キートラ
〜3〜




「!?」

ウィンブルの尾が弓を叩き落し、その尾が風のように紅葉を掬い上げて背に乗せると、青年とクモークの間を駆け抜けた。

『セトゥナ!!』
『ちっ、獣が――』

青年が森の奥へと走り去っていくウィンブルに向けて、もう一度弓を引こうとすると、クモークが慌てて青年の腕に飛び掛かり押さ込む。

『やめろ!セトゥナに当たる!』
『先程から……なんだお前は』

青年は弓を引くことを諦め、いぶかしむ様にクモークに問い掛けた。
だが、やはり質問したことすら無意味だったというように、興味もなさそうにクモークから顔を背け、ウィンブルが走り去った方へと顔を向ける。

『まあいい』
『何がいいって言うんだ!セトゥナが攫われたんですよ、追いかけなきゃ――』
『あの娘が危険に晒される可能性は低い。それよりも、あの娘について聞かせろ。あの娘は声が出ないといったな。確かこの近くに村があったな、娘はその村の住人か?』
『なっ、なんでセトゥナのことを知りたがるんですか』
『質問に答えろ、平民。無礼の数々、見逃してやっている恩を忘れるな』

青年が、腰の剣に手を掛けた。

見たこともない豪華な装飾の柄と、漆黒の鞘に彫られた模様は見事としか言いようがない。
装飾品と言っても過言ではない見事な細工の剣だというのに、使い込んでいるのだろう、彼の手には馴染んで見えた。

自分が斬られるのかと一瞬は思ったクモークも、促されるように剣の柄に目を向けた次の瞬間には息を呑んだ。
その顔がみるみると青褪めていく様を見ると、青年は騎獣の手綱を取る。

『あの娘について話せ』
『か、彼女は……一月程前から村に身を寄せて、います。あの、彼女が何かしたのでしょうか?とてもそのような娘では――』
『そのような類のことではない』
『では、何処かのご令嬢ですか?』

来たばかりの頃は、洗濯もまともに出来ない娘で、スーに一から十まで教わっていた。
そのせいか、村にはそのような噂も流れている。

『あの娘が気になるか?』
『当然です!』

クモークは二、三回、口をまごつかせると、頬を染めて俯く。

『彼女は、私の妻ですから』
『妻?……くっ、ははははは』

いぶかしむようにクモークを見た青年は、堰を切ったように笑い始める。
クモークは顔を真っ赤に染め上げ、『何がおかしいんですか!』と、怒鳴り返した。

『どういう経緯で婚姻を結んだかは知らんが、その様子では関係も浅いな。あの娘は本当にお前を夫と思っているのか?』
『え?なっ、もちろんです!ちゃんと頷いてくれました!』
『ひとついいことを教えてやろう。あの娘は、我々が使う言葉を理解していない可能性がある』
『は?』

クモークにとっては思いがけない言葉に、理解出来ないかのような面持ちで眉を顰める。

『あれはウィンブルが連れて来た娘かも知れんぞ、別の世界からな』
『ウィンブルが……セトゥナを?じゃあ、セトゥナは――…』

こぼれんばかりに、瞳が見開かれてゆく。
よろめくように微かに地面を離れた足が辛うじて地面を踏んだ。

クモークは拳を握り締め、怒りを込めて青年を睨み上げる。

『嘘だ!でたらめを言わないでくれ!』

声を荒げ、クモークはウィンブルが走り去った方へと走り出した。

青年は騎獣の手綱を引き寄せながら、くつくつと肩を揺らす。

その瞳を真っ直ぐ森の奥へと向けたまま、青年は騎獣の背に跨り、騎獣に合図を送る。
主人の合図に、騎獣は爬虫類のような大きな瞳で獲物を見据え、大地を弾くように蹴り走りだした。

