柚は校庭を駆けながら、自分を励ますように笑みを浮かべた。

(大丈夫、大丈夫……私は使徒じゃない!)

駆け出した柚は、ふっと空を見上げる。

そうだ、思い出した。
あの体育の授業の時…――

「目が合ったんだ」

太陽を覆い尽くし、コートを翻したアスラ・デーヴァが空から地面に降り立つ。

「何故逃げる」
「いきなりあんな乱暴なことされたら誰だって逃げるだろ」

攻めるような問い掛けに、柚は堂々とした声で返した。
アスラが反論しないことをいい事に、柚は一気に捲くし立てる。

「いきなり腕捻られるし、薬とか言いだすし、か弱い私は凄く恐かったんだぞ!」
「……」
「大体何の為に口が付いているんだ。用件があるならまず説明をして本人の同意を求めるのが一般常識だと思うんだけど、いかがなものでしょーか?」

捲くし立てる柚に押されるように、アスラは僅かに眉間に皺を刻んだ。
人形のような顔が僅かに崩れたお陰で、柚も少しだけ気が晴れる。

一人満足そうに腰に手を当てる柚にアスラの興味が薄れたのか、アスラは淡々と訊ねた。

「もう一人はどうした」
「知らん」

柚はふいっとそっぽを向く。

一瞬、見逃してしまうような一瞬――アスラ・デーヴァはふっと口元を緩める。
まるで、無知を嘲笑うかのように……

「構わん、すぐに見付かる」
「……」
「お前も一緒に来てもらうぞ」

柚は思わずアスラの顔を見やる。

アスラが一歩、足を踏み出した。
反射的に、柚の足が後ろに下がる。

「ちょっと待って。何処に?何の為に?だからたった今言っただろ、聞いてたか?まず会話による意思の疎通をしようじゃないか」
「……その問いに答えれば大人しく付いてくるのか?」
「そ、それは……う〜ん」
「ならば、時間の無駄だ」
「ちょっ!?」

アスラが手を翳す。
柚は青褪め、咄嗟にその場を飛び退いた。

地面が何かに殴りつけられたかのように抉れ、ひび割れる。
もし避けていなかったらと思うと、背筋に冷たいものが這った。

「まっ!ちょっと!?」

取り乱すあまり、上手く言葉が出てこない。

悩んだ末、背を向けて逃げ出そうとした柚の足元が歪み、下がろうとした足元が崩れる。
よろめきながら横に飛び退くと、つい先程まで柚が居た場所が砂埃をあげてへこむ。

三箇所の大きな穴を振り返り、柚の頬を冷たい汗が伝った。

(アスラ・デーヴァが操るのは、確か重力……)

ごくりと喉が鳴る。
あの攻撃に捕えられたら最後、きっと指一本すら動かせなくなるだろう。

柚は震えを隠すようにぎゅっと手を握り締め、アスラと向き合った。

彼を包むように、薄いヴェールのオーラが見える。
焔もそうだった、使徒が能力を使っているとき、常にそれが周囲を囲んでいる。

(他の奴は、見えないのか?これが見えちゃうと"使徒"なのか?)

再び耳鳴りが響く。
底から湧き出る水のような感覚

(普通は、こんな音も聞こえないのか?)

まるで、自分に何かを呼び掛けているかのように……
音は強くなっていく。

突如その音がすっと途絶えた。
研ぎ澄まされた感覚の中で、一箇所、何かに圧縮されるように空気が動く気配が感じ取れる。

それは、柚の足元だった。

柚はその場から飛び退き、着地地点を狙った攻撃を、前に踏み込んでかわす。
その勢いで転びそうになった瞬間、頭上で空気が捻れる。

「っ!?」
(避けられない!)

柚は身構えるようにぎゅっと瞼を閉ざした。
その時、アスラを炎が包み込んだ。

「!?」
「ったく、弱い癖に……お節介焼いてんじゃねぇよ、馬鹿」

目の前を、見慣れた制服が遮る。
短い黒髪を風に揺らしながら、肩越しに振り返り口元に笑みを浮かべる男に、柚は戦慄いた。

「き、貴様が馬鹿だ!なんで出てくる?信じられん!」
「あァん?てめぇ、人が助けてやったのに、馬鹿とはなんだ!」
「ムカつくけど恐かったー!」

制服をぎゅっと掴む白い手が震えていた。
焔が頭を抱えるように手を当て、呆れたように溜め息を漏らす。

恐かったならば、逃げればよかったのだ。
焔の事情など気にせず、自分のことだけ心配して……

「……やっぱり、お前は馬鹿でお節介だ」

焔はゆっくりと顔を上げ、燃え盛る炎に包まれるアスラに視線を向けた。
一瞬にして、押さえつけられたように炎が掻き消される。

無傷のアスラが煩わしそうに顔をあげ、焔と柚を見た。
柚の肩がビクリと跳ね上がる。

「大きいのがっ――」

柚が頭上を見上げて叫ぶ。
その瞬間、焔が柚の体を突き飛ばした。

滑るように地面に倒れこんだ柚は、起き上がって息を呑む。

重力の中央で、焔の膝がガクリと折れた。
ぎしぎしと体を軋ませながらもその力に抗おうとする焔が、小さく呻く。

「うっ…ぐ!」

ついに立っている事すら出来なくなり、焔は地面に手を付いた。
それでも上から体を押さえ付けようとする力に必死に抗っていると、アスラは歩み寄り、冷めた眼差しを向けて焔を見下した。

