18


整えられた綺麗な爪
すらりと伸びた細い指

人々に向かって微笑む、慈悲深いまなざし
それは、絵本でみた聖母マリアのよう……

(僕が母上を守るんだ)

そっと、そっと……
手を伸ばした。

指先が触れそうになる。

(役に立ちたい、必要とされたい)

細い指先がピクリと揺れた。

(だから)

手は、幼い手からするりと遠ざかっていく。

伸ばしたまま、動かない幼い手
少年は触れることすら叶わなかった手を、ただ見詰めていた。


――だから、愛して……


イカロスははっと瞼を起こした。

目の前で揺れるアロマキャンドルの炎
部屋を満たす淡い香り。

キャンドルの溶け具合で、自分がすっかり寝入っていたことに気付く。

(今のは……あぁ、久しぶりだな)

無意識に重いため息が漏れた。

イカロスは額に手を当てる。
軍服の襟元を緩め 、背もたれに深く凭れ掛かった。

(疲れるな……)

知りたくもない他人の思考が流れ込んでくる。
流れ込んでくるという事は、ほぼ感情が同調してしまうのだ。

それが喜びなどのプラスの感情ならば良い。
しかし、怒りや悲しみなどのマイナスの感情が立て続けに流れ込んでくると、さすがに精神的に参ってくる。

新人が入るといつもそうだ。
しかも、今回は二人同時

最悪な事に、今回感情が乱されているのは入ったばかりの二人だけではない。

アスラも苛立ち、焦っている。
他の者達まで感情が安定を欠いている。

(愛されない子供、か)

アロマの香りが疲れた精神に染み込んでいく。

瞼を閉ざすと、すぐそこにはまどろみが迫っていた。
決まってそうだ……他人の感情に引き摺り込まれるように、自分もまた、過去の夢を見るだろう。

目の前には、暗闇の中に体を丸めた胎児がいた。
そこは羊水に満たされた、温かく優しい空間だった筈

降るように響く声を、いつも聞いていた。

"早く産まれてきてね。あなたが強い力を持って生まれてくれたら、私は沢山お金がもらえるのよ。そうしたら、飢えに苦しむ私の子供達が、お腹いっぱいにご飯を食べられるの"

嬉しそうで、優しい声が語り掛けてくる。
ずっと、その優しさに酔わされていたかった。

"私の中で化け物が育っていくの、お願い!取り出して!"
"落ち着きなさい。これは君が望んだ事じゃないか"
"嫌ー!いやよ、もう限界!!"

腹が大きくなるにつれ、母体には次第に恐怖が芽生え始めた。
日に日に壊れていく母体の精神

どうしたの?
何処か具合でも悪いの?オカアサン

腹の中から手を伸ばした。

"数日前からずっとあの調子だ。いよいよイカレちまった"
"構わん、いざとなったら子供だけでも取り出すんだ"

何も出来ない、伸ばす手もまだ発達途中
命が人として形成されていく過程

外の世界をまだ知らない。
自分が求められた意味すらも、知らなかった。

それでも……
例えそれを理解していたとしても――…

(最後まで、求められていたかった……)

目を逸らすかのように、瞼を閉ざす。

(愛されたかった……)

悲しみと寂しさを癒すように……
記憶の中で手を伸ばす胎児に、そっと手を重ね返した。





辺りはすっかり闇に染まり、虫の音がもの寂しさを感じさせていた。

屋上でぼんやり月を見上げていると、梯子からひょっこりと青年の頭が覗き、目が合った瞬間、面倒くさそうに顔を逸らされる。
初対面でのこの反応に柚がショックを受けていると、青年は梯子をのぼりきってため息を漏らした。

