12


風の唸る音を聞いた気がした。

柚が瞬きをする一瞬の間に、ガルーダの姿は忽然と消え、ライアンズの目の前にある。
ふっ……と、彼の獣染みた瞳が弧を描く。

ガルーダの手はライアンズの腕を掴み、空中に軽々と放り投げた。
ガルーダよりも背の高いライアンズの体が、まるで空き缶を投げ捨てるかのように、あまりにもあっさりと空を舞う。

ライアンズが舌打ちを漏らし、空中で体を捻って着地をする。

だが、圧倒的にガルーダの方が速い。
ライアンズがガルーダから目を逸らした僅かの間に、ガルーダの体はぽかんとしている柚の目前にあった。

はっとした面持ちで柚が目を見開き、唇を一直線にひき結んだ。

正面からの打撃
拳を纏う風

攻撃を防ごうと、反射的に腕を胸の前で組む。
その前に渦を描くように水が集まり、壁を作ろうとした。

だが、ガルーダの腕は未完成の壁を突き破り、柚の腕に打撃を打ち込む。

弾かれるように吹き飛ばされた柚は地面を滑りながら、痺れる腕に顔を顰めた。

(早いのに力がある!)

それでもガルーダが手加減をしていることは、柚の目から見ても明らかだ。

「水で防ごうとしたんだ、ふうん。いいんじゃない?まだまだ遅いし軟弱だけど」

ガルーダが愉快そうに口元を綻ばせる。
まるでスポーツだ、彼は完全に楽しんでいた。

(完全に防げない、腕が痛い。そっか……ただ水を集めるだけなら簡単だけど、それじゃ戦闘であんまり役に立たないんだ。だとしたら、もっと力を圧縮して硬くすれば)

ライアンズが、ガルーダの背に向けて目を吊り上げた。

「ちょっと、ガルーダ尉官!勘弁してくださいよ、こいつはまだ指導途中で……」
「ライアン、柚ちゃんと組んでごらん。その方がガルーダも楽しめるんじゃないかな」

そんなライアンズに、イカロスが他人事のように暢気な微笑みと共に言葉を投げ掛ける。
ライアンズが青褪めた。

「イカロス将官まで!?楽しませてどうするんですか!煽らないで止めてくださいよ!」
「俺には無理」
「薄情ものー!」

ライアンズの叫びに、ガルーダがゆっくりと振り返る。
蛇に睨まれた蛙のごとく、ライアンズは思わず悲鳴を呑み込んだ。

ガルーダの手に風が吸い寄せられ、手を覆いつくす風が鋭い爪となる。

柚はその光景をじっと見詰めた。
そういう使い方のあるのだと、感銘する。

水と風はタイプが似ている。
ライアンズの炎は対象に直接触れたりするだけでダメージを与えられるが、水や風は何かしらの加工をしなければ、戦闘に不向きだ。

ライアンズは渋々ながら覚悟を決め、すっと身構えた。

「ったく、困った人だ」

ライアンズの周囲に炎が球体を成して点々と浮かび上がる。
ガルーダは柚を一瞥し、ライアンズに向けて地面を蹴った。

撃ち込まれる火の玉の軌道が読めるかのように、ガルーダは素早く火の玉をかわしてライアンズに飛び込んだ。
まるでライオンが鋭い爪で獲物に襲い掛かるかのように体をしならせ、ガルーダの爪がライアンズの頬を切り裂く。

血が球体となり、頬から飛び散った。
飛び散った血が空中でぶくぶくと音を立て、蒸発を始める。

ライアンズがガルーダの左腕を両腕で捕らえた。
一瞬にしてガルーダを炎が包み込み、燃え盛る。

柚がおろおろとしながら青褪めた。

燃え盛る業火の中、ガルーダの髪が風にそよぐようにふわふわと揺れる。
挑発的な笑みがライアンズに向けられた。

「なんだかんだ言って、結構マジじゃん」
「そりゃあ、そーっスよ。後輩に良いとこ見せたいし」

ガルーダがぷっと吹き出し、笑い声を上げる。

ガルーダを包む炎が吹き飛ばされるように消し飛んだ。
ライアンズが息を呑む。

「そりゃあ、悪かった!」
「がっ!?」

捕らえられていない右腕が、ライアンズの顔を横凪ぎに殴り払う。
腕を捕らえる力が緩んだ瞬間、ふわりとガルーダの体が横に倒れるように反転する。

ライアンズは全身の筋肉が強張るのを感じた。

(蹴りが来る!)

