軍服姿の男を見て、誰かが呟いた。

「アース・ピース――本物のアスラ・デーヴァだ!」

国の自衛を目的とした、使徒の研究機関を兼ねた政府直属の使徒組織
使徒と選ばれた者のみが入る事を許される、国の最強部隊だ。

「あの真ん中の偉そうな奴、何処かで見たことあるなぁ……」

柚は青年を見やり、小さく呟く。
周りに座る友人たちが、呆れた面持ちで盛大に溜め息を漏らした。

「もう、柚のお馬鹿!さっき話してた"アスラ・デーヴァ"よ」
「ああ、そっか。あれ、そうじゃないような……まあいいや、なんでそんな人がこんなところに来るんだ?」
「知らないわよ、でも生で見れるなんてラッキー!」

柚は大きな瞳を瞬かせた。

その時、ふたつほど離れたテーブルで、昼の少年が椅子を蹴る。
響き渡る音に驚きながら、柚は少年の方へと振り返った。

「きたねぇぞ!こんなやり方!!」

大きく手を振りかぶり、少年がアスラ・デーヴァに怒声をぶつけた。
思わずきょとんとして、柚は少年を見詰める。

「お前が西並 焔だな?連れて行け」

アスラはとりあうどころか淡々と指示を飛ばした。

軍人が動く。
数名の軍人がまるで罪人にするかのように焔の両腕を掴み、出口に向けて歩き出した。

「放せ!くそっ、自分で歩ける!」

何がどうなっているのか……途方にくれるように、柚は引き摺られて食堂を出て行く彼の背を視線で追った。

ふと視線を感じて首を捻ると、アスラ・デーヴァと目が合う。
抑揚のない面持ちが、ただじっとこちらを見詰めているのだ、ぎくりとする。

アスラは目を逸らさぬまま、こちらに向けて足を踏み出した。
あまりに強い視線で捕えられ、逸らすに逸らせないまま、柚は椅子の上で身を引く。

アスラは靴音を響かせながら、ゆっくりと確実に、無駄のない動きで近付いてくる。

線の細い顔立ち、鋭い無機質な透き通る水色の瞳、感情を映さない怜悧な顔
全てが他者を圧倒する要素となっていた。

(なんだ、こいつ?……ま、まさか!目が合ったから因縁を?って、チンピラじゃあるまいに)