「そこ、僕の指定席なんだけど」
「え、っと……ごめんなさい」

とりあえず謝ってみたものの、謝罪は必要だったのだろうかと、思わず考え込む柚

「さっき、フランツが血相変えてあんたのこと探してたけど?」
「え?なんだろう」

柚が立ち上がろうとする隣に、青年がごろりと寝転がる。

「鈍いね、頭の悪い女は嫌いだよ」
「え?」

柚は青年を見下ろし、目を瞬かせた。

彼は、使徒の軍服を着ているから使徒なのだろう。
ファイルで見たが、施設内では一度も見掛けたことがない。

名前は、ユリア・クリステヴァ
整った繊細な顔立ちに残る何処か幼さを残す儚げな均衡は、近寄りがたさを感じる。
海のように澄んだ青い瞳からすらりと伸びた鼻梁は、芸術を思わせた。

ユリアの言葉の意味を求める柚は、ついユリアの顔を観察してしまう。
ユリアは形のいい眉と共に片瞼をあげ、柚を見上げた。

「こんな時間にいなくなるからでしょ」
「……ああ、そっか。そうだよな……心配してくれてるんだ」

柚は一人ごちるように呟き、苦笑を浮かべる。

ユリアの手が伸びた。
静かに伸びてくるその手を見詰めていると、指先が唇に軽く触れる。

「ひとつ、忠告」
「な、何?」

ユリアは溜め息を漏らし、寝転がる頭の後ろで腕を組んだ。

「これだけフランツに心配掛けてるんだから、あんたもうちょっと慎重に行動しなよ」
「……うん?」
「警戒心なさ過ぎ。僕があんたを襲わないとも限らないってコト」

柚は目を瞬かせた。
そして、腹を抱えて笑い始める。

「そこ、笑うとこじゃないよ」
「うん、ごめん。忠告ありがとう」

柚は笑いながら、ユリアを見下ろす。

月光が柚の白い頬を蒼く照らした。
睫毛が長いな……と、ユリアはどうでもいいことをぼんやりと思う。

フランツの声が近くなってきた。
ユリアはうんざりとした面持ちで、ため息を漏らす。

「うるさくてゆっくりも出来やしない。早く行ってアレを黙らせてよ。僕があんたに何かしたって疑われる前にね」
「その時はちゃんと弁解するよ」
「弁解よりも、未然で防ぐ努力をして欲しいね」
「うん。じゃあ、おやすみ」

柚は、さほど高さもない屋上から身軽に飛び降り、外にまで探しに来たフランツに声を掛けて駆け寄って行く。
安堵した面持ちのフランツが建物の中に声を掛けると、捜すのを手伝わされていたのだろう……ライアンズが姿を現す。

建物の中に戻っていくフランツと柚を見送ると、ライアンズは屋上に視線を向け、梯子に手を掛けて顔を覗かせた。

案の定、寝転がるユリアの姿を見つけると、ライアンズは無言でその隣に座り、胡坐を掻く。

「ハーデスは?」
「そこら辺に隠れてるんじゃないの?」
「アイツ、女嫌いだからなぁ……」

頬杖を付きながら月を見上げながら呟くライアンズに、ユリアはくすりと失笑のような笑みを浮かべて返した。

「嫌いじゃないみたいだよ」
「はぁ?」
「アレは……苦手の域だね」
「へぇ、てっきり嫌いなのかと思ってた」
「ふっ、まぁ、所詮はライアンだからね」
「なんだと、コラ」

鼻で笑い飛ばすユリアに、ライアンズが眉間に皺を刻む。
くすくすと落ち着いた笑みを漏らしながら、ユリアは「ねぇ?」と声を掛ける。

誰もいない空間に、ふっと人影が舞い降りた。

ハーデスは、風に揺れる長い前髪を手で押さえながら、視線を落としたままぽつりと呟くように返す。

「俺は……よく分からない」

「自分のことだろ」と呟くライアンズに、ハーデスは困惑した面持ちを返した。
ユリアがくすりと笑みを浮かべる。

「まあ、僕としてはどっちでもいいんだけどね」

月明かりに照らされながら、呟かれる言葉
ハーデスは、瞬く星から遠ざかっていく少女の背を見詰めていた。





夜が明けると、ベッドに備え付けの目覚ましが音を立てる。
毎朝の健康診断を受け、着替えが終わる頃にはフランツが朝食を誘いにくる。

少しずつ生活のパターンに馴れ始めた。

訓練の時間は、主にジョージ・ローウィーが各々の任務と照らし合わせて決めている。
来週からは規定学力を補う為の講習が始まる他、それぞれの能力分野について専門知識を高める為のカリキュラムも始まるらしい。