一撃目はなんとか目が追い付いた。
ライアンズの右腕が回し蹴りを受け止めると同時、ライアンズを殴ったガルーダの右手が床に付く。

(二撃目っ――!)

下から蹴り上げてくる逞しい足
顎を掠めた蹴りをギリギリでかわすと、ガルーダは地面に付いた手を軸に、体がしなやかに反って後方へと回転する。
綺麗に着地を決めようとしたガルーダの体を風が包み込み、跳ね上がった。

ガルーダの着地地点だった場所から、研ぎ澄まされた水の刃が剣山のように現れる。

軽々しく攻撃をかわすガルーダに、柚は顔を歪めた。

(凄いな。柔軟な体と瞬発力、風を本当に自分の一部として使いこなしてる。今の私じゃ、集中しなきゃ使いこなせないってのに)

ガルーダの体が、風に乗って訓練室の天井まで跳ね上がる。

(うぅ、すばしっこい。今度は天井!間に合うか……?)

天井から零れ落ちる水がぽつぽつとガルーダの頬を打つ。

天井に掴まろうとしたガルーダは、目を見開いた。
口元が思わず綻ぶ。

攻撃のタイミングは合っていたのだ。
ただ、先程の攻撃のように、水に硬度を持たせるまでに至らなかった――柚の二撃目の攻撃は未遂で失敗

先程の水の針は、ライアンズが時間を稼いだから出来た攻撃
ましてや空間をまたいだ攻撃となると、今の柚には攻撃出来るほどの威力を持ったものをすぐには具現化出来ない。

ガルーダは天井に掴まったまま、くつくつと楽しそうに笑みを漏らした。

(本当に使徒としての勘はいいな。けど惜しい、経験不足)

反動を付けたガルーダが天井を蹴りつける。

その力をバネにして柚に襲い掛かる鋭い爪
柚が目を見開き、ライアンズが柚に飛び掛って押し倒す。

「っ――!」

対象を失って床を抉ったガルーダは、手に纏わせた風を解き、倒れこんだ二人を見下ろした。
ライアンズが飛び起きる。

「ってー、擦り剥いた!」
「うわっ、どうしよう!ごめん、ライアン!有難う!」

ライアンズの擦り剥けた痛々しい腕を見て、柚が顔を歪めておろおろとした。

「そんなの怪我の内に入らないって。唾でも付けとけ」
「アンタに言われたかないですよ」

ケラケラと笑うガルーダに、ライアンズが怒鳴り返す。

三人の戦闘を見守っていたイカロスは、難しい面持ちで眉を顰めていた。
ジョージが、そんなイカロスにそっと声を掛ける。

「ご感想は?」
「今のレベルじゃ話にならない。でも素質はあるんだ。だからあるいは……」
「予防線に?」
「なるかもしれない。といっても……彼女が女である限り、一時凌ぎにしかならないんだけどね。とにかく賭けてみるしかない。一週間で彼女を戦場に送り出せるレベルにしてくれないか」

イカロスから、憂鬱気なため息と共に無茶な注文が出た。
ジョージが目を丸くする。

「一週間?いくらなんでも……」
「本当は、三日って言いたいんだよ」
「無茶ばかりおっしゃる」

ジョージが、慣れた様子でため息を漏らした。
そして、躊躇うようにその名を出す。

「それで、元帥はなんと?」
「あの子に関しては……悪いけれど、少し時間が欲しいな」
「はぁ……」
「さて、俺もそろそろ任務に出なければならない時間なんだ。行って来るよ」
「いつお戻りに?」
「明日の昼頃になるだろうね。アスラの方も今日は任務で戻らないといっていたし、とりあえず今日は大丈夫だと思う」

