"心配しないで……私は、大丈夫だから。きっと大丈夫……皆、優しそうな人だから、平気。何も恐いことや不安なんて……"
――ないんだ……

少女の頬を、無機質に涙が伝い落ちていく。

突如、氷に覆われた世界の空に、地表を揺るがすほどの地響きが鳴り渡る。
冷気が吹き荒れるように、悪寒が込み上げた。

氷の空に亀裂が走る。

少女の心臓の鼓動と重なるように、空を叩く音
怯える少女が頭を抱え、"恐い"と悲鳴のように繰り返す。

亀裂の隙間から手が伸びた。
その手は亀裂を広げ、中を覗きこむ。

(なんだ……?)

眉を顰めたアスラが僅かに息を呑む。

亀裂の間から覗いたのは、血のように深紅の瞳
流れるような黒髪と、妖艶な笑みを浮かべる男

(アダム――いや、違う)

亀裂の隙間を覆うように覗きこんでくるアダムの髪から色素が抜け落ち、瞳が透き通るように色をなくしていく。
黒は金に、赤は水に……、アダムは――

瞬きが、視界を閉ざす。

はっと、目を見開いた。

そこは現実、見慣れた私室、見慣れた冷たいベッド
目の前には押し倒した女


"私は、大丈夫だから。きっと大丈夫……皆、優しそうな人だから"


少女は自分自身に言い聞かせ、両親を安心させるように、優しく声の届かない相手に語り掛けていた。
だが今は、まるで化け物を見ているかのような瞳で、自分を見上げる柚の顔

アスラのガラス球のような瞳が見開かれる。

柚は息を呑んだ。

その無機質な瞳に吸い込まれそうだと思った瞬間、現実に起こる。
体から投げ飛ばされたかのように、一瞬、落下するように不快な浮遊感が全身を襲う。

気が付くと、生活感のないアスラの部屋とは全く別の場所にいた。

カーテンに閉め切られた薄暗い部屋に染み付いたタバコと香水の香り。
長椅子に優雅に寝転ぶ大人の女性

この空間の柚は、柚ではない。
誰かの中からその光景を見詰めている――まるで映画を見ているかのような不思議な感覚だった。

「アダムを逃がしたそうですね」
「申し訳ありません」

唇が勝手に動き、その唇から漏れるのはアスラの声だった。
視界の隅で微かに揺れる、色素の薄い金の髪

(なんだこれ、これってもしかして……)

相手の顔が見えない。
ただ言える事は、相手が女だということ。

記憶の主と思われるアスラは、相手の顔を見ないようにしていた。

(アスラの記憶?いや……感情だ)

柚の心臓が焦るように音を立てる。

「いいのですよ。今回はそれ以上に収穫が大きい。女の使徒が見付かったそうですね」
「はい」
「あなたの他にも候補は上っていますが、誰がなんと言おうと、純血の使徒の父となるのはあなたです」

女がタバコの煙を吐く。
強い香水の香りと交じり合い、吐き気が込み上げた。

まるで全力疾走で駆け抜けたかのように、心臓が脈打つ。

「その子とあなたの子を成しなさい。理論上、使徒同士ならより完璧にその能力を遺伝させる事も可能です」
「……はい」

アスラがゆっくりと顔をあげた。
アスラの瞳が目の前の女性を映す。

壮麗でいて、艶かしい。
瞼の上の深いラインと、ふっくりとした朱色の唇

アスラの母、アルテナ・モンローは、その顔に野心的な笑みを浮かべる。


"期待していますよ、アスラ"


その瞬間、柚はアスラを突き飛ばしていた。
力が抜けたように床に座りこんだアスラが、苦しそうに額を手で覆う。

たちまち柚の頬をぼろぼろと涙が零れ落ちる。

「っ……ふざけるな!」

柚はアスラの部屋を飛び出した。

「イカロス!」

部屋にアスラの声が鋭く響く。
開け放たれたままのドアから物音も立てずにイカロスが姿を現すと、アスラは座り込んだまま苛立ったように睨み返した。

「どういうつもりだ」
「……必要だと思った」
「必要だと?これは任務だ」
「そう簡単に割り切れる問題じゃない。君も見ただろう?彼女の心……どんなに平気そうにみえても、彼女は子供だよ」

アスラがギリリと奥歯を噛み締める。
その頬には、無機質な涙が一筋

垣間見た少女の心は、空虚なものだった。
その心の奥に深く悲しみの感情を隠し、無理に笑い、無理に元気を装っている。

決して、彼女に哀れみや同情を抱いたわけではない。
今まで親元で愛されてきただけ、彼女は幸せなのだ。

だが、イカロスの力で流れ込んだ彼女の感情が侵食し、今もまだ涙となり、自分の意思や感情と無関係に溢れてくる。
それは忌まわしく、腹立たしい。

イカロスはアスラの前にしゃがみ、アスラの涙を拭った。
その手をアスラが振り払う。

「だからなんだというんだ……くだらない」

任務なのだ。
より強い子孫を増やすことが義務なのだ。

使徒の女として生まれてきた以上、避けられない道だ。

今流れる涙は弱さと甘えだ。
無性に苛立つ。

イカロスはそんな自分を咎めるように、静かにその名を呼んだ。

「彼女は俺達と違うんだよ」

真っ直ぐと、自分を見下す瞳

アスラはその瞳を見上げ、眼光を鋭く細めた。
思わず失笑が漏れる。

「ふん、"俺とは"の間違いだろう」

アスラは淡々と吐き捨てた。





飛び出した柚は、廊下の隅に膝を抱えて蹲った。

"その子とあなたの子を成しなさい"
(なんで頷くんだ?本当は嫌なくせにっ……)