「散々手古摺らせた馬鹿がいると聞いてわざわざ出向いたが――この程度か?」
「っ!?」

焔の頭に血が上る。

体を起こそうとする焔の周囲で地面が抉れた。
臓器を圧迫する力に目を剥く。

「ぐはっ!?」

喉をせり上がり、口元から血が滴り落ちた。
焔は自分の口からぽつぽつと垂れる血を見下し、眩暈を覚える。

柚は息を呑んだ。

柚は何か助けられる方法はないかと周囲を見回すが何もない。
意を決し、そのまま柚が焔に駆け寄ろうとしたその瞬間、いきなり後ろから手首を掴まれ、柚は驚いて振り返った。

穏やかな新緑を思い起こされる明るい瞳を細め、自分に微笑み掛ける。
黒いコートが靡き、青年は諭すように囁いた。

「止めておきなさい、お嬢ちゃん」
「でも!あいつ血吐いたぞ?弱いもの虐めだ!」
「てめぇ……後で殺すッ!」

地面に押し付けられている焔が、ギリギリと奥歯を噛み締めた。
その瞬間、焔は殴られたように地面に頭を打ち付け、動かなくなる。

「ちょっと!?」
「大丈夫、死んでない。俺達は君達を殺しに来たわけじゃない」

青年は落ち着いた穏やかな口調で柚を宥めた。
そんな青年に柚は苛立ちを感じ、アスラと青年を睨み付ける。

「そういう問題じゃないだろ?ここまでしなくたっていいじゃないか!早く病院に連れてかなきゃ……」

すると、青年は柚から手を放して余裕のある笑みを浮かべた。

何処か達観した雰囲気を持つ青年で、物腰も柔らかい。
彼の瞳は、全てを見透かしているかのように感じた。

「使徒はあれくらいじゃ死なないよ。アスラも真面目なだけで悪気はないんだ」

睨み返す柚を見下し、青年は愉快そうにくつくつと笑う。

アスラが向ってくるので、柚は思わず身構えた。
アスラは柚を見下し、興味が失せたようにすっと顔を背ける。

「イカロス、話にならない」
「はァ?喧嘩売ってんのか、貴様」
「違う違う、そういう意味じゃないよ。彼は、今君は知らないことや気付いていないことが多過ぎるって言いたいんだ」
「あれの何処が!?あれ、絶対人のコト馬鹿にしてる顔じゃないか!」

柚はアスラの背を指差し、地団駄を踏む。
イカロスと呼ばれた青年は、再び愉快そうに笑みを浮かべた。

「じゃあ、簡単に言うよ。君の認めたくない気持ちも分かるけど、君は間違いなく使徒だ。そして使徒である君は、俺達と共に我々の基地に来てもらわなきゃならない」

柚が目を瞬かせる。

そして、思い出したように柚はその場にへなへなと座り込んだ。
腕を抱えたまま唸り始める柚を、アスラが見下す。

イカロスが苦笑を浮かべ、アスラの無言の疑問に答えを返した。

「忘れてたけど、君に捻られた腕が痛いんだって」
「……」
「あ、また馬鹿にしてる!痛いんだぞ、凄く!痛い、いたい〜!!」
「煩い。イカロス、そいつを黙らせろ」
「しっ、信じらんない!?自分でやっといて!」

柚が目を見開き、わなわなと震える。
柚はすくりと立ち上がり、噛み付きそうな勢いでアスラに迫った。

アスラは無表情ながらも迷惑そうに顔を背ける。

「お前が無理に暴れたからだ」
「いきなりあんな怪しい薬持ち出されたら暴れるに決まってんだろ!何度も言うが、会話のキャッチボールって知ってるか?言葉で意思疎通しろ!」
「……」
「俺に助けを求めないで欲しいな」

無言で見詰めるアスラに、イカロスが腹を抱えながら笑いだした。
次第にアスラが不機嫌になってくると、イカロスは涙を拭ってアスラの肩を叩く。

「まったく、しょうがないな。柚ちゃんだったね?病院に行こう。責任を持って国内最高の医療機関がある病院に連れて行くよ、そっちで伸びてる彼と一緒に」
「あっ、忘れてた。病院――って、私はそんな大袈裟じゃなく保健室でいいんですけど」
「そうはいかないさ、可愛い女の子に怪我をさせちゃったんだからね」

思わず頬を染めながら、柚はイカロスを見上げ、焔に視線を向けた。

「でも……やっぱり駄目。そいつ――」

その時、2人の顔付きが変わり、勢い良く校舎の屋上に振り返る。

柚は驚きながら2人の視線を追い、目を瞬かせた。





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