イカロスは静かな笑みと共に、軽く手を振る。

思い出したように振り返るイカロス
その口元に、薄い笑みが浮ぶ。

「彼女は強く見えるかい?」
「人に心配を掛けまいとすることが強さだというのならば、強いのでしょうな」
「……人とは厄介だね」

人の心を読む事が出来る使徒からすれば、強がる事すら無意味なのだろう。
ジョージは苦笑を浮かべ、訓練室を出て行くイカロスを見送った。

外では昼を知らせるサイレンが鳴り響く。
訓練の終わりを告げようとした時、ガルーダがすくりと立ち上がり、柚を小脇に抱え込んだ。

「よっしゃ!昼飯だぁー!!」
「ちょっ、尉官?昼飯にソイツは必要ないですよ?ちょ、ちょっと」

目を丸くする柚を抱えたまま、ガルーダは数十メートル上にある窓に飛び移り、外に飛び降りた。
柚の悲鳴をたなびかせながら去っていくガルーダに、ライアンズのみならず、ジョージは頭を抱えてため息を漏らしていることなど知りもせず。

高い窓から軽々と飛び降りるガルーダに、柚は景色を楽しむ余裕などなく、腹の底から悲鳴をあげた。

ガルーダは柚を抱えたまま、猫の様に軽い身のこなしで窓から食堂に飛び込み、全く気にも留めずにテーブルの上を飛び移る。
置かれた食器が音を立て、皺ひとつなく広げられた白いテーブルクロスが歪む。

「おっちゃん、いつもの」
「ガルーダ尉官!いつもテーブルの上に乗るなって言ってるだろうが!」

シェフが目を吊り上げて怒声をあげる。
まるで、お魚を咥えたどら猫だ……と、柚は思った。

用意されていた紙袋をお礼と共に受け取り、再び窓枠の上に足を掛けたガルーダは、風を纏って宿舎の屋上に飛び移る。
ジェットコースターのようなガルーダの動きに憔悴する柚を他所に、ガルーダは有り余る体力を持て余しているかのようだ。

屋上に落ち着くと、ガルーダは柚を小脇に抱えなおし、紙袋を預ける。

空を愛しそうに見上げる琥珀の瞳
太陽の光を受けた健康的な褐色の肌

体の奥深くにゆっくりと澄んだ空気を吸い込み、ガルーダは背中を丸めた。

「ぇ……?」

ガルーダの背中に風が集う。
ばさりと広がる風の翼に、柚は目を見開いた。

「飛ぶよ、しっかり掴まってて」
「え、えぇ!ひぁぁあああ!!」

風の翼が音を立てて翻り、ガルーダの足が地面を蹴る。

翼が空に羽ばたいた。

柚は悲鳴をあげながら、紙袋を握り締めてガルーダの腕にしがみ付く。

だが、風は驚くほどに穏やかだ。
恐る恐る瞼を起こせば、静かに流れ行く景色が映る。

雲と並び、風を浴びて駆ける澄んだ青空の中に飛び込むと、ガルーダはまるで鳥そのものだった。

「どう?空は」
「え?あ……」

森に包まれた基地施設
歩けば随分な距離のある森を抜けると、刑務所のような壁とフェンスが設けられ、基地を包み込んでいた。

閉鎖された空間が馬鹿らしく思えるほど、空は広く自由だ。

「凄い凄い、鳥みたい!」

柚は目を輝かせてはしゃぐ。

「気持ちいいっしょ?」
「うん!」

柚は笑顔を爆ぜて頷いた。
ガルーダは、その反応に満足そうな笑みを浮かべて返す。

(ああ、この人も……)

柚は空を見詰めて目を細めた。

(いい人ばかりだ)

嫌なことなど、すべて忘れてしまえそうな程、温かい。

ガルーダは森の上を旋回し、突き出た一本の木の上にふわりと着地すると、柚を下ろした。

風が吹くと、葉がさわさわと音を立てる。
まるでガルーダを歓迎するかのように、周囲の木の枝に大きな鳥から小さな鳥まで集まり始めた。
リスが巣穴から顔を出し、ガルーダの足を駆け上って肩に乗る。