靴音が目の前で止まり、周囲の気配が強張るのを感じた。

一時たりと、目が逸らせない。
逸らした瞬間、呑み込まれそうな気がした。

「女、なのか……」
「へ?」

目を丸くした柚は、いきなり腕を掴まれ椅子から引き離される。

「いっ……!」

柚は顔をあげて目を見開く。
アスラは柚の顎を掴むと、品定めをするように自分を見下ろした。

「なっ…あ、あのっ……」
「……」

抗議の声をあげようとする柚の体がいきなり反転する。
テーブルに叩き付けるように上体を押し付けると、腕を背中で捻じり上げ、乱暴に頭をテーブルに押さえ付けられた。

音を立てて柚の昼食が床に散らばる。
食べ物の恨みは恐ろしい、腹立たしさが一気に込み上げた。

「ちょっと!」

アスラは柚の怒りを無視して、部下に声を掛る。

「暴走されたら厄介だ、薬を。ついでに西並 焔にもだ」
「は?ちょっと、待って!いきなり何なんだ!なにそれ!やだ、やめろ、放せ!!」

頭を押さえ付けられながら、必死にアスラを見ようとする柚の視界に、注射器に何かの液体が吸い上げられていく光景が映った。
柚はぞっとする。

頭を押さえ付ける男の力は強く、びくともしない。
暴れると腕に鋭い痛みが走る。

注射器の針が首筋に迫った。

「ゃ、いやだっ!」

その時、再び耳鳴りが響く。

ごぽごぽと血液が沸騰しているのではないかと思うほどに、激しい音
柚は怖くなり、ぎゅっと目を閉ざす。

瞼を閉ざすと、自分が足元から水底に吸い込まれていくような錯覚が襲う。

はっと瞼を起すと、まるで貧血を起したように視界がぐらぐらと揺れた。
心臓がありえない程速い鼓動を繰り返す。

押さえつける力が緩み、困惑を浮べながら振り返った柚は、後ろに立つアスラの淡々とした水色の瞳と目が合った。

「自覚がないのか、面倒だな」

アスラの唇が、一人ごちるように僅かに動く。

その時、ドアの方からくぐもった声が響き、男達の注意が僅かに逸れた。
柚は腕の痛みを無視してアスラの脛に蹴りを入れる。

アスラが小さく舌打ちを放ち、攻撃をかわす。
柚は腕を押さえながらアスラと向き直り、腹立たしくて堪らないといった面持ちで睨み上げた。

「貴様、いきなり何をするか!」

怒鳴りつけると、アスラが面食らった面持ちになる。

すると、いきなり後ろから腕を掴まれた。
振り返ると、焔が呆れの入り混じった顔で柚を引き寄せる。

「馬鹿かお前!」
「あァ?」

叫ぶと同時、焔は柚の腕を引いて走り出す。
柚は引き摺られるように走り出した。

「ちょっ、今度はなんだ?」
「ほんと馬鹿だな、お前!逃げるに決まってるだろ、政府のおもちゃになりたいのか!」
「また馬鹿っていった!?馬鹿っていう奴が馬鹿なんだぞ!」
「ちょっと黙ってろ、馬鹿!?」

騒ぐ柚を引き摺りながら、焔が窓から飛び出そうとする。
アスラはゆっくりと動作で、右手を上げた。

「待て!」

柚は咄嗟にその場で踏ん張り、焔の腕を引いて窓から飛び退く。

目を逸らせば見逃してしまうような一瞬

ガラスに亀裂が走り、一気に弾かれた。
ガラスが粉々に砕け散り、雨のように降り注ぐ。

あがるのは、生徒達の悲鳴
柚は困惑のあまり、眩暈が込み上げた。

「っ…、この野郎!?」
「危ないだろーが、私の美貌に傷が付いたらどうしてくれるか!」
「お前、恥ずかしいから、マジ黙ってろ」

焔と柚は起き上がるなり、表情ひとつ変えないアスラに怒鳴り掛かった。
そんな二人に、アスラは淡々とした面持ちで右手を翳す。

「っ!?」
「ぅぎゃあ!?」

咄嗟に焔が柚の腕を引いた。

二人が先程まで立っていた床が抉れ、砕け散る。
椅子や机が、何かに押し潰されたようにひしゃげた。

柚は青褪めながら、焔に追い付くように全力疾走する。

焔が柚の手を離し、割れた窓枠に手を掛けて飛び越えた。
柚もその後に続いて窓を飛び越えると、窓枠が握り潰されたようにぐしゃりと歪み、コンクリートの壁が崩れて鉄筋がむき出しになる。

校庭に飛び出すと、柚はパニックに陥りながら焔に捲くし立てた。

「ちょっ、ちょっと!なんだ、アレ!」
「しゃべんな!」

腕を引かれ、柚は植木に飛び込む。

二人は我武者羅に駆けながら、校舎の隙間に入り込み、身を縮めた。
隣でゼェゼェと荒い呼吸が聞こえてくる。

柚はちらりと焔に視線を向け、遠慮がちに訊ねた。

「なあ、お前使徒なのか?」
「てめぇもなんだろうが」

呼吸を整えてから、焔は素っ気なく返す。
柚は不安を隠すことが出来なかった。

「何かの誤解だ!私は何の力もないぞ。それにほら、私女だし」

現在存在する使徒の数は八十六名
ただし使徒の女性出生率は非常に低く、現時点で発見されているのは四人
内一人は死亡しており、現存するのはたった三人のみだった。

国家研究チームは使徒を増やすことを目的に、使徒の女性不足を補うべく、使徒と人類との間での受精を試み、これに成功している。
そうして誕生した子供の内の一人が、現在特殊能力部隊元帥を務める"アスラ・デーヴァ"という男だ。

