28


目の前を行く男は、決して速くはない歩調で前を行った。

どんどん人気がなくなっていく。
次第に、柚は気味の悪さを感じ始めていた。

「あの……何処まで?」

柚が、前を行く背におずおずと声を掛ける。

先程、ちらりと盗み見た時には「キース・ブライアン」と胸の名札に名前が書かれてあった。
当然ながら、人の良さそうな顔立ちの青年の顔には全く覚えがない。

だが、なぜか何処かで会った気がする。
思い出せそうで思い出せない、不愉快さが気持ち悪い。

すると、男は足を止めてゆっくりと振り返った。

「疲れたかい?」

微笑む素朴な顔立ち。
幼さを残すその顔に、何処か艶めいた微笑みを浮かべる。

まるで違和感のように……記憶の淵で何かが引っ掛かっていた。

「どうかしたのかな?この顔は気に入らないかい?」

青年が、そっと自分の顔を撫でる。
何故かその仕草にぞっとした。

「そ、そろそろ戻りたいんだけど……」
「何処へ?」

柚は、僅かに目を見開く。

「何処へって……皆のところへ」
「皆?皆とは、誰?」
「え?えっと……アスラ、とか?」
「それが、君の本当に帰りたい場所かい?」
「それは……」

言葉に詰る柚の手を、青年が優しく掴む。
振り払おうと思えば振り払える力だが、何故か振り払うことは出来なかった。

「おいで」と目を細め、男は微笑んだ。

「ほら、此処からよく見えるだろう?」

小高い瓦礫の山に柚の手を引いてあがると、青年の指はひとつのテントを指し示した。

「あの中に、君の母体がいる」
「……ママ?」
「そう、会いたくはないかい?」
「でも……駄目だって……」

甘い誘惑に心が揺れる。
柚は思わず顔を逸らした。

くすりと……男が微笑み、頬を撫でる。

「それは、何の為の……誰が為のルールだろう?全ては自分達が廃れていく存在だという事を認めない、主権に固執する愚かな人類を守る為の身勝手なルールだ」
「何言って……」
「君は、何故こんな世界を守りたいと思う?アース・ピースのしている事などただの一時凌ぎだ。この先に待つ未来は、何を選ぼうと新たな戦争だけではないだろうか?人類は他者を愛することを忘れた」

ぞっと肌が粟立つ。

バラバラになっていたパズルのピースが繋がっていく気がした。
「まさか」「なんで」と、頭のなかで繰り返す単語

頬を撫でた男の手が、心臓にそっと触れた。
全てを見透かすような眼差しが、覗き込むように瞳を重ねる。

男が浮かべる上品で艶やかな微笑みは、甘い毒

「だが、我々は知っている。私達は情で繋がった生き物だから……人類のように争いを繰り返したりはしない」
「お前は――」
「よく考えてごらん、エヴァ。このまま愚かな人類に世界の主権を握らせ続けることが、本当に君や肉親の為になることだろうか?」

眩暈がした。
この喋り方、仕草、態度……もはや、思い当たる人物が柚には一人しかいない。

「人類から戦いへの意欲を削ぐ圧倒的な力を持ってして愚かな人類に新たな道を示し、我々の手で世界を統轄することこそが、我等が神に与えられた使命とは思わないかい?」
「お前は……」
「心臓の鼓動が早いね、エヴァ。とても動揺している」
「お前はっ――誰だ!」

柚が男の手を払い除け、足を引く。
男はくすりと笑みを漏らし、微笑みと共に目を細めた。

「では、誰だと思う?」
「ふざけるな!」
「ふざけていないよ。君の口から聞きたいだけさ、エヴァ」
「……神森の、アダム……だな?なんでここに、その姿はどういうことだ!」

