何処にも誰の姿も見当たらない。
避難させられたのか、校舎には生徒の気配すら感じられなかった。

イカロスの足が僅かに砂を踏みしめる音が響く。
さりげなく庇うように立つイカロスに、柚は緊張に体を強張らせた。

「取り逃がしたのか?どうしてすぐに報告をしなかった」
「はいはい、部下の失態をフォロー出来なかった俺の責任。けど、アスラ。彼はライアンが追ってる奴とは違うようだ、大物が掛かったらしい」

視線のみを投げ掛けてくるアスラに、イカロスは溜め息交じりに肩を竦める。

「なんのことだろう」と柚が眉を顰めていると、突如イカロスとアスラの動きが止まった。

「ぇ?」

柚は思わず眉を顰める。

二人のコートは、風に靡いたままの形で止まっている。
まるで、自分以外の時間が止まっているかのように……

「どうなって……」

突如背後に音もなく何かが降り立った。

振り返ることすら躊躇われる圧迫感が背中にある。
その重圧に押し潰され、思わずひれ伏したくなるような存在感だった。

恐る恐る振り返った柚は、小さく息を呑む。

長い黒髪を風に靡せ、血の様に赤い瞳をした男が立っていた。
端整な顔立ちの男は切れ長の瞳に柚を映し、弧を描く唇が小さく何かを呟く。

振り返った柚の手に、壊れ物を扱うかのようにそっと触れた。

まるで風と一体であるかのような動きで、男の顔が迫る。
大きな掌が柚の頬を包むように触れ、唇が触れそうな距離で低いハスキーが囁いた。

「君こそ、私のエヴァに相応しい」

言葉を発しようとした柚の唇を、男の薄い唇が塞いだ。

自分と同じ赤の瞳に見詰められ、柚は大きく見開いた瞳を揺らす。
悲鳴をあげて突き飛ばしたかったが、大きな鼓動に呑み込まれる。

頭の中が真っ白になった。
耳鳴りが迫り、まるで血液が沸騰するかのようにざわめきを立て始める。

込み上げてきた。
"何が"と言葉に出来ないのは、全く知らない感覚のものだから。

奥底から体をその何かが這いずり回り、支配するように暴れまわる。

「ぁ、あ…っ――!?」

大地の奥底より、地響きが響き渡った。

アスラが何かを振り払うように動き出し、攻撃に転じようとした手を止めて眉を顰める。
続いて動き出したイカロスがアスラに呼び掛けると、二人はその場を飛び退いた。

地表を突き破り、水柱が吹き上がる。
噴出した水は蠢めくように乱れ、霧散した。

「暴走か……」
「まずいな……アスラ」

アスラが伸ばしかけた手を遮るように、地表を突き破り竜巻のような水が空高く駆け上る。
水の竜巻はうねりをあげて雲を突き破ると、空で弾けて雨を降らせた。

あっという間に暗雲が空を包み込み、雷鳴が轟く。
まるで竜が咆哮をあげているかのように、体の内側まで震撼させた。

雷が無数に空を走る。
立っているのもやっとの揺れが、絶えず足元で続いていた。

「エヴァ……」

男が薄く微笑む。

焔は頬を打つ雨に瞼を起し、目を疑った。
痛む体を起こすと、アスラが振り返る。

「状況が変わった。じっとしていろ」

説明もおろそかに、再び前を向くアスラ
その隣にイカロスが並び、溜め息交じりに腕を組んだ。

「参ったな、とんだお転婆娘だ」
「あの男……神森の"アダム"か?」
「そのようで。嗅ぎ付けるのが早いね」

イカロスが腕を組んだまま肩を竦める。

二人の会話に焔は目を見開き、その視線を追った。
落ち着き払った二人の視線の先には、男が立っている。

長い黒髪と切れ長の赤い瞳
その顔に慎ましやかであり妖艶な微笑みを浮かべ、艶やかな民族衣装に身を包んでいる。

「あれが……」

一度も表舞台に現れたことがないという。
人類の頂点に立とうとする使徒の組織"神森"の宗主、アダムという男

男は、何処か慈愛を感じさせる瞳で誰かを見詰め、色を失くしたように白い手を掴んでいた。

「あ、あの女っ!?」

竜巻の中央で、アダムに支えられて気を失っている柚に息を呑む。
