27


目の前に陰が掛かりライアンズは顔をあげた。

「随分苦戦したようだね」
「すみません、すぐに追い掛けようとしたんですが……」

ライアンズの隣には、事切れたアシャラの死体が一体、転がっている。
ライアンズはアシャラへと一瞥を向けた。

「他の二名には逃げられましたが、こいつが妙に強くて。言い訳になりますが、なんていうか……痛みを感じていない奴を相手にしているかのような感じで」
「……」

イカロスは静かに頷き返す。
片手を腰に当て、イカロスが溜め息交じりに崩壊していく廃ビルへと視線を向けた。

そんなイカロスを伺うように見上げ、ライアンズが遠慮がちに訊ねる。

「それで、通信傍受の方はどうでした?」
「残念ながら何も発見出来ていない。少なからず、アルカディアがやっていた形跡はなかったとハーデスから報告を受けたよ」
「将官が柚を連れて行けなんておかしいとは思ったんですが……ハーデスに言われるまで、原因に思い至りませんでした。俺のミスです」

ライアンズが、悔やむように顔を伏せた。

命令を不審に思った時点で、通信を傍受されていることに気付き、柚だけでも強引に帰すべきだった。

それを阻み、思考を惑わせたのは、使徒特有の本能だ。
心のどこかで柚達を肉親に会わせてやりたいと思っていたのかもしれない……

イカロスはそんなライアンズの肩を軽く叩き、目を眇めた。

「君だけのせいじゃないよ。彼女達を現場に連れてくるよう促したのは俺だ。それにしても……アダムや神森の数字持ちの能力情報すら少ない現状はいただけないな」

小さな呟きが掻き消される。

真摯で、何処か憂鬱気な眼差しが、彼らしくないとライアンズは思った。
それが伝わったのか、イカロスの口元が微かに緩む。

その傍らを慌しく駆けていくアース・ピース部隊の一般兵が、イカロスを盗み見た。
つい最近、アース・ピースへの移動が決まったばかりのキース・ブライアンは、初めて間近で見たイカロスの姿に憧れを抱く。

途端に飛ぶのは部隊長からの怒号だ。

「遅いぞキース、何をしているか!」
「すみません、隊長!」

自分よりも小柄な女に、キースは慌てて捲くし立てる。

ダークブラウンを男と見紛う程に短く切り揃えた男勝りの女の怒号は、よく響いた。
アース・ピース直属の一般兵部隊・隊長を任せられているエマ・ダルトンだ。

キースは慌ててアシャラの死体に駆け寄った。
先に処理をしていた同僚の隣で遺体の収容袋を閉じ掛け、思わず手を止める。

びくりと脅えた面持ちを浮かべたキースに、同僚は不思議そうな顔を向けた。

「どうした?」
「いえ、なんだか今動いたような……」
「そんなわけないだろ?さっき確認した。死んでるよ」
「ですよねぇ」

キースは渇いた笑みを漏らす。
腰が引けているキースを、仲間が笑った。

「何をしている!あちらではまだ戦闘が続いているんだ、気を緩めるな!」

途端に、遠くからエマの声が飛んだ。

慌てる同僚たちに並んだキースは遺体に背を向けた瞬間、ぞっと背筋を冷たい手に撫でられるかのような感触に震え、勢い良く振り返る。
そんなキースに、同僚たちがいぶかしむような視線を投げた。

「どうした、キース?顔色悪いぞ」
「もしかして、また幽霊か?」
「何?もしかして霊感持ちってやつか?やめてくれ、そういうのは苦手だ」
「違うって」

談笑に苦笑と共に混じりながら、キースは腕を擦る。
止まない悪寒を感じながら、キースはアシャラの死体を収監した袋を閉ざした。





柚は、アスラの背中を見詰めたまま動けずにいた。

(こいつ、怒ってる……)