柚はギリリと奥歯を噛み締め、目の前の男を睨み付ける。
アダムは艶めいた笑みを浮べて返した。

柚は逃げ出そうとして思い留まる。
後ろには救助された人質のいるテントがあった。

砂を踏む柚に、アダムは音もなくそっとその手を伸ばす。

「私と共においで、エヴァ」

顔も、姿も、色も……
アダムとは似ても似つかないというのに、アダムは何処までも彼らしい、音のない動きをする。

「私はアスラ・デーヴァとは違うよ。私は君に出会えた事をとても感謝している。やっと巡り合えた……素晴しき運命だ。だから私は、君と君の大切な人を全て守ろう」

柚は自分の手を抱き締めるように握りこみ、アダムを睨み返した。

「結構だ。今はまだ弱いけど……自分の大切な物は自分で守る!それに、アスラはそんなに悪い奴じゃない!……た、多分」

男の唇が弧を描く。

柚は、ゆるりと目を見開いた。

男の口端からつー……と、赤い筋が伝い落ちていく。
その筋は次第に数を増やしていった。

「なっ……!」
「おや、どうやらこの体は限界のようだ。君と話をするために、アース・ピースから拝借したのだけれど」

平然と話す男が血を吐き、柚の白い軍服が赤く染まる。
柚は目を見開いたまま、愕然と体を震わせた。

「ぁ…あ、なっ」
「アシャラと違って人間の体は脆くていけない」

青年の体中に裂傷が走り、血が溢れる。

「ならば、その体から離れたらどうだ?アダム」

後ろから聞こえた声に、柚ははっと振り返った。
アスラとイカロスが、空から静かに地面に降り立つ。

アダムは「やれやれ」と呟き、小さく首を横に振った。

「無粋だ。もっとゆっくり話をしていたかったのに、残念だよ」
「お前と話すことなんてない!」
「だそうだ。今回はお引取り願いたいね」

イカロスがアダムに手を翳す。

「アース・ピースは皆気が短くて困るな。わざわざ追い出されなくてももう行くよ」

アダムの瞳が、すっとアスラに向けられた。
アスラが静かにその瞳を見据える。

「君に私のエヴァを預けるのは多大に不安だ」
「……そもそも、貴様のものではない。要らぬ世話だ」
「ならば自分のものだとでも主張するつもりかな?マダム・アルテナがそう言ったのかい?」
「違う」
「では何故?」

唇が僅かに喘いだ。
一度引き結ばれる、薄い唇

不愉快な感情を宿していた瞳から、感情が消える。
感情が消えたというのは相応しくないかもしれない……と、柚はアスラを見詰めながら思った。

アスラの眼差しは、透き通る水のように一点の曇りもない。

「部下と女は――守るものだ」

柚は目を見開いた。
アスラがその視線に気付いたように柚に振り返る。

「だから、お前は俺が守る」
「……あ、えっと……何か悪い物でも食べたのか?そ、それともさっき実は頭も打ってたとか……」

思い出したようにおろおろとした面持ちでイカロスに説明を求める柚に、アスラが眉間に皺を刻む。
イカロスが、「そこはときめくところだよ」と、促すように囁き返す。

すると、アダムがくつくつと愉快そうに笑みを漏らした。

「笑わせないでおくれ、"デーヴァ元帥"。誰に教わったのかは知らないが、人間の真似事かい?」

男の体が傾く。
柚に向けられた手が放物線を描きながら離れていった。

血を吐く体とは不釣合いに浮かぶ艶やかな微笑み。
それは不気味であり、背筋をうそ寒くさせる。

倒れたキースの体が痙攣を始めていると言うのに、言葉だけは明瞭に響いた。

「エヴァ、暫しお別れだ。また会いに来るよ」
「にっ、二度と来るな!」

イカロスの背に隠れながら叫ぶ柚を一瞥し、倒れた青年の体にアスラが歩み寄る。
アスラはイカロスに視線を向けずに口を開いた。

「確認しろ」
「柚ちゃんは、ちょっと離れていてね」

イカロスは柚を置いて、倒れた青年の傍に膝を付く。

額に手を翳した後、イカロスは青年の顔を覗きこみ、閉ざされた青年の瞼を開いて瞳を覗きこむ。
イカロスから瞬きが消えた。

「何、してるんだ……?」
「精神体を移してアダムが残っていないか確かめている」
「……この人、大丈夫かな?乗っ取られただけで、神森とは関係ないんだろ?」
「出来る限りのことはする」
「……うん。人が傷付いたり死んだりは、嫌だ……」

柚は小さく頷き、ぽつりと呟きを漏らす。

「こんなに近くにいて、何も出来ないのは歯痒いな……ヨハネス先生みたいな力だったらよかったのに」
「この男を知っているのか?」
「え?知るわけないだろ。私は入ったばっかりなんだから」

何を分かりきった事をと言いたげに、柚が口を尖らせた。
アスラが僅かに眉間に皺を刻む。

「……知らない者になぜ付いて行った」
「だって呼ばれたから!」
「呼ばれたら誰にでも付いて行くのか?」
「だ、誰にでもじゃない!」
「はいはい、やめなさい」

イカロスがため息混じりに二人の間に入った。

「救護班を呼んだから、後は任せよう」
「この人、助かる?」
「大丈夫」

心配そうに見上げてくる柚の頭をイカロスの手がそっと撫でる。
アスラはその光景を横目で見やり、小高い瓦礫の山を降りていく。

入れ違うように向かってくる救護班と、エマが駆け付けた。
先に降りたアスラがエマと報告を交わす隣を通り過ぎ、イカロスは柚の背中を押す。

「さあ、君はちょっと中に入って」

すると、テントの前に立っていたフランツが、縋るようにイカロスの手を掴んだ。

「待ってください!少しだけでいいんです、彼女だけ家族と話すことも出来なかったんです、だからほんの少しだけでも」
「フランツ。君達が今回家族に会えたのは幸運だ。本来ならば許されない事だよ、分っているね?」
「ですが……!こんなに近くに居るんですよ!柚だけ会えないなんて、そんな」