柚は太い幹にしがみ付きながら、瞳を輝かせた。

「リスだ!触ってもいい?」
「いいよ、パンあげて」

促されて紙袋を開くと、サンドイッチの他にパン屑を集めた袋が入っている。
パン屑を掌に乗せると、リスがガルーダの肩から柚の肩に飛び移り、手からパンを食べ始めた。

「か、かわいいー!食べてる」
「いつもはもっと来るんだ」
「あ、警戒されちゃってるのか。悪いことしちゃたかな」
「その内、皆が柚のこと覚えてくれるよ」

ガルーダの手が柚の頭を抱き寄せる。
心地の良い心臓の鼓動が耳を打つ。

柚ははっとして、柚は赤くなりながらガルーダの胸板を押し返した。

「……って、なんで裸!こっちも露出狂!?」
「ん?あ、軍服とか忘れて来た。ま、いいや」
「まぁいいやって……ガルーダ尉官って、ホント自由過ぎ」

柚は腹を抱えて笑い始めた。
笑い過ぎて目に涙が滲む。
だがきっと、それは楽しいからだけではなく……人の温かさに触れて嬉しいからだ。

すると、柚の体がふわりと浮き、ガルーダが膝の上に抱き寄せた。

「俺、泊り掛けの任務が多いから、俺が居ない時に柚が餌をやってくれる?」
「うん、やる!」
「柚は俺に似てる匂いがする」
「に、匂い!?」

柚は思わず自分の匂いを嗅ぐ。

するといきなり顎を掴まれ、生暖かい舌が頬を這い、滲んだ涙を舐め取った。
一瞬の間を置いて、柚の顔が耳まで赤く染まる。

「ひ、ぁ、あ、な!何」
「しょっぱい」

ガルーダはぺろりと自分の唇を舐め、無邪気な笑みを浮かべた。

「此処に来る連中は、皆最初は泣いてるね」
「……うん。それは寂しいから、だと思う。今の涙は違うけど」
「でも、同じ味がする」

柚は少し考え込む。
そして、顔を引き攣らせながら思わず身を引く。

(な、舐めたのか?他の人のも?っていうか、他の人って……)

悶々とした頭に、フランツの顔が浮ぶ。
多分、そこはギリギリセーフだ。
続いて、先程のマッチョ教官ことジョージ・ローウィーの顔が浮ぶ。

(いやいやいやいや、聞かなかったことにしよう)

柚は目を塞ぎ、頭からいかつい髭マッチョの顔を消し去った。





日が暮れ、空が茜色に染まっていた。

木の上からオカリナの旋律が響いてくる。
子守唄の様に、何処か温かいメロディー――彼が、この曲以外を吹いているところは聞いたことがない。

オカリナの音色は、霞むように静かに消えていった。
拍手を贈るかのように風が木々の葉を揺らす。

木の麓では、木に凭れて気持ちが良さそうに眠る少女がいた。

木の上に視線を向けると、音もなくガルーダが飛び降りてくる。
ふわりと遅れて舞う風を浴びながら、ジョージは呆れた視線を投げ掛けた。

「任務に行く時間?」
「そうですよ。オカリナを持ち歩くくらいなら時計を持ち歩いてください」
「知ってるだろう?俺、時計は嫌い」
「はいはい。それと軍服、外に出るときはちゃんと着てくださいよ」
「わかったよ、マム」
「せめてダディと言ってください」

差し出された軍服を受け取り、ガルーダは背伸びをする。
捨てセリフに顔を引き攣らせるジョージなど目もくれず、ガルーダは柚に視線を向けた。

木に凭れ、すやすやと気持ちが良さそうに眠る柚

「昨日、眠れなかったんだろうね」
「え?」
「いいや」

ガルーダは小さく笑みを漏らし、軍服にそでを通した。
白い軍服の上から黒いコートを翻る。

「じゃあ、この子のこと頼んだよ」

ガルーダの背に翼が広がり、ガルーダが空に消えていく。
羨ましい能力だと思いながら、ジョージは柚を見下した。

「ったく。こっちの気も知らず、呑気な奴だな」

起こさないように柚を背中に背負い、ジョージは宿舎に向けて歩きだす。
寝ぼけた声が、「パパ」と呟いた。

罪悪感に駆られるのは、何もしてやれないから。
虚しさを覚えるのは、別れも告げずに引き離された、生まれて間もない娘と愛する妻を思い出すから。

今頃、妻はどうしているだろうか?
娘は?健やかに育っていれば、この少女と同じくらいの歳だ。

二人とも、二度と戻れない自分に囚われることなく、新しい幸せを掴んでいるだろうか――…

それでいいのだ、そうするしかないのだ。
幸せになる為に必要ならば、自分など初めからそこに存在しなかったように、忘れてくれて構わない。

「重ねているのか……」

厄介だ。

小さな呟きが、見上げた黄昏の空に消えた。





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