立ちあがろうとしたハムサに向け、アスラの指が空を指し示す。
途端にハムサは抗う術もなく瓦礫と共に地面から浮き上がり、勢い良く地面に叩きつけられた。

ハムサが血を吐き、アスラが手を広げる。
その掌が握られると、地面に押さえ付けられたハムサの体からミシミシと骨が軋みをあげる。

「て…めェ」

地面に伏したハムサが、アスラを睨み付けたまま地を這うような低い声を絞り出す。

アスラが冷めた眼差しを向け、指を払った。

ハムサの腕から乾いた音が響き渡る。
皮膚を突き破った白い骨が顔を出し、耳をつんざく様な悲鳴に思わず顔を逸らし、柚はアスラに手を伸ばした。

「こ、殺しちゃ駄目だ!」

僅かにアスラの肩が揺れ、アスラは昂ぶる感情と共に小さく息を吐く。

先程の殺気立った様子が嘘の様に、人形のような感情を感じさせない顔が肩越しに振り返った。
何を考えているか分らない、そんな顔に何故かほっとする自分が複雑に感じる。

「……殺しはしない。聞かねばならない事が多々ある」
「じゃ、じゃあもういいだろ?それより、焔を医者に――」

その瞬間、アスラが柚に向って手を翳した。
息を呑む柚の背後で人が吹き飛ぶ。

吹き飛ばされた男はふわりと空中で舞い、瓦礫の上に音もなく着地した。

「さすがですね、アスラ・デーヴァ」
「……」
「お前っ……!」
「エヴァ。無礼を承知で、あなたが我等のアダムに相応しい力を持った者か試させて頂きました。アダムはあなたを欲していますが、アダムとエヴァは使徒の未来を託すお方、どうしても私の目で確かめたかったのです」

柚はサラーサを睨み返す。
サラーサはにこりと微笑み、拍手を送った。

「荒削りながらなかなか面白かったですよ。合格です」
「ふざけるな!欲するとか試すとか……そんなことの為に関係のない人を巻き込むな!」

サラーサの口角が攣りあがる。

有無を言わさせずアスラはサラーサに手を翳した。
サラーサはくすりと笑みを浮べ、大きく飛び退く。

「我が主と違い、あなたは随分気の短いお方だ」

サラーサの言葉に、アスラは僅かに眉を揺らす。

アスラが柚に一瞥を投げ掛けた。

「そこを退け」
「は?」

急迫した様子もない落ち着いた声に眉を顰めた瞬間、柚の背後から水柱が上る。
振り返ろうとした柚を水が呑み込み、体はあっという間に空に投げ出された。

「っ!」

口からごぽごぽと音を立て、酸素が逃げていく。
柚は顔を顰め、水の流れに揉みくちゃにされながら必死に瞼を起した。

強い水圧と酸欠の脳
意識がかすんだ。

閉じかけた瞼を必死に起す。
ぼやけた意識の中、水が砕け散る。

眩い太陽の光が妙に近く感じた――否、太陽の光が近い。
傾けた視線の先に、広大に広がる荒んだ大地

(空!?)

柚は自分が置かれた状況に気付き、目を見開き息を呑む。
ぞっと総毛立った。

その瞬間、体がガクリと重力に引かれる。
パラシュートのないスカイダイビングに悲鳴をあげる余裕もないまま、体は地表に向けて吸い込まれた。

雲を突き抜ける。
まだ遠い地表に、為す術もなく叩きつけられる事を覚悟した。

だが、柚ははっと閉じ掛けた瞼を起こす。
突如信じられないほどに体が軽くなり、落下が少しずつ和らいでいく。

「うわぁ!?」

柚の視界はぐるりと反転した。
天地が逆転し、柚はわたわたと手足を動かして姿勢を維持しようと暴れる。

そんな柚の瞳は、向かってくる人影をはっきりと捉えた。

それは周囲の小石と共に、地球上のありとあらゆる生物が逃れられない重力という名の鎖を解き放ち、空を飛ぶのではなく空に舞い上がってくる。

初めて出会ったときとは、同じようで全くの逆だ。
あの時、彼は地上から見下ろしていた……だが今は、柚が空から見下ろしている。

柚は暴れることを止め、逆さまの姿勢のまま、目の前に止まった男を見た。

アスラがすっと手を伸ばす。
柚はアスラの顔を見詰めた。

「つかまれ」
「……」

人が逃れられない重力から解き放たれた、自由を象徴する力
だが、誰よりも縛られた存在

柚が手を取らずにいると、アスラが困った顔をしているような気がしてきた。
何処が?と問われると柚自身説明が出来ないのだが、不思議と彼が困っていると感じるのだ。

柚は小さな苦笑を浮かべ、手を伸ばし返した。
アスラの掌が、まるで壊れ物に触れるかのように乗せられた小さな手を握り返す。

「ありがとう、アスラ」
「……どういたしまして」

アスラの手は、少し冷たく心地が良い。
律儀に言い慣れない言葉を返す彼は、何処かたどたどしく幼さを感じさせた。

空から降りてくる二人に、地上からイカロスが軽く手を振る。
柚は伸ばされたイカロスの腕に収まると、周囲を見渡した。

「アイツ等は?」
「逃げたよ。ハムサもね」
「そっか……他の皆は?」
「全員無事だよ。ライアン達も、君のお母さん達もね」

ほっとしながらも、柚は複雑な思いで俯く。

今回ハムサにダメージを与えられたのは、ハムサ自身の油断という幸運が重なってのこと。
同じ手は二度と通じないだろう。

今のままでは、守られてばかりの無力な存在だ。

落ち込んでいると、大きな掌が頭を撫でる。
驚いて顔を上げると、目の前で優しい若葉色の瞳が微笑んだ。

「焦ることはないよ。君達はまだまだ、使徒として生まれたばかりだ」
「イカロス将官……」
「赤ん坊が歩けるようになるまで時間が掛かる。それと一緒。皆、最初はそうなんだ」
「……うん」