柚は救助された家族が居るテントへと視線を向けた。

その前には、軍が用意したバスが停まっている。
柚は、「ああ、もう行ってしまうのか」と……漠然と理解した。

父が母の無事を心配しているだろう。
そして多分、自分のこともとても心配している……

フランツが、必死にイカロスを説得してくれていた。

まるで自分のことのように、とても一生懸命な彼の姿を見ていると、また感情を抑えられなくなりそうで辛い。
どうせ会えないのだ、会いたいと無理を言って、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかない。

柚は瞼を閉ざし、苦笑を浮かべた。

「フラン、いいよ。ありがとう」
「柚……」
「全然会えなかったわけじゃない、ちょっとだけど顔も見れた。無事だって聞いたし……もういいんだ」

柚は二人の隣を通り過ぎ、テントの中に入る。
フランツは奥歯を噛み締め、柚の後を追うと後ろから手を掴んだ。

「っ……そうやって、君ってひとは」

フランツの中に、苛立ちにも近い悔しさが込み上げる。

柚は聞き分けのいいふりをして、自分を追い詰めていく。

この先、長く短い人生を共に生きる仲間であり、家族なのだ。
何も出来ないかもしれない――だが、そうなる前に話して欲しい……頼って欲しい。

出会って間もないとはいえ、一線を引かれているようで、とても悲しい。

「フラン……」

振り返る柚の体を、フランツが抱き寄せた。
痛いくらいの力で抱き締める。

「心配も、何も、させてくれないつもりですか……?」
「……ごめん、ありがとう……」

フランツの腕に力が籠もった。

目頭が痛いくらいに熱くなる。
涙が込み上げた。

温かさと寂しさが同時に襲う。
指が、何かの存在に縋るようにフランツの軍服にしがみ付く。

止まらない波に押され、声を上げて幼子の様に泣いていた。
溢れる涙が頬を伝う。

イカロスはテントの外に立つアスラの隣に並び、視線を向けた。

アスラの視線の先で、走り出すバス
人質となった三人の家族を乗せ、目の前を通り過ぎていく。

男は唇を噛み締め、まっすぐと前を見ていた。
幼い少女が、心細そうに兄の姿を捜している。
閉ざされた窓の中から、柚の面影を残す女性が泣きながら娘の名を呼んでいた。

アスラは組んでいた腕を解き、バスの背に敬礼を向ける。
バスの姿が見えなくなると、アスラは隣に立つイカロスに視線を向け、僅かに眉を顰めた。

「……イカロス、出ているぞ」
「ん?ああ、また勝手に」

イカロスは苦笑を浮かべて涙を拭う。
引き裂かれた家族の涙を一身に背負いながら、イカロスは静かに瞼を閉ざした。

「とても強い想いだ……」
「その能力も困りものだな」
「そうだね。けど、この力に感謝することもある」

アスラは、小さく「そうか」と呟き返す。
そして、イカロスの顔を見ていぶかしむ様な視線を投げた。

「何を笑っている」
「え?あ、うん。ごめん。なんでもないよ」
「……なぜか不愉快だ」
「本当、なんでもないよ」

イカロスは誤魔化すようにアスラの背を押し、穏やかな微笑みを浮かべる。

「さあ、アスラ。俺達も戻ろう」

"おかえり"が待っているよ――…
そう呟いて、イカロスは微笑む。

「……愛された子供、か」

風が頬を撫でて去って行く。
アスラは人知れず呟いた。

イカロスはテントの中に消えていくアスラの背を見やり、くすりと笑みを漏らす。

(考えたというか、なんというか……)

"部下と女は――守るものだ"

(まさか、俺とヨハネスの言葉を理解する為に恋愛小説を読み漁るとは……)

再び、くすくすと堪え切れずに笑みが漏れた。

青い空に浮ぶ、白い月
眩い太陽
緑に覆われた大地

何も変わらない世界
だが、変わっていこうとしている者達

(いつか義務とか知識としてではなく、あの子が心からそう想えるようになる日がくるだろうか……)

目を細めると、また一筋、誰かの涙が頬を流れる。

地球と親に愛された子供達は、今だ先の見えぬ道の途中に佇んでいた。





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