空には恐らく満点の星。
だが、人の手が加えられていない木々が空を覆い、月明かりすら遮っていた。

辺りは暗く、虫の声がうそ寒く鳴り響くだけの闇が広がっている。

喉の奥から、空気が抜け出るような音が出た。
まるで鳴りそこねた笛のようだ。

(あいつ等、絶対ぶっ殺してやる……)

辺りの暗さもさることながら、まるで眼球に白い膜を貼り付けられているかのように視界は霞んでいた。
今まで当然のように見えていたものが見えなくなるというのは、戸惑うほどに不愉快で心細いものだ。

だがどのみち、瞼が吸い寄せられるように重い。
瞼のみならず、足も腕も、指先すら、まるで自分のものではないように感覚が鈍かった。

夏が終わろうとする季節ではあるが、ひどく寒い。
悪寒がするが、腕や足が熱い。

確か腕と足が折れていた筈だ。
体にも何発か銃弾を受けている。

それなのに、目に加えて痛覚すら麻痺したらしい、体中の痛みが感じられなくなっていた。
しまいには思考まで霞み始める。

(死ぬのか……?)

ここで初めて、ぽつりと疑問のように浮かび上がった。

開いたままの口から、短く息を吐く。
また、空気の漏れ出るような音がした。

もう瞼を起こしていることも出来ない。
意識が死を受け入れようとしていた。

今までの思い出が浮かび上がっては消えていく。
ああ、これが走馬灯というやつかと、悟る。

瞼を落としたその時、草を踏む音がひとつ、耳に届いた。

はっと、僅かに瞼を起こす。
息を呑んで、思わず咳き込んだ。

"それ"は闇の中から観察するように、じっ……とこちらを見ていた。

まるで月明かりのような淡く青白い光を纏い、金色の双眸が大きく瞬きをして目を細める。
草を掻き分けて、悠然と姿を現すそれは、息を呑むほどに美しい獣だった。

四本の細い足で、まるでモデルのように歩く様は優美であり、つい見惚れてしまう。

小柄な体にたわわな尾、尖った耳とすらりと伸びる鼻先。
獣とは思えないほどに上品な動作で目の前に腰を落とし、利発そうな金色の双眸で自分を見下ろす。

(きつね……?)

狐と言えば、黄色のイメージがあったが、目の前の狐は余すことなく白い体毛が全身を覆っている。
何よりも確信を鈍らせるのは、その尾が九本もあることだ。

『そなた、死ぬのか?』

くつくつと、狐が笑った。

『食ってもよいかのう?』










「珍しいペットをお飼いなんですね。キツネですよね?」

レオナルド・チェチェーレは、掛けられた声に手の動きを止めて顔をあげた。

白い毛並みにたわわな尾がゆっくりと主人の膝を叩く。
気持ちが良さそうに伏せられていた瞼が起こされ、琥珀の瞳が主の手を止めさせた客人へと向けられた。

主人の膝の上で丸まっていたペットは、まるで気難しい猫のようであり、プライドの高い貴婦人のような眼差しと失笑で客人を一瞥すると、興味も失せたかのように再び主人の膝に顎を乗せてしまう。
可愛げ気のない態度に、わざわざイギリスから足を運んだクリフ・オルコットは愛想笑いを張り付かせた。

ペットの傲慢な態度を見れば、その主がいかほどに愛情を注いでいるかは明白だ。
ペットの態度は気に入らないが、レオナルドの機嫌を取ろうと、客人は両手を広げてペットを褒め称えようとした。

まずは対象の機嫌を取り、口の滑りを良くしなければならない。
何年も掛けて、やっと会うことが叶った人物なのだ。

「ただのキツネじゃあない」

気を良くしたレオナルドは、口元に薄い笑みが浮かぶ。

これからペットの自慢が始まるのだろう。
イタリア人のご機嫌を取るのは不本意ではあるものの、その自慢話に付き合い、いいネタを手に入れることが出来るならば安いものだ。