膝に顔を埋める。
震えが止まらなかった。

(あいつ等にとって、私は道具なんだ)

徹底的に管理された息苦しい環境
知らない人達
相容れない価値観

(恐い、あんなことしたくないよ。パパ、ママ、助けて……こんなところ、居たくない)

「あ、いた」
「!」

ひょっこりと顔を出したフランツに、柚はビクリと飛び上がった。
戻らないとばかりにぶんぶん首を横に振る柚に、フランツは苦笑を浮かべ、目の前にしゃがみ込んだ。

「別に、元帥に言われて連れ戻しにきたわけじゃありませんよ。でも、自分の部屋への帰り道も分らないんじゃないかなって思って」
「……」

言われてみれば、確かに知らない場所だった。

柚はおずおずと頷く。
声を出したい気分ではなかった。

「ほら、焔もいますよ」
「てめぇが勝手に引き摺ってきたんだろ」

不機嫌な面持ちで焔が顔を出す。
焔は柚を見下し、ぎょっとした。

「な、何泣いてんだ、お前。気持ち悪ぃ」
「泣いてないもん……」

力のない声で、柚が焔を睨み返す。
柚は泣き顔を見せるのが嫌で、すぐに顔を膝に埋めた。

焔は僅かに眉を顰め、柚から顔を逸らす。

フランツは柚の隣に座り直し、壁に背を預けた。

「研究所生まれの彼等と外から連れて来られた僕達じゃ、そういう点に関して根本的に考え方が違っちゃうから……」

柚の肩がビクリと跳ねる。
恐る恐る、柚は顔をあげてフランツを見上げた。

「大体予想はついてますよ。嫌な話だろうけど……上はね、使徒を沢山増やしたいんです。来るべき第五次世界大戦の為にね。まあ、今はテロとかで世界大戦どころじゃないですけど」

皮肉にも、神森やエデンが起すテロのお陰で、現在世界は冷戦状態が続いている。
もしテロがなければ、世界はすでに冷戦を解除し、使徒を使った新たな戦争を引き起こしているだろう。

「使徒で女性は少ないし、君のように上級クラスが見付かったのは初めてなんです」

焔は腕を組み、座らずに壁に凭れた。
それは何処かばつの悪そうな顔に感じる。

アダムに折られた腕は、痛々しくギプスで固定されていた。

自分を助けようとしてくれた焔
言葉も態度も悪いが、妹想いで……

フランツに引き摺られて来たと言っていたが、本当は心配してくれていたのだろうかと……思うのは都合の良い考えだろうか?

優しいフランツ、不器用な焔
少しだけ、心が癒される。

「女の人が少ないなら、人類から補おうっていう計画が実行されたのは知ってますよね?それで生まれたのが、アジア帝國だとデーヴァ元帥やイカロス将官、それからガルーダ尉官と、ハーデスとか……。あの人達はずっと此処で育ったから、種の保存の為にその……そういうことをするのが当然、というか義務だと思っているんです」

フランツの言葉には、何処か同情が入り混じっているように感じた。
焔が不愉快そうに顔を逸らす。

柚は鼻を啜りながら、視線を流した。

アスラの記憶に現れた女性は、テレビでよく見掛けるアルテナ・モンロー議員、彼の産みの親だ。
だが、テレビの彼女は清楚で、優しく美しい、母の鏡だった。

「君も使徒なら分かりますよね?この能力の根源になった親が、自分にとってどれだけ大きな存在か」

柚は小さく頷く。

「どんな思惑で生まれたにせよ、デーヴァ元帥にとっても"母親"は、大きな存在なんだと思います。だから……」

母親の命令ならば、より絶対とでも言いたかったのだろう。
フランツは言葉を濁して、僅かに俯く。

だから、どんな命令にも従うのだろうか?
自分の心を殺して?

次第に、腹立たしさが込み上げてきた。

アルテナ・モンローは、使徒の習性を理解した上で利用している。

"アスラ・デーヴァ"という人間は、アルテナ・モンローにとって、ただの出世の為の道具でしかなかったのだろうか?
そして今は、その地位を維持するための道具なのだろうか?

アスラ・デーヴァは、愛されている?

いつもニュースで見掛ける清楚で優しい母のイメージが強いアルテナと、アスラの記憶から垣間見たアルテナは、全く別人だった。

(パパ、ママ……)

柚は膝に顔を埋め、目尻に浮かぶ涙をそっと拭う。
自分が今まで惜しみなく与えられてきたものは、優しい愛情だった。

柚は立ち上がり、その顔に笑みを浮かべる。

「有難う、フラン。もう大丈夫だ、帰ろう?」
「……柚」
「大丈夫、次にあんなことされたら殴り飛ばしてやる」

柚は拳を翳して強い笑みを浮かべた。

フランツが僅かに眉尻を下げる。
フランツは何かを言い掛け、静かに首を横に振り、笑みを返す。

「明日から訓練ですし、柚も焔もゆっくり休んでくださいね?」
「どんなことするんだ?楽しみ」

柚は明るく微笑む。
長い睫毛に光る透明の滴は、誰の目にも留まらずに消える。

焔がポケットに手を突っ込み、不機嫌に顔を逸らした。





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