13


フランツと夕食を終えると、柚はヨハネス・マテジウスの執務室に呼び出された。

ヨハネスの執務室は、僅かの医療器具と本しか見当たらない。

窓際の机には大量の本が積まれ、置ききれないものが床に散乱している。
きちんと整理された部屋を想像していた柚は、少し意外だと思いながら、勧められた椅子に腰を下ろした。

「すみません、来てもらっちゃって。フランは?一緒ではないんですか」
「えっと……腕に緑の腕章を付けた人達に呼び出されて行っちゃった」
「え?あ、あぁ……そうですか」

ヨハネスは小さくため息を漏らす。
大人しく椅子に座って出されたコーヒーを飲んでいる柚が、ヨハネスの視線に気付いて首を傾げた。

「フランもいなきゃまずい?」
「え?いいえ、話があるのは柚君なので問題ありませんよ」

単に自分が女性と二人きりという状況を避けるがために、フランツも呼んだのだ。
世の中思い通りにならない。

「呼び立てする程のことではないのですが、焔君が食事をとってくれないんですよ」
「あー……ハンガー・ストライキってやつ?」
「そうかもしれませんね。ですが、体によくありませんし……彼を説得して欲しいなんていいませんが、食事だけでもとってくれるようにあなたから言ってもらえませんか?私はどうも彼に嫌われているようで」

柚がくすくすと苦笑を浮かべた。

「別に、先生だからってわけでもないと思うけど」
「それは喜ぶべきか悲しむべきか……」

ヨハネスは、共に苦笑を浮かべる。
コーヒーカップに手を伸ばしながら、ヨハネスは視線を落とした。

「ですが、心配なんですよ」
「お医者さんだから?」
「それもあるんでしょうがね。けど私達は、この国にたった十六人しかいない仲間なんですよ。きっと誰よりも分かり合えるのに……拒絶するなんて寂しいじゃないですか」

柚はヨハネスの寂しげな顔を見詰める。

「先生は優しいな」
「そ、そんなことありませんよ!それに、彼には迷惑しているんです。怪我を治したと思ったらまた増やして!」

真っ赤になって慌てるヨハネスに、柚は肩を揺らして笑みを漏らした。
ヨハネスは、ばつの悪い面持ちで小さく咳払いを挟み、眼鏡を指で押し上げる。

「皆、本当に優しいな……」

柚は俯き、噛み締めるようにぽつりと呟きを漏らした。
聞き取れなかったヨハネスが訊ね返すと、柚は明るく顔を上げて首を横に振る。

そして、椅子からすくりと立ち上がった。

「焔に夕食、持っていくよ」
「ええ、すみません。あなたも辛い時でしょうに……」
「私は平気だから焔の心配だけしてやってくれ、先生。それじゃあ、コーヒーご馳走さま」

柚はにこりと微笑み、ヨハネスの執務室を出て行く。

遠ざかっていく軽快な足音を聞きながら、ヨハネスは空になったコーヒーカップを手に取り、立ち上がった。
開けられた窓から吹き込む風が、机の上の本を捲る。

(無力な大人でいたくないですよ……私は)





焔は窓際に座り込んだまま、一日を終えた。

髪をぐしゃりと握り込む。
悔しさに顔が歪んだ。

同じ炎属性

ファイルに載っていたデータでは、ライアンズ・ブリュールは中級クラスの第五階級ヴァーチュズ
自分は上級クラスの第二階級ケルビム

階級に差がありながら、待ち伏せていたライアンズに全く歯が立たなかった。
炎の圧縮法、速度、経験、どれをとっても足元にも及ばない。

"散々手古摺らせた馬鹿がいると聞いてわざわざ出向いたが――この程度か?"
"邪魔をしないでおくれ、西並 焔"

「畜生ッ!」

ふいに、耳鳴りの様に悲鳴が走った。
はっとした瞬間、掌にじわりと汗が滲む。

"お兄ちゃん、止めて!熱いよ!やめてー!"
"いやぁあ!焔、止めなさい!どうしちゃったの、焔!"
"なんだよこれ!分らない!なんで、止まらないんだ!どうしよう、父さん!"
"こ、こっちに来るな!?化け物!!"

父に投げ付けられた本が、自分に触れる寸前で燃え上がった。
灰のみがはらはらと零れ落ちる。

自分を見る両親の瞳はとても息子を見るものではなく、得体のしれないモノに対する恐怖に怯えていた。

"娘さんの火傷は、真皮全層に浸透しています。まず痕が残るでしょう"
"女の子なのにっ、あんな火傷の痕っ……"

母は絶望的な面持ちで泣いていた。

"母さん、もはや認めるしかない。あの子は使徒だ"
"どうして、どうして家の子が!"
"明日、この事を相談に行こう。あの子も、同じ悩みを持った人達のいる施設に行ったほうがきっといい。私たちではあの子を理解したくても、してやれないんだ……"

――あの子を傷付けるだけだ。

お互いに、傷付いていく。
夜中に、ひそひそと話す父と母の声を盗み聞きながら、少しだけ安堵した夜

自分がいなくなることでもう誰も傷付かないなら、それでも構わないと思っていた。

"西並君、すぐに来て!さっき警察の方から電話があって、あぁ、落ち着いて聞いてくれ――君のご両親が、車に衝突されて亡くなったと連絡が……"

