キートラ
〜2〜




一日は忙しい。
自分の時間などないまま、ほぼ一日が終わる。
それこそ本当に、何かを考え込む余裕などないほどだ。

紅葉が住むキートラという村は、これといって特徴がない田舎村だった。
村の裏にある森が唯一の特徴ともいえるもので、男達は森へ狩りに向かい食料を調達したり家畜の世話に追われ、女達は森で薬草や果実を集めて他の村に売ることで生計を立てているが、決して裕福な暮らしとは程遠い。

家畜の肉と鳥の卵、家の菜園で賄う野菜が自分達の主な食料だ。
こちらの料理法など知らない紅葉は、料理をするスーの動きを見よう見真似で勉強している最中だった。

朝起きれば、水汲みに始まり、スーの料理の手伝い――最近では、紅葉でも朝食くらいならば作れるようになった。
洗濯機などない為、洗濯物を一枚一枚手洗いし、庭に干す。
家の掃除と菜園の手入れをし終えると、昼は森に入り、スーに教えられた薬草や晩御飯に出来そうな食料を探しに歩き回る。
薬草探しで得た賃金は、家の灯りの燃料費や、塩など、生活に必要なものを買うだけでほとんどなくなってしまう。
お陰で服はボロボロになっても繕い、着回している。

科学技術が発達した場所で育った紅葉には、目まぐるしく不便な生活だ。

ただひとつ、紅葉にも好きな時間がある。
森の中で一人薬草を探し回る時間だ。

一人きりになれば、言葉が通じないことを気に病むことはない。
森に入れば、珍しい動物との出会いもあり、人と接するよりもよほど気が楽だ。

だが、今日は人間の同行者が居た。

『でさ、ドドウの噂で聞いたんだけど、ドドウの先の村にお忍びで第二王子が来てるんだってさ』

籠を手に歩く紅葉の前を、クモークが無邪気に歩く。
手に弓は持っているものの、獲物を探している様子は全くない。

『おっ、セトゥナ。あそこにシャテレの実がなってるぞ』

クモークが高い木を指す。

指されるがままに木を見上げたセトゥナは首を横に振った。
高い場所にあり、例え棒を使ったとしても届きそうにない。

『大丈夫、俺が採ってくるよ。滅多に食えないシャテレだぞ。スーじいさんに食わせてやりな』
「あ……」

クモークは紅葉に弓を預け、枝に手を掛けると、するすると木の上へと登っていく。
そんなクモークを、セトゥナははらはらと見守った。

クモークは木を昇り終えると、木の実をもぎ、紅葉に向かって手を振る。

(デジャブ……)

今朝、水汲みの後に一瞬見た光景だと思いながら、紅葉はエプロンを持って広げると、クモークが上から投げる果物を広げたエプロンの上で受け止めた。

ふんわりと甘い香りが鼻孔を付く。
それは紫色をした、桃のように柔らかな果実だった。

木から降りたクモークは紅葉が受け止めて籠に移したシャテレの実をひとつ手に取ると、肩で拭い一口齧る。
途端に果汁が溢れ、クモークの手を伝った。

『んー、やっぱシャテレは最高だ!セトゥナも食えよ』

紅葉はクモークの真似をして袖で果実の皮の汚れを拭うと、じっとその表面を見詰める。

非常に香しい甘い芳香を放ち、食欲を刺激してくるが、熟した果実は紫に近く、毒々しく感じた。
意を決して小さく齧った紅葉の鼻腔に甘い芳香が広がり、果肉が口の中に蕩けた。

『いい感じに熟してるだろ?』

言葉はやはり理解出来ないが、多分、「おいしいだろう?」という意味合いの問い掛けだと判断し、紅葉はこくりと頷く。

この青年は、紅葉が言葉を理解していないということに気付いていない。
喋らない紅葉の代わりによく喋るが、その内容がほとんど分からないまま、紅葉はとりあえず頷いて返す。
今のところ、大抵のことは頷いていれば済む。