視界に捉えた瞬間、焔は立ち上がり、アスラとイカロスに詰め寄る。

「おい、アイツ暴走したのか!」
「……」
「何で止めない!」

焔は立ち上がり、アスラの肩を掴んで振り向かせた。
怒鳴り掛かってくる焔に、アスラが眉間に皺を刻む。

焔は舌打ちを放ち、アスラの肩を突き放した。
視界が霞む豪雨の中、焔は竜巻に向けて駆け出す。

「てめえ、その馬鹿を放しやがれ!」

拳を振り上げて殴り掛かろうとした焔にゆっくりと顔を向け、アダムはにこりと微笑んだ。

一瞬、体が何かに押さえつけられるように固まる。
瞬きも、声を発することも出来ない。

漠然と、自分の時間が止まっていることに気付く。

(こんな力もあるのか?くそっ、動かねぇ……!)

体が時間を取り戻すと同時、焔は膝から崩れた。
はっと顔をあげると、目前には薄い微笑みを浮かべたアダムの顔がある。

ゾッとするほど美しく、ゾッとするほど圧倒的な力を持つ男は、焔を見下して小さく笑む。

「君を狩りに来たら、いい拾い物をした」

まるで生きている空間が、全く別に存在するかのように……
力の差を肌が感じた。
肌が粟立つ。

「礼だ」
「!?」

翳された右手が額に触れる。
逃げなければと願う想いを跳ね除け、体が竦んだように、指一本動かない。

その手に白い手が這うように掴んだ。

「やっ…やめろ――!」

柚が弱々しく叫び、アダムを睨み付けた。
苦しそうな呼吸の合間から搾り出された声が掠れる。

開放された焔は、どっと息を吐き、戦慄に駆られた。

「どうしたんだい、"エヴァ"」

男は焔からするりと手を放し、柚の頬に触れようとした。

その瞬間、柚の背後からアスラの手が伸び、アダムの胸倉を掴む。

地面が割れた。
その先で、地表に触れるイカロスが、アスラの名を叫ぶ。

アスラは柚を突き飛ばしてその前に出ると同時、その一帯を重力が呑み込んだ。
イカロスの土を操る力が地表を押し上げ、アスラの重量が上からアダムを挟み、押し潰そうとする。

焔は圧倒されるように、三人の高位能力者同士の図りあいを見ていた。

得体の知れないアダムを相手に、アスラとイカロスは探るように攻撃を仕掛けている。
アダムはというと、二人を相手に平然とした面持ちで薄ら笑いを浮かべているので、気味が悪い。

アスラは、抑揚のない面持ちに僅かに嫌悪を浮かべて吐き捨てた。

「使徒の面汚しが」
「初めまして、マダム・アルテナのお人形さん」

アダムの足元の影が伸び、柚を包み始める。
アスラは肩越しにそちらを見やり、アダムを睨み返した。

「完璧な使徒を誕生させたいのは君達だけじゃない。マダム・アルテナへのご機嫌取りの手土産を用意しなければならない君の苦労も察しはするが、こればかりは私も譲れなくてね」
「…まれ」
「ああ、君は苦労とも思わないのかな?いいように育てられたんだろう?忠実なモルモットだ」
「黙れ」

低い声と共に、一帯を圧迫する重圧が増す。

「アスラ、抑えなさい。此処は公共施設だ!」
「分かっている」

アスラの力が増した事で、同調させているイカロスの顔が苦しそうに歪む。
その頬を汗が伝い落ちた。

アダムは全く意に介さず、くすくすと微笑んでいる。

焔はよろよろと立ち上がり、柚を包んでいく影に手を伸ばした。

「野郎っ……こっちが優先だろうが」

影に包まれていく柚が向ってくる焔に気付き、助けを求めて手を伸ばす。

影を掻き毟ろうとする焔に、アダムが視線を向けて口元に笑みを乗せた。
子供の悪戯を咎めるかのように、アダムは穏やかに囁く。

「邪魔をしないでおくれ、西並 焔」

男の声に、焔は心臓を鷲掴みにされた気分になった。
笑わない瞳がすっ…と、焔を捉えて映す。

次の瞬間、影は無数の針の様に伸び、焔の体を深々と貫いた。
肉を抉り体を貫通する針から、赤い血がぽとぽとと滴り落ちる。

目の前で、柚が息を呑む音が聞こえた。





NEXT