俺のせいで妹が……
俺のせいで両親が……

俺のせいで――…

真っ暗な部屋に、すっと光が差し込んだ。
焔ははっと顔を上げる。

「こんばんは、えっと……焔」
「お前……」

柚が部屋のライトを灯す。

「夕飯、ヨハネス先生の代わりに持ってきたよ」
「……いらねぇ」
「ほぉ、せっかく持ってきてやったのに、そういうこと言うのか?」
「いらねぇって言ってんだろ!?」

振り払った手が、柚が手にしていたトレイを弾き落とした。
床に散らばる食事を見下し、心の中で罪悪感を覚える。

俯いた瞬間、頭にトレイの角が叩き落された。

「食べ物粗末にするな!」
「……」
「ほら、ごめんなさいは?」
「ご、ごめんなさい……」
「よし」

柚の迫力に思わず呑み込まれた。

満足そうに仁王立ちする女が、昨日泣いていた女と同じにはとても見えない。
そもそもどれが本当の彼女なのか判らないほど、ころころと表情が変わる。

「何だ、そんな脅えた顔して。別に落とした物食べろとは言わんぞ?だが、ご要望があれば、今すぐ食えと命じてやろう」
「ねぇよ、そんな要望!?」
「ったく世話の焼ける。お昼の残りだ。貰い物だけどこれでいいか?」
「だから、いらねえって……」
「口に押し込むぞ?」
「イタダキマス」

紙袋を受け取りながら、なんて凶暴で横暴な女だと、心の中で吐き捨てた。

中から出てきたのは、パサパサになったサンドイッチ
あまり食欲をそそられる物ではなかった。

一口食べれば、やはりおいしいものではない。
だが意外にも食が進み、空腹であったことに気付くと自分自身も驚いた。

柚は焔の隣に座ると、焔の手首に巻かれたギプスに遠慮がちな視線を向けてくる。

「あのさ……手、大丈夫か?」
「別に」
「もっと、愛想よく答えられんのか。せっかくお礼言おうと思ってきたのに言い辛いだろ!」
「しっ、知るかよ!なんなんだよ、てめぇーは!」

途端に声を張り上げ合った二人は、顔を見合わせて溜め息を漏らし、同時に壁に背を預ける。

「なんか、私達はいつもこんな感じだな」
「……ああ」
「まだ、お互いちゃんと自己紹介もしてないし」
「別に、いらねぇし」
「駄目だ!私は宮 柚。はい、次は焔の番」
「てめぇ、もう十分名前で呼んでるだろうが。ったく……西並 焔、よろしくはしなくて結構だ」
「何ィ!」

柚が口を尖らせた。
その幼い仕草に、思わず笑みが漏れる。

柚は目を瞬かせ、すぐに一緒に笑みを浮かべた。

暫らくすると、柚はぽつりと訊ねる。
それはまるで腫れ物に触るかのような態度に思え、焔は眉を顰めた。

「やっぱりまた逃げるつもりか?」
「……当たり前だ」

素っ気ない答えに、柚は「そっか」と呟く。

「ヨハネス先生が、お前のことすごく気に掛けてくれてた。ここの人達、優しいよ……そりゃ、嫌な奴もいるけど」
「は?知るかよ、俺には関係ないね」
「でも……!逃げられないなら向き合うしかないじゃないか」
「うるせぇな!ああもう、俺に構うな!お前等はあの連中と上手くやってくつもりなんだろ。俺は御免だ!俺がいる場所は此処じゃねぇ!」

しまったと、後悔するがもう遅い。
柚の反論がぴたりと止まり、部屋はしんと静まり返る。

柚は僅かに俯き、消え入りそうな声が静かに響いた。

「私だって……本当は帰りたいと思ってる」

小さく、とても小さく呟かれた、本当の気持ち。
焔は途端に罪悪感を覚えた。

昨夜、彼女は訓練を楽しみだと言っていた。

だから、彼女はここを選んだと思ったのだ。
所詮、自分とは違う……そう思ったのだ。

だから、一人で逃げ出した。

「じゃあ私、そろそろ部屋に戻るから。また明日な」
「あ、あぁ……」

焔が何かを言い掛け、おずおずと頷く。
焔は最後まで、柚と目を合わせられなかった。

彼女が連れてこられたのは、自分のせいでもある。
逃亡中に自分があの学校に行っていなかったら――柚は変わらず両親の傍にいられたはずだ。

本当は帰りたい……そう漏らした彼女は、一人で逃げようとした自分をどう思っているのだろう。

焔はサンドイッチの入っていた袋に視線を向け、拳を握り締めた。





柚は食堂にトレイを置いて戻ると、窓の外を眺めて小さく溜め息を漏らした。

暗い森
虫の音が響き渡る静かな夜

丸い月の白い光が優しく降り注ぐ。

(アダムとイブ……か)

神の創造した最初の人間であり、最初の罪人
蛇に唆され、神の戒めを無視して知恵の実を食べた。
たちまち二人はエデンの園から追放されてしまったという。

漆黒の髪とエキゾチックな顔立ち。
まるで別次元を生きるような、不思議な雰囲気
独特の色香を放つ、美しい男だ。

(うっ、思い出してしまった。私のファーストキスが……)

柚は赤くなり、唇に触れた。

(次に会ったらとりあえず殴ろう。あ、でも二度と会いたくないかも……いやいや、それじゃ泣き寝入りだぞ)

一人悶々と考え込みながら、柚は自室のドアを開ける。
顔をあげた柚は、ベッドに座る二人の知らない男に目を瞬かせた。

「うわっ、あ、ご、ごめんなさい!部屋間違え――」
「間違ってないけど?」

柄の悪い男がベッドから立ち上がり、柚に歩み寄る。
もう一人の男の顔には、張り付いたような微笑みが浮んでいた。

柚は無意識に体を強張らせる。
本能が危険を知らせていた。

「おっと、何処行くの?もうすぐ消灯だぜ?」

後ろ手でドアを開けようとすると、もう一人の男の両手が柚を挟むようにドアに打ち付けられる。
柚は男達を見上げ、息を詰らせた。





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