そのまま走り去っていく人影を見送ると、木の陰に隠れるもうひとつの人影が人知れず、静かに森に消えた。



「っ!」

芝生の上に投げ出され、紅葉はうずくまった。

ウィンブルが唸りながら、一歩、足を踏み出す。
紅葉はウィンブルに振り返り、スカートを握った。

『「僕は……」』
「!」

獣が、何の違和感もなく人の言葉を話す。

驚いた紅葉だが、この不思議な世界で今更、これ以上何を驚くというのか……。
獣が人語を話すことなど、とるに足らないことだと自分に言い聞かせた。

「……」

紅葉はウィンブルに向けて右手と共に身を乗り出す。

良く見ると大きな鼻や髭は黒に近い茶をしている。
毛艶も良く、何処か若い印象を受けた。

(喋る事が出来ないって、不便……)

紅葉の右手が、ウィンブルに触れる直前で動きを止める。
そしてそっと、毛並みの流れに沿うように美しい毛並みを撫で付けた。

『モミジ……』

明瞭な口調だが、やはり何処か幼さを感じる。
不安気な声と瞳が、獣から敵意を感じさせない。

紅葉は目を細め、穏やかに、声がないまま笑う。

するとウィンブルは許しを請うように頭をたれ、静かに告白を始めた。

『「モミジ、君の"言葉"を貰ったのは僕だ。でも違うんだ、僕は君の敵じゃない。むしろあの人間が君を利用しようとしているんだ……信じて」』

目を瞬かせながら、紅葉はウィンブルの瞳を見上げた。

透けるような、美しく澄んだ紫水晶の瞳だ。
その瞳が縋るようであり、今にも泣き出しそうに弱々しい。

紅葉はもう片方の手を伸ばし、ウィンブルの大きな顔を両手で包み込むと、家で飼っていた犬にするように、もみくちゃにして笑みを浮かべる。
ウィンブルはばつの悪そうな顔をすると、紅葉の頬を舐めて甘えるように擦り寄った。

すると、遠くからクモークの自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
紅葉が立ち上がると、ウィンブルも立ち上がり、紅葉を包むように尾を絡めた。

『「僕の名は、ホルツ。覚えておいて」』

まるで甘えるように上目使いに見上げてくる。
紅葉がこくりと頷き返すと、ホルツは軽やかに木へと跳び移り、森の奥へと姿を消した。

「……」

小鳥のさえずりが再び耳に届いてきた。
さわさわと木々が揺れる。

紅葉は暫しホルツが消えたほうを見詰めていたが、立ち上がるとスカートの草を払った。

返事代わりに服に留めておいた鈴を鳴らすと、クモークの声が止む。

再び鳴らしながら、声のした方へと向かおうとした矢先、木々の間から鱗に覆われた体が飛び出した。
勢いの付いた騎獣の手綱を絞った青年と目が合う。

『「捜したぞ」』
「……」
『「ウィンブルは何処に行った」』

驚いて硬直していた紅葉は、思い出したように首を横に振る。
青年は一帯に視線を走らせ、小さく鼻を鳴らした。

『逃げたか。「そなたは、地球という場所から来た娘か?」』
「!」

紅葉は目を見開きながら、青年の顔をまじまじと見上げる。
青年は騎獣を降り、まるで紅葉を安心させるかのように穏やかな声音で続けた。

『「突然見知らぬ世界に連れられ、さぞかし心細い思いをしただろう。私がそなたの助けとなろう」』

言葉を返したくても、声が出ない。
紅葉は喉を押さえ、声が出ないのだと青年に訴える。

すると青年は少しの間考え込み、再び口を開いた。

『「そなた、声が出ぬそうだが、それは以前からか?」』

紅葉は視線を俯かせ、ゆっくりと首を横に振る。

『「それはウィンブル――先程の獣の仕業だ。あの獣は一生に一度地球に渡り、そなたのような娘と契約を結び連れ帰る。契約は、相手と何かを交換することで成立するとされている」』
「?」

困惑した面持ちで、紅葉は青年の顔を見上げた。

言葉が理解出来ないわけではない。
少々古い物言いではあるが、青年の話す言葉は十分に紅葉に通じている。
ただ、その内容を理解するには、紅葉の世界の常識が邪魔をする。