『セトゥナ、疲れた?』

やはり、紅葉はこくりと頷く。
するとクモークは紅葉の手を引き、無邪気な笑みを浮かべて歩き出す。

『じゃあこっち!泉で少し休もうぜ。綺麗な花が咲いてるんだ』

クモークに連れられるまま、紅葉は森を歩いた。
くるぶし丈の草が生い茂る森の中を、クモークは慣れた様子で歩く。

ほどなくして開けた泉に辿り着くと、クモークは近くの岩に紅葉を座らせ、大きな葉を摘んで水を汲みに走った。

小鳥の声だけが木霊する。
澄んだ空気とはこういうものなのかとしみじみ感じるほどに、森の空気はとても澄んでいた。

あまりの心地良さにぼんやりとしていると、のそのそと大きな獣が後ろから現れ、紅葉はびくりと体を強張らせる。

立ち上がればクモークほどの大きさがあるかもしれない、紅葉の知る限り豹に近いが、豹とはまた違う。
すらりとした体は褐色の体毛に覆われ、その上に赤褐色の斑模様が広がっている。
バランスをとるように赤褐色の尾を振りながら、獣は紅葉の横を通り過ぎ、無防備に水を飲み始める。

『おっ、ファルリア。おしい、外で会ったらいい獲物だったのに』

水を汲む自分の隣で水を飲み始めた獣を見やり、クモークは弓で射るでもなく小さく呟き、水を汲んで戻った。
紅葉がファルリアを指して不安な顔をすると、クモークは小さく笑って首を横に振る。

『大丈夫、ここにいれば安全だって。水飲み場はどんな生き物にとっても中立地帯なんだからさ』

クモークの言う"大丈夫"が、自分の知る言葉に変換すれば「大丈夫」という意味合いだということはすでに学習していた。
彼が安心する理由がよくは分からないが、紅葉には信じるほかない。

静かな静寂の中、紅葉の足元に何かが触る。
声をあげる代わりにびくりと飛び上がった紅葉に、クモークは笑った。

『ネレーだよ。きっと、シャテレの匂いに釣られて来たんだな』

掌に乗りそうなサイズの小動物が、地面に置いた紅葉の籠をカリカリと引っ掻いている。
その仕草が可愛らしく思い、紅葉がシャテレをひとつ掴み、やってもいいかと視線とジェスチャーで問い掛けると、クモークは腰に下げていたナイフを抜き、シャテレの実を半分に切って地面に置いた。

ネレーはシャテレから溢れる汁を、長い舌で舐め始める。
すると次第に一匹だったネレーは、二匹、三匹と増えてきた。

紅葉がその様子を熱心に見守っていると、クモークが朝、井戸の前で会ったときのように思い詰めたような面持ちでそわそわとし始める。

『あ、あのさ、セトゥナ』
「?」

紅葉が顔を上げ、クモークを見上げた。
クモークは顔を真っ赤に染め、紅葉の肩を掴む。

『君が好きだ!一目惚れだったんだ、結婚してくれ!』
「?」

真剣な面持ちのクモークを見上げながら、紅葉はクモークが何に真剣になっているのか分からずに、目を瞬かせる。
怒られている様子ではない。
ならばやはり、紅葉は愛想笑いを浮かべてこくりと頷き返す。

途端にクモークは歓喜に震え、万歳をして紅葉の周りを飛び跳ねて歩いた。
そんなクモークの姿に、ネレー達がびくりと飛び上がり、紅葉はますます混乱しながら、クモークの姿を目で追う。

