屋上を踏む固いブーツの音
イカロスは振り返らずに、口を開いた。

「さっき、感じたね。とても微弱だったけど」
「ああ。西並 焔の他にもう一人、いるらしい」

振り返ると、アスラ・デーヴァが立っている。
イカロスは、尋ねられる前に彼の疑問に答えた。

「俺だって特定は無理だよ、此処は人が多過ぎる」
「……」
「うん、そうだね。分っているよ、アスラ」

頷き、穏やかな声で返す。
だが、その顔は何処か愁いを帯びていた。

アスラが隣に立つ。

すると、イカロスはゆっくりと顔をあげた。
アスラも、校門の方に視線を向ける。

「もう来たのか、ハイエナめ……イカロス、予定を変更する」
「了解。ああ、あっちの足止めには優秀な部下が行ってくれたようだ、任せよう」

午前中の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

校舎は活気付き、生徒たちが昼食をとる為に動き始める。
流れる人の波を、アスラは鬱陶しそうに見下した。





校門を避けて学校の敷地内に入った少年は、手で太陽の光を遮り、口端を吊り上げた。

「いるぜいるぜ、呑気で馬鹿な連中がうじゃうじゃと」

無造作に伸ばしたままの赤髪が風に揺れる。

むき出しの腕には程よく付いた筋肉
その上には刺繍が掘り込まれていた。

彼の背後に、すっと陰のように人が現れ、膝を折って敬うようにその名を呼んだ。

「ハムサ様」
「ああ、感じるぜ。馬鹿でかい気が垂れ流しだ」

ハムサと呼ばれた少年が足を踏み出した。
その手が、すっと校舎の一角を指し示す。

「行け、"アシャラ"共」

短く命じた声に反応し、陰のように付き従っていたふたつの人影が、ハムサの前に飛び出した。

悠然と部下を見送ったハムサは、ぴくりと眉間に皺を刻み、眉を顰めて顔をあげる。

空中に火花が走った。
それは兆候だ。

校舎に向けて走り出した陰の内のひとつが、突如爆発に呑み込まれた。
黒い煙の尾を引きながら、空中に投げ出される肢体
周囲には肉や髪を焼く嫌な臭いが立ち込め、地面にぐしゃりと倒れこんだ男を包む煤を、風がさらさらと撫でていく。

校舎からゆっくりとした歩調で歩いてくる青年は、目を引く白髪に炎のようなメッシュが入った髪をかき上げた。
青年は足を止め、ふっと口元に笑みを浮かべる。

「ここから先は、関係者以外立ち入り禁止だぜ?」
「またかよ、うぜぇ。てめぇの顔は見飽きてんだよ。察しろ、ボケが」

ハムサが苛立ったように舌打ちを漏らす。
青年は嘲笑を返し、銃を構えて引き金に指を添えた。

「そういうなよ、傷付くだろ?」

引き金を引く。
銃口に火花が散った。

ハムサが指を弾く。
腕を包み込むように電流が迸る。

空中で互いの炎と雷がぶつかり合い、大気を震撼させた爆音が響き渡った。





柚達が制服に着替えて食堂に向かうころには、席を確保するのがやっとなくらいに人がひしめいていた。
トレイを手に席に着くと、やっと体が休まる気がする。

ひとつひとつの声、会話、全てが交じり合い、ひとつの音となっていた。
絡み合う音を解けば、多種多様な会話

全てを聞き分ける事など不可能だし、人の会話に耳を傾けるのは悪趣味だ。

だが、目の前を通り過ぎていく言葉を交わすことのない人々が、今一体何を考えているのか……
隣の席に座る友人が楽しそうに話す昨日の出来事を、自分が体験したらどう思うか……

ここにいる全ての人間に意思があり、今食べている物への感じ方、現在の感情、授業中何をしていたか、朝食は食べたか、夜は何時に寝た、趣味の時間は何に熱中したか、聞いた音楽、夕食
全てが違い、全ての人間がそれぞれのドラマを抱えているかと思うと、人とすれ違う事すら楽しく思える。

友人と共に昼食を食べながら、柚はぼんやりとそんなことを考えていた。

「そういえばさ、昨日のニュース見た?」
「見た!昨日からアスラ・デーヴァが近くに来てるってヤツでしょ?」
「生で見たいよねー、軍人にしておくのが勿体無いくらい綺麗だしー」