アスラ・デーヴァの母体となった女"アルテナ・モンロー"は、元は一研究員であったが、その功績を称えられ、今では政界で確固たる地位を築いていることは有名だ。

「くそっ、あの時の気配はやっぱりお前だったんだな。女だからてっきり……」
「だから私は!」
「てめぇのことなんて知るかよ。そう思うなら戻りゃいいだろーが」
「み、見捨てるのか!ヤダよ、アイツなんか話が通じなさそうな顔してたし」
「ちっ……」

焔が舌打ちを漏らす。
柚は溜め息を漏らし、膝を抱えた。

「もう一個、聞いてもいいか?」

返事はなかった。
それを肯定ととり、柚は焔の顔を覗き込む。

「なんで助けてくれた?」
「はァ?……べ、別に助けてねぇよ。使徒なら逃げる時役に立つかと思っただけだ」

期待はずれだったけどな、と……焔が付け加える。
柚は不服気に口を尖らせたが、すぐにくすくすと笑みを漏らす。

そんな柚を見て、焔は呆れた面持ちで溜め息を漏らした。

「忙しい奴だな」
「ん?」
「なんでもねぇー」
「はっきりしない男だな」
「何ィ!?」
「ふんっ!しかし、これから先どうしたものか。あー……でも、使徒ならやっぱりアース・ピースに入るべきなんじゃないのか?」

柚が思い出したように頬杖を付いて訊ねる。
すると、突如焔が立ち上がるので、柚は目を瞬かせて焔を見上げた。

「だったら行けよ。俺は絶対入らねえ」
「……気になってたんだが、もしかしてこういうの初めてじゃないのか?」
「……ここ一年で、俺は二回逃げた。見付かる度に転校して――そうしたらアイツが出てきやがった」

柚は焔を見上げたまま、アスラの顔を思い浮かべる。
憎々しげにすら思える顔で、焔がぎゅっと拳を握り締めていた。

何故、彼は逃げるのだろう?
ぽつりと疑問が浮かぶ。

ニュースを見る限り、アース・ピースの使徒は国の希望ともてはやされ、英雄扱いだ。
しかも、大抵何度も政府の機関に追い掛けられたら、諦めが先にくるものではないだろうか?

柚は景色を眺めながら、ぽつりと呟く。

「理由は?逃げた理由。二回も逃げたってことは、それなりに理由があるんだろ?」
「……お前には関係ない」
「いいじゃん、理由ー」

しつこい柚に、眉間に皺を刻んだ焔が舌打ちを漏らす。
あからさまに嫌そうな顔をする焔に、柚は小さな苦笑を浮かべた。

焔は地面の砂を踏み、ぽつりと漏らす。

「妹」
「妹?」
「俺が居なくなったら、一人きりになる」
「……」

柚は暫し、無言で焔の背を見詰めた。

思わず小さな笑みが浮び、柚はすくりと立ち上がる。
スカートの埃を払うと、柚は焔の肩を叩いてその隣をすり抜けた。

「おい、見付か――」
「囮になるから、その間に逃げとけ」
「はァ?」
「私が使徒っていうのは、何かの間違いだろうし。捕まっても多分大丈夫だから」

「じゃあ」と明るく言い残し、校庭に向けて駆け出す背中
走るたびに揺れる髪は、走るたびに桃色の光を反射させる。

呆気に取られて立ち尽くしていた焔は、拳を握り締めた。

大丈夫など、あるはずがない。
能力を完璧に扱える使徒が、使徒の気配を間違える筈がないのだ。

一度捕まれば最後、二度と家族の下へは戻れない。
会うのみならず、手紙でのやり取りすら許されていないことを知らないのだ。

焔は苛立ったように舌打ちを漏らした。

(あの女が勝手に行ったんだ、俺は頼んでない……)

「行かないのかい?」
「!?」

心臓が飛び上がった。
飛び退くように振り返った焔は、ゆっくりと向ってくる長身の男に息を呑む。

「女の子を囮にして逃げる男なのかな、君は?」
「なっ……」
「女の子は守るものだと、君の死んだ母親が教えてくれたんだろう?"西並 焔"君」
「なんでっ――」
「なんで知ってるかって?それは俺が」

男の亜麻色の髪が光に透ける。
奥深くガラスのように透き通ったダークグリーンの瞳と共に、男の口元が柔和に弧を描く。

「――心を読む使徒だからだ」





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