その時だ。
森の奥から低い咆哮が響き渡った。

危険を察知したファルリアやネレー、小鳥達までもが一斉に逃げ出していく。

驚く紅葉と、いぶかしむように立ち上がったクモークが弓に手を掛けた。
クモークは紅葉を自分の後ろに庇うと、弓を絞る。

大地を蹴るふたつの足音がけたたましく近付いてきた。

草を踏み、掻き分ける音、向かってくる動物の息遣い、そして弓を引いて構えるクモークの鼓動。
緊張が最高潮に達した瞬間――

「!」

生い茂る草を飛び越え、白亜の獣が踊り出す。

獣は太陽を遮りクモークと紅葉の頭上を飛び越えると、前足が大地に触れる。
そのまま怯むことなく泉の上へと走る獣の長い尾を、紅葉は思わず振り返り見詰めた。

獣は泉の上を全く沈むことなく走り、泉の中央で勢い良くその身を翻すと、追跡者に向けて先程遠くに聞こえた低い咆哮を上げて威嚇した。

その後に続くように、もうひとつの足音がゆっくりと速度を落とし、草むらからは手綱を付けた小型の恐竜のような獣に乗った青年が姿を現す。

「!」

それは、紅葉が夢で会った獣と青年だった。
紅葉は途端に恐怖を覚える。

『何やってんだ、あんた!泉での猟はタブーだぞ、そんなことも知らないのか!』
『……口を慎め、無礼者』

一見して身なりのよさが際立つ青年は、クモークに一瞥をくれて不機嫌に吐き捨てた。

獣は泉の上で構えたまま、低い声で相手を威嚇している。
青年は獣を尊大な態度に睨み下ろした。

決してファルリアのようにすらりとした体系ではないが、力強さを感じる白亜の獣の毛皮は、日差しを浴びて輝いて見える。
手足が見事な黒に染まり、長い尾は馬の尾よりもたわわで、人一人分の身長よりも長い。

「ぁ……」

振り返って獣を見ていた紅葉は小さく声を漏らした。

夢では分からなかったが、その獣には見覚えがある。
紅葉が森に入ると、先導するように森の中を歩き、薬草や食料のある場所を教えてくれる獣だ。

「っ……、ぁ」

紅葉はクモークの背中から飛び出し、言葉の代わりに青年に向けて首を横に振った。
青年が、飛び出してきた紅葉に初めて気付いたように視線を向けてくる。

『娘がいたか……その娘がお前の連れか?ウィンブルよ』

青年の問い掛けに、ウィンブルは白亜の毛を逆立て、怒ったように泉に尾を打ち付けた。
飛び散る水が、小さな虹を掛ける。

怒れる獣に驚き、紅葉はびくりと首を竦めた。
そしてその隣で驚いたように目を見開いたクモークが、『あれが?』と呟きを漏らす。

青年が騎獣の向きを変え、騎獣から降りた。

一挙一動が洗練されたかのような動きで、そこに存在するだけで人の目を惹く。
無視できないような存在感を身に纏う男だった。

『娘、名はなんと言う』

紅葉は迫ってくる青年から無意識に、一歩、後じさる。
すぐさま、クモークが紅葉を自分の背に隠し、青年を睨んだ。

『彼女は声が出せないんです。何処のご貴族様かは存じ上げませんが、あの獣がウィンブルなら、ウィンブルが禁獣だってことくらいご存知でしょう!』
『声が出ない……、か』

青年は考え込むように小さく呟きを漏らした。
自身の足で一歩、前へと踏み出す。

『ならば「この言葉ならば通じるか」?』
「!」

突然聞こえた聞き慣れた日本語に、紅葉は目を見開き、思わず庇ってくれているクモークの後ろから身を乗り出した。

聞き慣れた言葉がこれほどに嬉しく感じるのは生まれて初めてだ。
絶望と孤独の世界に、ぽつりと一滴の雫が零れ落ちるように、希望の光が灯る。

まるで足が別の意志を持ったように、紅葉は唇を喘がせながら前へと踏み出した。

「ぁ、ぅ――っ!」

紅葉はクモークの静止を無視して青年へと駆け寄ると、言葉にならない言葉で必死に言葉を伝えようとする。
頭に言葉が浮かぶ、だがどうしても、それが言葉にならないのだ。

青年は確信を得たかのように、深い笑みを浮かべた。

『「あの獣はお前の敵だ」、「私はお前の味方だ」』
「!」

紅葉は驚いた面持ちで、泉の上に立つウィンブルに振り返る。
獣は喉を震わせて怒りの咆哮を上げ、水面を蹴った。

『セトゥナ!』

クモークが叫び、青年が弓を放つ。





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