地道に準構成員に近付き、何度も危険な目に遭いながら、やっとここまで辿り着いた。
プライドなど、とうに捨てた。

目の前に座る人物は、南イタリアの一角で名を爆ぜるマフィア、ブラマンテ・ファミリーのボスだ。

クリフがフリーライターになって、早五年。
目の前の人物は、当初から追ってきた大きな山だった。

うだつの上らない自分とは対極に、レオナルドはボスになった一年後、落ち目にあったブラマンテ・ファミリーを界隈随一のマフィアへと伸し上げたやり手だ。

「そうですよね。実に美しい毛並みで……」
「これはただの白髪だ。こいつは俺なんかよりもよっぽど婆さんさ」

レオナルドは笑いながら、「そうだろう?」とキツネの顔を覗き込む。
キツネはまるで人の言葉を理解しているかのように、たわわな尾で主人の手を叩いた。

「そんなことで怒るなよ、皺が増えるぞ」

濡れた鼻先にキスをすると、キツネは機嫌を損ねたのか……身軽に主人の膝を飛び降り、奥の部屋へとするりと姿を消してしまう。
目の前のイタリア人は大袈裟に肩を竦め、ドアの向こうへと朗らかに声を掛けていた。

「いやはや、参った。後で上手い料理でご機嫌を取らないとな」
「は、はぁ」

まるで恋人の機嫌取りだ……と、ほとほと呆れかえる。
イタリア人は、"女"とあればキツネでも口説くのか?と、クリフは心の中で悪態を漏らした。

キツネがいなくなったのを見計らってか、レオナルドは葉巻に手を伸ばす。
クリフはすかさずライターを手に身を乗り出そうとするが、彼の傍に立つ男の方が早かった。

自分へと向ける一瞥は、「不用意に動くな、少しでも変な動きをすれば殺す」と――そう物語っているかのようで、安い笑顔もさすがに引き攣りそうになった。

「アイツがいるとタバコも吸えん。タバコを吸うと怒られるからな」
「キツネにですか?」
「そうだ、俺の体が心配らしい」
「それはそれは、賢いですね」

愛想笑いを浮かべると、レオナルドの青い瞳が客人を見定めるように見上げる。

「ああ、アイツは本当に頭がいい。ついでに美人なんだ。それだけじゃない、アイツは俺の勝利の女神さ」
「なるほど」
「まあ、女神なんて生易しいもんじゃあねぇな」

彼の葉巻から、灰皿へと灰が落ちた。

まるで、一本の葉巻が導火線のように思えてくる。

吸い終えればタイムオーバー。
それまでに、相手の機嫌を損ねたら、デットエンド。
一瞬にして蜂の巣だ。

彼との会談は、手応えを感じない。
だからといって、全く手応えがないとも思えない。

それを裏付けるように、彼は愉快そうに続けた。

「妲己や玉藻御前って、知ってるか?」
「は?」
「大昔に、中国や日本の"王様"を誑かして国をおかしくしたっていう、とんでもないキツネの悪魔のことさ」
「悪魔、ですか?」
「まあ、あっちじゃ"妖怪"って言うらしいけどな。アレがそうなんだ」

クリフは思わず、キツネが消えたドアの方へと顔を向ける。
すると、周囲からくつくつと小さな笑みが零れ、からかわれているのだと気が付いた。

頬が赤く染まり、怒りが沸き上がる。
周りの者達に言わせれば、自分はまだまだ"若く、青い"らしい。

取材対象に、腹を立てれば全てパァだ。
分かっていても止まらない、感情に振り回される自分は、確かに"若く、青い"のだろう。

「もしそのお話が本当ならば、今誑かされているのはあなたということになりますね」

嫌味を込めてとげとげしく放った言葉に、レオナルドはふっと口角を吊り上げて笑った。

「その通り」

一瞬、その男が正気か疑いたくなる。

本気のようでありながら、それを受け入れているかのように悟りきった薄い笑み。
しがないフリーライターである自分には、到底、マフィアのボスの考えなど理解できるものではない。

だがこのままからかわれて終わるのは少し悔しい。

「狐と言えば……俺は昔に」

ちらりと、窺うようにレオナルドを見やる。

「尾が沢山ある狐を見ましたよ」
「ほう?それは興味深いな。何処で?」
「さあ、それがよく覚えてないんです」

予想外に好奇心を浮かべて会話に乗ってきたレオナルドが、小さな間を置いて噴き出す。
そして声をあげて笑い出すと、葉巻はすでに短くなっていた。

結局記事になるようなネタも入手出来ないまま屋敷を後にしたクリフは、忌々しい思いで腕時計に視線を落とした。

(くそっ、マフィアのボスのペット特集なんて誰も読まねぇぞ。ああ、編集には大見栄きって出てきちまったってのに、どーすんだ、これ)

全くもって無駄な時間だったという後悔と、落ち込む自分を庇うように、これだからイタリア人はと心の中で悪態を漏らす。
連中の目の前では命惜しさに出来そうにないが、ゴミ箱でも蹴り飛ばしたい気分だ。