『「そなたは恐らく、声を奪われたのだろう。それと交換に、今まで持ち合わせていなかった何かの力を感じていないか?例えば……」』

青年は試すように紅葉を見下ろしていた。
紅葉は相手の言葉を聞き逃さぬよう、瞬きも忘れて青年を見上げる。

『「未来や過去が見える、あるいは口にした言葉が現実に起こる……」』
「……」

じっと……紅葉を見詰める、聡明そうな切れ長の瞳。
ひとつに束ねられた髪は孔雀のような青藍色で、翠色の鮮やかな光沢を放っている。

紅葉の中で天秤が揺れた。

母国語を喋る高貴な装いの青年と、人語を喋る獣。
どちらかを信じろというならば、青年を信じるべきだろう。

紅葉も青年の瞳を見詰め返し、数秒後、目を逸らすように俯き、首を横に振った。

『「そんなはずはあるまい。そなたは地球という地から来たのだろう?」』

紅葉は首を横に振る。
青年が眉を顰めた。

『「なら何故、今私が使っている言葉を理解できる。これはそなたの母国語だろう?」』

再び、首を横に振る。

『「……そなた、ウィンブルを庇っているのか?あの獣に何を言われた?そなたは騙されているのだ、人よりも獣を信じるか」』
「……」

怒りを抑える青年から、紅葉は胸の前で祈るように手を握り締めたまま、無言で返した。
その態度が気に入らなかったのか、青年が紅葉の手を掴む。

『もう良い。そなたの髪の色を見れば、ウィンブルが連れ帰った娘か分かる!』
「?」

手が、髪と首を覆うタナムを掴もうとした。
紅葉は相手が再び知らない言葉で喋り始めたことに恐怖を覚え、相手の手から逃れようと抵抗する。

鈴が揺れ、激しく音を立てた。
その音が近付く足音を消す。

『セトゥナ!』
「!」

やっと辿り着いたクモークの声に、青年の手が緩む。
紅葉はその手を振り払い、クモークへと駆け寄った。

『何をなさるのですか!彼女は、彼女は――私の妻だと申し上げたはずです!』
『その娘の髪の色を見ようとしただけだ。そなたも、その娘がウィンブルと契約を交わした娘か確かめたいだろう?』
『ならばやっぱり、彼女は違います!以前見ましたが、彼女の髪の色は黒ではありません。私と同じ亜麻色です』
『……いいだろう。でまかせであれば、そなたの命はないと思え』
『っ――!』

クモークが唇を噛み、青年を睨み返す。

紅葉はクモークと青年の顔を交互に見やり、クモークの袖を引く。
するとクモークはゆっくりと紅葉へと振り返った。

『紅葉、君の為にもはっきりさせて、帰って頂こう……タナムを外してくれ』
「?」
『貸して』

クモークの手が、遠慮がちに頬の横に滑り込んでくる。

紅葉はクモークが何をしたいのかを理解すると、タナムを軽く捲り上げた。
髪を包むタナムの下から、亜麻色の髪が姿を現す。

途端にクモークの顔に安堵が浮かび、声が力強いものとなる。

『ご覧ください!彼女の髪は黒ではありません!』
『……』

クモークは喜びの表情を浮かべながら早口にまくし立て、青年へと振り返る。
青年は逆に、面白くなさそうに不機嫌な顔を浮かべると、舌打ちを漏らしながら騎獣に跨った。

『邪魔をした。黒髪の娘を見付けたら、すぐにファーテルに知らせをよこせ。俺は暫くそこに滞在する予定だ』

そう言い残すなり、青年を乗せた騎獣は地面を蹴り、軽やかに草木を飛び越えて走り去っていく。

村とは逆の方向へと消えていく青年を、クモークは最後まで警戒するように睨み付けたまま、動こうとしなかった。
紅葉がクモークの袖を引くと、クモークが複雑そうな顔で紅葉へと振り返る。

『誤解は解けたようだ、もう大丈夫』
「?」

クモークは紅葉のタナムに付いた草を払いながら、小さく呟いた。
安心させるように浮かべられた笑みは儚く、何処か余所余所しさを感じさせる。

『帰ろう。スーじいさんが心配しちゃうもんな』
「……」

こくりと、紅葉はいつものように頷き返した。
それでも心の中では、突然ではあったものの、開き掛けた道を自分から閉ざしてしまったことに対する後悔が拭えない。

そんな紅葉の横顔を、クモークは窺うように密やかに見詰めていた。

じっと、何かを言いたげに。
ただただじっと、何処までも不安そうに……。





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