柚は静かに頷いた。

柚はイカロスを離れ、地面に座りこむ焔に歩み寄る。
顔をあげた焔は、柚を見た途端に面倒臭そうな面持ちを浮かべた。

「寝てなくて平気なのか……?」
「見た目ほど大したことねぇよ。血が大袈裟に出てるだけだ」
「なんだそれ」

柚は苦笑を浮かべる。
無理をしているのは明らかなのに、平気なさまを装うのは彼なりの優しさだ。

焔の前にしゃがむと、顔を流れる焔の血を軽く拭い、黒髪の砂を払った。

「さっきはありがと」
「……別に」

焔がふいっとそっぽを向く。
柚は立ち上がると、腰に手を当て呆れた面持ちで焔を見下ろした。

「ったく、アスラの方が素直だな」

途端に焔は目を吊り上げ、勢い良く柚を見上げた。

「あんな奴と比べるんじゃ――う゛!?」
「騒ぐなよ、怪我人」

背中の痛みに蹲る焔に、柚はますます呆れた面持ちを向ける。
すると、柚の背後に影が掛かった。

柚が振り返ると、アスラが自分達を淡々とした瞳で見下す。

「騒いでいないで医療班の方に行け」
「うるせぇ!偉そうに言うな」
「ほら、邪魔だから早く行きなさい」

イカロスに引き摺られて、焔がテントの中に消えていく。

二人きりになってしまい、柚はちらりと横目でアスラを見た。
気まずい……視線を落とした柚は、アスラの手に気付きギョッとする。

「なんか……血が出てるけど?」
「……ああ、刺された」
「蚊に刺されたみたいな軽いノリで言うな!?」
「俺も多少自己治癒がある。放っておけば治る」

アスラは血が滴る腕を見下し、他人事のように返した。

本人は治ると言っているが、その腕からは指先を伝ってぽとぽとと血が滴っている。
見ている方が痛々しく感じ、柚はおろおろとした。

「で、でで、でも痛いだろ!?もっと怪我人らしい顔しろよ!」

言い終えた柚がはっとした面持ちで顔を引き攣らせる。

柚がハムサにナイフで刺されそうになった時、アスラは自分の目の前に割り込んだ。
もしかしたら、自分を庇ったときに怪我をしたのかもしれない。

「あぁ、もう!」

柚はアスラの腕を掴み、自分の軍服のケープを外してアスラの腕に巻く。
アスラはされるがままにされながら、僅かに首を傾けた。

顔をあげると、アスラと目が合う。
じっと見詰められ、柚は僅かに肩を揺らした。

「痛むのか?」
「考え事をしていただけだ」
「そうなのか?ならいいが……」

柚は首を傾げる。
降り注ぐ視線に、眉を顰めた。

「な、なんでしょう?」
「いや。以前お前が俺に来るなといったから、俺に触れられるのが嫌なのかと思った。お前から触れる分には問題ないのだろうかと疑問に思っただけだ」

柚は目を瞬かせる。
すぐに小さく噴出し、くすくすと笑みを漏らした。

アスラが首を傾げる。

「もう怒ってないから……別にいいよ」
「怒っていたから来るなと言ったのか?脅えていたわけではなかったのか」
「ぉ……脅えてなんか!怒っていたんだ」

図星を突かれ、柚が真っ赤になって口を尖らせた。
すると、「そうか」という穏やかな呟きと共に、アスラの口元が微かに綻ぶ。

柚は驚いたように目を見開き、目を細めて微笑み返した。

今ならば、アスラ・デーヴァという人間を理解出来るかもしれない。
それは、光明のように未来を照らす。

「お取り込み中悪いけど、アスラ。ちょっと来てくれないかな」

テントの前から、イカロスがアスラの名を呼んだ。
イカロスに呼ばれ、アスラは無言で踵を返し、司令部のテントへと消えていく。

柚は何処か清々しい気分で周囲をぐるりと見渡し、目を止めた。

ひらり、ひらりと舞う蝶のように……
手招きをする手

一般兵の軍服を纏った男が、自分に向けて手招きをしている。

「私?」

柚は自分を指して首を傾げた。
男は、何処か慈愛を纏う瞳に弧を描き、こくりと静かに頷く。

柚が歩み寄ろうとすると、男は微笑み、くるりと柚に背を向けて歩き出した。
呼ばれているのだろうかと、柚は目を瞬かせる。

「柚ちゃん、そろそろ中に……」

テントから顔を出したイカロスは、そのまま目を瞬かせ、動きを止めた。
アスラがいぶかしむ様に「どうした」と問い掛ける。

「いない……」

イカロスの言葉は、その場を氷り付かせた。





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