その時、ふいに女の声が聞こえた気がした。
屋敷へと振り返ったクリフの瞳が、ゆっくりと大きく見開かれる。

突き出たバルコニーの白い手摺に、両腕を乗せて凭れかかる女がいた。
海からの潮風に癖のない長い白髪を靡かせながら、魅惑的に男を誘うかのような紅い唇で誰かと言葉を交わしている。

忙しなく何度も腕時計に落としていた視線も、無意識に繰り返す呼吸も、風が葉を揺する音さえも……
その一瞬が、クリフから全てを奪った。
女の姿が鮮明に目に焼き付き、体中の血と胸の内を熱く掻き立てる。

手が無意識に動いていた。
常備しているカメラをバルコニーへと向け、指がシャッターに掛かる。

その瞬間、背中から何者かに体当たりをされ、クリフは地面に滑るように倒れ込んだ。
手からカメラが転がり落ち、整えられた芝生の上を滑っていく。
クリフは忘れていた瞬きをしながら、草の匂いを鼻先に感じていた。

「いっ、てぇな!なにす――」

出掛けた文句を引っ込めたくなる。

背中には厳つい男がクリフの貧弱な腕を捻り上げながら背中に跨り、自分の頭に固い鉄の塊を押し付けている。

写真は撮らないという約束だったことを思い出す。
レオナルドと会う前には、このカメラのみならずペンまで取り上げられ、調べ上げられた始末だ。

クリフの顔からさっと血の気が引いていく。

「こいつどうします?」

訛りの強いイタリア語で、頭に銃を押し付けている細身の男がバルコニーに声を掛けた。

屈辱だ。
だが今は、それ以上に恐怖に震えていた。

「なんだ、なんだぁ?」

面倒臭そうに、レオナルドがバルコニーから顔を出して先程の美女の隣に並ぶ。
女はこれといって、動こうとはしなかった

「光ったから銃かと思って咄嗟に押さえ付けたんですが……どうやらカメラのレンズのようですね」
「いや、カメラに見せ掛けた銃かもしれねぇですよ。それともスパイか」

クリフは鉛が強過ぎるイタリア語を必死に聞き取りながら、首を横に振る。

だが、どう言い訳していいものか、弁解にも困った。
まさか、女に見惚れて無意識に盗撮……になるのだろうか……をしようとしたなど、口が裂けても言えない。

「あー……」

いかにも面倒臭そうに、バルコニーの手摺に頬杖を付いたレオナルドが小さく声を漏らす。
すると、隣からくすくすと品の良い笑みが漏れた。

「放しておやり」
「おいおい、勝手に決めるなよ」
「そやつは妾に見惚れておっただけじゃよ」
「なっ!?」

耳まで赤く染まる。

自信に満ちた発言ではあるが、その女の言葉は、不思議と嫌味や自惚れには聞こえてこない。
見た目は若い女だが、まるで歳を重ね、多様な人生経験を重ねたかのような落ち着きがある。

「そいつは、尚更聞き捨てならねぇな」
「それよりもレオ。そなた、また妾に隠れて煙草を吸いおったな?」
「ん?んん?いや、どうだったかな。最近物忘れが酷くてな」
「あれは体に良うないと散々言っておろう。臭くてかなわぬ、暫らく妾に近寄るな」
「釣れない事言うなよ、な?機嫌直してくれよ」
「ふんっ。妾はそなたの事を想い言うておるというに、そなたときたら……」
「すまん、分った!本当にやめる、二度と吸わん!おい、お前等、俺の葉巻全部処分しろ、今すぐだ!」

レオナルドが、室内の部下に向って叫ぶ。
威厳あるマフィアのボスも、これでいいのか?と疑問を抱くほどに、女の前では形無しだ。

だが、これほどの美女ならば、ご機嫌をとりたくなるのにも頷ける。

女はそっぽを向きながら、横目でクリフを押さえつける男達を見やった。
華奢な白い手が、「放してやれ」と言わんばかりに手を振る。

クリフは男二人に連れられ、門の外に放り出された。
まるでゴミを放り投げるかのように追い出され、唖然とする自分の背中で門の閉まる音を聞く。
男達が捨てセリフに何かを口走って言ったが、あまりの早口に聞き取ることも出来なかった。

「くっそォー!」

壊れたカメラを手に、クリフは泣きたい気持ちで叫んだ。

途端に大声を警戒し、中からわらわらと銃を手にした男達が現れる。
クリフは運動不足の体を駆使し、人生最速の速さでその場から逃げ帰った。





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