15


心地よい風が頬を撫でていく。
何処からともなく金木犀の香りが鼻孔を付いた。

ライアンズ・ブリュールは、静かに瞼を閉ざす。
まどろみが迫ってきた。

きっと見たくない夢を見るだろう。

だからその前に目を開けようと思っているライアンズに、男が声を掛ける。

"ブリュール、朗報だ"

政府から派遣された男は、まるで自分達が付き合いの長い友人であるかのように話し掛けて来た。
嫌悪が走るが、静かに噛み殺す。

"君が精子の提供をしぶるのは、君に恋人がいたからだね?彼女一人を想う、君はとても誠実な男だ"

部屋に通された時、思わず足を止めた。

ベッドに青白い肌の女が眠っている。
一瞬、死んでいるのかとすら思えるほど、深い眠りについていた。

その顔を覗き込み、戦慄が走る。

自分にはもったいないと思うほど、気立ても良く、おっとりとした優しい人だった。
命に代えても守りたいと思った、唯一の女だ。

"君の恋人で間違いないね?彼女は我々の特別な申し出を受け、君との間に子供を作りたいと言ってくれた。彼女もきっと喜ぶだろう。これなら出来るね?ライアンズ・ブリュール"

ずっと会いたかった。
せめて、突然の別れに謝罪を告げたかった。

だが今は、こうした形での再会を嘆いた。

了承を得たというならば、彼女の腕にある針の痣は何だ?
何故彼女は深く眠っている?

――俺のせいで…彼女を巻き込んだ。
ベッドに横たわる彼女の前で何度も懺悔を繰り返した。





目を覚ますと、焔が背を向けて座っていた。
ベッドから体を起こすと、昨夜自分がしたように、紙袋を差し出す。

「ほら、飯」
「いらない……」
「口に押し込むぞ、てめぇ」

柚は目を瞬かせた。
まるで昨日とは逆だ。

思わず小さく笑みが零れると、彼が少しほっとした顔を見せたような気がした。

柚は袋を開け、サンドイッチを少し齧る。

新鮮さを感じないぱさぱさのパンと、しっとりとした野菜
昨日、焔はこんな不味いものを文句も言わずに食べたのかと、しみじみ思う。

だが、不器用な彼の優しさが妙に嬉しかった。

「それ食ったらいくぞ」
「何処へ……?」
「逃げるに決まってんだろ、此処から」

柚はぽかんとした面持ちで焔を見やる。
机の上には、ギプスと包帯が投げ捨てられていた。

「……今度は、待っててくれたんだ」
「……前よりはまだ使えそうだからな」
「ふふ……」

柚は小さく苦笑を浮かべ、焔に背に凭れ掛かる。
焔が驚いて振り返ったが、突き放そうとはしなかった。

「さ、さっさと食えよ」
「うん、有難う」

ふいっと逸らされる顔
赤い頬と耳

渇いていた心に風が吹く。

柚はサンドイッチを口に押し込み、水と共に飲み干す。
壁に掛けられた軍服を羽織ると、柚は髪を結い直した。

「よしっ!作戦は?」
「とりあえず正面突破」

焔の答えに、柚は一瞬の間を置いて顔を引き攣らせる。

「お前、そんな無計画だからライアンにボコボコにされるんだぞ!」
「うっ、うるせぇ。ボコボコにはされてねぇよ、ボコくらいだ」
「つまり一発で伸びたと……」
「ち、ちがっ!二発だ!」
「やっぱりボコボコじゃん!」
「全然違うだろーが!」

二人は怒声を浴びせ合いながら睨み合い、ゼェゼェと肩を揺らした。
柚はベッドに座り込み、小さく溜め息を漏らす。

「でも本当にどうしたものか。マイクロチップが埋め込まれてるらしいから、私達が森の方に向っただけですぐに追っ手が来るだろうし。もし基地の外に出られても、向かう場所なんて簡単に突き止められちゃうだろうし……」
「チップは取り出せないのか?」
「何処に入れられてるかも分らないのにか?」
「傷が残ってんだろ?その入れた場所に」
「そんなのヨハネス先生が治癒して治しちゃってると思うんだけど。私なんてその前に自己治癒とかいう能力で跡形もなく塞がってるし。っていうか、それって自分で抉り出すってことだろ?考えただけでも痛い」
「お前は自己治癒があるからいいじゃねぇか」
「お前はないだろうが!?」