柚はニュースを思い出す。

国家が所有する特殊能力部隊"アース・ピース"元帥、アスラ・デーヴァ
若干二十五歳で部隊最高位の元帥を任せられている若き天才を、メディアは挙ってはやし立てる。

食堂で、友人たちのお喋りを聞きながら、柚はミートボールを口に運ぼうとしていた。

だが突如、爆音が響き渡り、ガラスがビリビリと音を立てる。
割れないのが不思議なほどの衝撃で、校舎は余韻のように震えていた。

唖然として外に視線を向けようとした柚は、口に運ぼうとしていたミートボールが床に落ちていることに気付き、悲鳴をあげた。
そんな柚の悲鳴など、他の者からすれば実にどうでもいいことだ。

男子生徒が立ち上がり、窓際に駆け寄る。

「使徒だ!もしかしてアスラ・デーヴァが来てたりして!」
「アース・ピースと神森らしいぜ、校庭で使徒同士が戦ってるぞ!」
「すげぇ、本当になにもない所から火が出てる!」
「あいつ知ってる、ライアンズ・ブリュールだ」

窓際に詰め寄った男子生徒達が、興奮気味に叫ぶ。
柚は、友人達と顔を見合わせた。

ひとえに使徒と言っても、所属するものによっては違ってくる。

一般的なものは、各国ごとに国家が所有する特殊能力部隊"アース・ピース"
次に、"使徒"が世界の中心を担うべきと主張する、使徒と崇拝者で構成されたテロ組織"神森(しんしん)"
そしてどちらにとっても敵である、"使徒"を脅威とし、殲滅行為を行なう非公式組織"エデン"

柚にとって使徒とはテレビの中に人物であり、自分にはあまりにも無縁で、何処か遠い世界の話のように思えた。

「神森ってテロじゃない。皆怖くないの?」

隣に座る友人が、不安そうに柚の腕を掴んでくる。
本能的に、このメンバーの中で最も優れた体力を持つ柚を、拠り所にしているのだろう。

柚が口を開くよりも早く、正面に座る友人が笑顔で口を開いた。

「何言ってんのよ。アース・ピースが来てくれてるから大丈夫よ」
「そうそう、今までアース・ピースの戦闘に巻き込まれて怪我した人なんていないんだから」
「そ、そうかな……」

渋々ながら納得する友人を尻目に、柚は無言で窓の外に視線を向ける。
周囲は興奮の渦に包まれていた。

人だかりで窓の外の様子など全く見えないし、あの人混みを掻き分けて様子を見に行くよりは、目の前の昼食だ。
柚は新たなミートボールにフォークを刺し、再び口に運ぼうとした。

その時だ。

「うそだろ!うわっ、こ、こっち来た!!」

窓際にいた男子生徒が叫び、顔色を変えて窓から逃げ出す。
人がドミノのように倒れだした。

煌々と萌える火の玉が校舎――自分達の居る食堂に迫ってくる。
人々の悲鳴が鼓膜を震撼させ、一斉に出口へと押し寄せようとする人の波に乗り遅れた。

誰かが叫んだ。

「なんで開かないんだ!鍵が……!」

悲鳴が飛び交う中、柚はスローモーションのように迫る火の玉を見詰めていた。

体の奥底から、またあの音が聞こえる。
本能が、何かを掴もうと見えない手を伸ばす。

その意識は、視界の端で誰かが叫びながら立ち上がる姿に目を奪われた。
それが先程の少年と気付くまでに数十秒

柚の瞳が大きく見開かれる。

(何だ、あれ――…)

柚にはうまく言葉に表す事が出来なかったが、彼の周囲で何かが流れる気配のようなものが見えた。
一瞬、彼の周囲が歪む。

オレンジの炎が、ガラスにぶつかる前に中身から爆発するように砕け散った。
窓の外を、はらはらと火の粉が散っていく。

その光景は美しくもあり、戦慄もする。

皆が窓の外に釘付けになる中、柚はぽかんと口を開いたまま、少年の背中を見詰めていた。

悲鳴が止んだ。
水を打ったように食堂が静まり返る。

席から立ち上がり、柚が少年に手を伸ばし掛けた時、観音開きのドアが開いた。
堅苦しい靴音が響き、銃を手にした軍人が食堂に流れ込んでくる。

「騒ぐな、席に戻れ」

声を発したのは、他の軍人とは明らかに階級が違う雰囲気の男だった。
低い声がフロアに響き渡る。

軍服姿の男を見て、誰かが呟いた。

「アース・ピース――本物のアスラ・デーヴァだ!」





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