「うわっ、何だこれ……ライアンの嘘吐き、任務と訓練の他は自由って言ってたのに」

ジョージに渡されたスケジュール表を見て、柚は訓練室の床をゴロゴロと転がりまわった。
フランツは柚が投げ捨てたスケジュール表を覗きこみながら苦笑を浮かべる。

「一応、高等部レベルまでが必須だから。僕はもうすぐ終了なんです」
「いっそ変わって欲しい」
「でも、一般レベルよりは随分内容が絞ってあるらしいですよ。あくまでも体裁目的ですから」
「なら、適当に経歴詐称でもしてくれ……こんなのやるくらいなら、一日中訓練してた方がマシ〜」
「ほう、いい事を言うな」

床をごろごろと転がる柚の目の間に、ジョージの足が割り込んだ。

「来週からは講習も入るんだ。今の内に、自主練でもしておけ」
「うえー」
「初日よりは早くなったが、まだまだだぞ!焔、お前もだ。いくら早く具現化しても、威力がこもってなきゃ意味がない。大体、お前等には精密さが欠けてるんだ、大雑把過ぎるぞ!」

腕を組んだジョージが、床にぺたりと座りこむ柚と焔に告げる。
柚とフランツから少し離れた場所に片膝を立てて座っていた焔は、ふてくされた面持ちでふいっとそっぽを向く。

ジョージはため息を漏らした。

「じゃあ、僕はこれから講習があるから先に行ってます」
「あ、私も餌やりに行ってくる」

フランツに続き、柚が軽快に立ち上がる。
ジョージとフランツが、首を傾げた。

「この間、ガルーダ尉官がいないときは、私が森のリスや小鳥にパン屑あげるって約束したんだ」
「へぇ、いいなー。今度、僕も一緒に行ってもいいですか?」
「うん。じゃあまた後で」

柚は軽く手を振り、訓練室から駆けだしていく。

しんと静まり返る訓練室で、フランツがぼそりと呟きながら焔に視線を向けた。

「一人で大丈夫でしょうか……」
「……なんだよ」
「いいえ。ただ、心配だなぁって思っただけですよ。別に、焔に柚と一緒にいてもしもの時は護ってあげて欲しいとか、全然思ってませんから。柚にもし何かあっても、焔のせいなんていいませんから。いや、ほんと、全然言いませんから。心置きなく午後の自由時間を満喫してください。それじゃあ、僕も行きますね」

言いたい事を言って、フランツは笑顔で訓練室から出て行ってしまう。
無言のまま顔を引き攣らせている焔に、ジョージは少し同情した。





木陰で本を読んでいたアスラは、声を聞いた。

「なんで付いてくるんだよ」
「好きでじゃねぇ。フランツの奴にお前のお守りを押し付けられたんだよ」
「お守り!?」

静かな森にはそぐわない、にぎやかな声
視線を向けると、案の定、柚と焔が歩いていく姿が木々の間から見えた。

「付いてくるなら手伝えよ?ほら、半分やるから、あっち」
「はァ?お守りだけでも面倒なのになんで俺が……」

袋を押し付けられた焔が、文句を言いながら渋々森の奥へと消えていく。

それはなぜか、不思議な光景に見えた。
文句を言いながらも、焔の雰囲気が何処となく柔らかいように感じたからだ。

それは焔に限った事ではない。

フランツも、ライアンズも、ヨハネスも、ジョージも……
過剰に心配し、気遣い、ふと……優しい眼差しを向けている時がある。

(女、だからか……?)