声を張り上げた柚は、そのまま眩暈を覚えてベッドに倒れる。
焔が慌てたように手を出しかけ、躊躇いと共に引っ込めた。

「無理なら、明日でも……」
「明日まで待ってくれるのか?でも大丈夫。寝起きだったから少し眩暈がしただけだ」

柚はベッドに仰向けに倒れたまま、くすくすと笑みを漏らす。
焔は眉を顰め、口を噤む。

無理に笑っているのだろうか……

思っている事を素直に言えない自分と違った意味で、彼女の言葉は真意でないことがある。
肝心な事を隠す彼女に苛立ち、それに気付けない自分に歯噛みする。

「無理はしなくていい……お前、分かりにくいんだよ」
「してない。体のほうは別になんでもない……枕元で、誰かが精神的なものだって言ってたから。そんな理由で自分が倒れるなんて全然思ってなかった。自分のこと結構強いと思ってたけど、案外弱いんだな、私」

柚は苦笑を浮かべた。

「昨日、助けてくれて有難う……」
「あれは、アイツ等がムカついたから――っていうか、最終的に俺じゃねぇ。知らない奴が仲裁してくれただけだ」
「もう!どういたしましての一言でいいんだ!」

柚は口を尖らせ、焔に手を伸ばす。
焔は訝しげに差し出された手を見詰めた。

「起して」
「自分で起きろ」
「いいじゃん、ケチー」

足をバタバタさせる柚に溜め息を漏らし、焔は立ち上がると柚の手を引く。
すると、逆に強い力で柚に引かれ、紅玉の瞳が焔を間近で捉えた。

「約束しよう?途中でどっちかが捕まったら、見捨てて逃げる」
「……お前、自分に出来ないことは約束すんな」
「出来るさ。だから焔も、今度はもう戻って来るなよ」
「だから――」

何かを言い掛け、焔はぐしゃりと自分の髪を握りこむ。

焔は無言で柚の手を払い、窓を開け放つ。
吹き込む静かな風が、カーテンを揺らした。

外には薄暗い森が広がっている。
まるで侵入を拒むかのように、不気味に映った。

成功する確率がどれだけ低いか、よく理解している。
だが、何もせず"此処"には留まれない。

「行くぞ」
「うん」

柚はブーツを履くと、焔の後に続き、窓枠に手を掛ける。
部屋に振り返る事なく、柚は窓を飛び越えた。



ハーデスという名の青年は、森の中に消えていく二人を屋上から見下し、興味も薄く呟く。

「どうして、イカロスは何もしないんだろうね……」
「面倒臭いんじゃないの?」

宿舎の屋上に寝転ぶユリア・クリステヴァは、くすくすと笑みを漏らした。
ハーデスがゆっくりと顔を向ける。

「ユリアじゃないから、それはない」
「そーだね、僕じゃないからそれはない」

二人の会話は終始倦怠感が纏わり付く。
ユリアは欠伸を漏らし、口元に笑みを浮かべた。

「じゃあ、憐れんでいるんだよ」
「どうして?」
「あの人はコウモリだから」
「コウモリ?」
「知らない?優柔不断なコウモリ」
「イソップ童話?」
「そう、それ」

のんびりとした口調で訊ね返すハーデスに、ユリアは瞼を閉ざして頷く。

月明かりが頬を照らした。
ここ最近、静かな夜が遠い。

「難儀なものだろうね、他人の心が読めるなんて。アルテナの操り人形も哀れ、コウモリも哀れ、女も哀れ。使徒を本気で支配出来ると思っている連中も、いいなりになっている使徒も、皆哀れ」
「俺も?」
「そう、ハーデスも」
「ユリアも?」
「さぁ、それはどうだろう?」

ユリアはくすくすと尾を引く笑みを浮かべた。

「イカロスは君達と同じ生まれだけど、君達の知らない感情を知ってるよ」
「俺達の知らない感情?」
「そう。だから同情しちゃうんだ――どっちにもつけない。イカロスの翼はコウモリの翼さ」

くすくすと笑い声が降る。
癪に障る顔が声と重なる。

(好き勝手言ってくれるじゃないか、あのガキが……)

イカロスは窓から外を眺め、溜め息を漏らした。

(だが、違いない。どちらにもなれない、俺はコウモリだ)





「来るぞ!」
「へぇ……?」

焔が柚に叫ぶ。
走り続けて十五分

すでに体力の限界を感じていた柚は力のない声をあげた。

炎が地面に撃ち込まれる。
一撃目はわざと狙いを外してあった。

「デートは部屋でしろ、ガキ共。もうすぐ消灯だ」
「またアイツかよっ……!」

木の上から、ライアンズの声が降る。
焔と柚は身構え、頭上を見上げた。

「今大人しく戻るなら、報告はしないでやる。戻れ」
「……だとさ、お前戻れば?」
「帰り道、忘れちゃったな。進むしかないんじゃないの?」

緊張した顔に、示し合わせたかのようにニッと笑みを浮かべる二人

「後悔するなよ」

ライアンズはギリリと奥歯を噛み締め、拳を握り締めた。
纏った炎と共に木の上から飛び降りたライアンズの指先で炎が踊る。

唸るように吐き捨てた言葉は、炎の爆ぜる音に呑み込まれた。





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