水で足場を作り、木の枝に上体を凭れながら、パンを食べるリスや小鳥をほほえましそうに見詰めている柚
差し込む陽光の様に暖かな雰囲気が彼女を満たしていた。

(普段は、ああいう顔をしているのか……)

それは、仲間が彼女に向ける穏やかで優しい視線に似ていて、だが何かが違う。

滅多に顔をあわせる機会もないが、自分は彼女の戸惑った顔や、怒った顔、そして――…
ふいに脳裏に柚の怯えた顔が浮び、胸にチクリと針を刺すような痛みを感じた。

それは、容易くアスラの思考を遮る。
すっきりとしないもやもやとした感情が渦巻き、いたたまれない気分が込み上げてきた。

「あっ、ちょっと!」

柚があげた声に、アスラは顔をあげる。

「イタタ、痛い!これは駄目だって!」

カラスが、柚の軍服のそでに付いたボタンを狙って飛び掛っていた。
腕で振り払おうとする柚が、足場にしていた水から足を滑らせる。

「うわぁ!?」

落ちる……と、アスラは思った。
考えるよりも先に手を伸ばし、柚の体から重力を掻き消す。

落下する柚の体が地面より数センチ程浮いた位置で止まり、そのままふわりと浮いた。

衝撃を覚悟していた柚が恐る恐る瞼を起こし、驚いたように周囲をきょろきょろとする。
アスラが重力を解くと、柚はお尻から地面に落下した。

「いたっ!ぅぅ……くっ、覚えてろよ!後で焼き鳥にしてやる!」

お尻をさすりながら体を起こした柚は、飛び去っていくカラスを見上げて文句を言っている。
そして、思い出したように顔をあげた。

枝を手で掻きわけて姿を現したアスラを見て、はっと息を呑む音が聞こえる。

少女の瞳が自分を捉えた瞬間、こぼれんばかりに大きく見開かれた。
体が強張り、瞳は脅えたように揺れる。
先程見せていた穏やかな眼差しも、カラスに向けていた怒りも、全てが色を変えるように消え去り、怯えに呑み込まれていく。

柚の体に震えが走る。

アスラが近付こうとすると、鋭く声が飛んだ。

「ぃ、いや!来るな!」
「……」

伸ばしかけた手が、ひたりと動きを止めた。

何故、助けたのに……と、アスラは首をひねりたくなる。

彼女はあの夜、何故自分を恐れたのだろうと、ずっと不思議に思っていた。

彼女は、暴力に対して極度の怯えを見せはしない。
なぜなら、学校の食堂で力でねじ伏せた時、最終的に面と向かって堂々と文句を言っていたからだ。

同じ使徒だ、階級は違えど、お互い強い力を持っている。
彼女が人間だったならまだしも、恐れる理由がよく分からない。

「おい、どうし……」

柚の声に気付いた焔が慌てて駆けつけ、アスラに気付いて動きを止めた。
焔は戸惑ったように柚を見下ろし、アスラを睨み返す。

縋るように焔の名をつぶやく柚を見て、アスラは漠然と理解した。

彼女が怯えるのは、自分が使徒だからではない。
焔やフランツ達とは普通に話をしているのに、自分だけに怯えた視線を向けてくる。

あくまでも"自分"という対象に対し、怯えを抱く。

胸がまた、チクリと痛む。
まるで、泥が溢れだすように胸の内が黒く染まっていく。

この溢れ出す感情は、"あの気持ち"にとてもよく似ている。

「……わかった」

出し掛けた手を、気付かれないようにそっと握りこんだ。

同じ種ですら、自分を恐れる……
同じ種ですら、自分は受け入れられることがない……

"同じ種の女"に、何を期待していたのだろう?
知らぬ間に、何を求めていたのだろう?

アスラは踵を返し、柚から離れる。
柚は恐る恐る顔を上げた。

「ぁ……」

彼は落ちそうになった自分を助けてくれたのだ。

お礼を……そう思っても、喉に何かが詰まったように声が出ない。
震えがなかなか治まらない。

思い通りにならない体
気持ち。

ここにいると、自分の弱さをとことん思い知る。
嫌だと、誰にも心配を掛けないくらい強くありたいと思うのに――…

柚は震える手を抱きこみ、奥歯を噛み締めた。





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