11
エドゥとナーガラージャは緩慢な動きで腕を上げ、互いに掌を向けた。
ナーガラージャの周囲に浮いていた水が、吸い寄せられるように彼の掌の前に集い、大きな水の塊となっていく。
水の塊は両腕を広げた程の大きさになり、やっと動きを止めた。
(え?ナーガって、あたしと一階級しか違わなかったわよね?)
カーラはその光景を、信じられない思いで見ていた。
(それで、こんなに差があるの?)
カーラ自身、真剣に自分の力を向き合ったことはない。
だがそれでも、ある程度の使い方と限界は知っているつもりだ。
カーラが全力で風を集めても、恐らく彼が集めた力の半分ほどだろう。
だが、ナーガラージャから視線をずらしたカーラは、思わず目を見開く。
エドゥの周囲からオレンジ色の粒子がキラキラと舞いあがっている。
粒子は帯を成し、まるでオーラのようにひらひらと空に向けてなびく。
(きれい。でも何、この量……)
底を知らない様にエドゥから溢れ出るオレンジの粒子。
人により色は違えど、それが使徒にしか見えない、使徒の力であることをカーラは知っている。
エドゥの力が訓練室に広がっていく。
エドゥの掌の前に、ビリヤードの玉程の大きさをした火の玉がぷくぷくと浮かび始める。
それはもの凄いスピードで増殖を始め、建物の中にまき散らされてゆく。
オレンジ色の炎は美しいが、数が数だけに美しいとは思えない、カーラにはどちらかと言えばおぞましい類の光景に感じた。
「はぁ」と、隣で誰かが息を吐く。
息苦しい熱気に、じわりと汗が滲み出ていた。
涼しい顔をしているのはエドゥだけで、相対するナーガラージャはただ立っているだけで消耗しているように思える程に汗の量が凄い。
エドゥが炎ごと掌に握り込むと、指の間から炎が漏れ、黒い炎が鮮やかな赤へ、そしてオレンジに、そして次第に色が抜けていく。
その過程で、まるで急ブレーキを掛けるように炎は色を取り戻し、鮮やかなオレンジ色で色を止めた。
エドゥがナーガラージャを促す。
ナーガラージャは流れ落ちる汗をそでで拭い、エドゥに向けて水の塊をぶつけた。
水は意志を持ったように、空気中を駆ける。
だがその水の塊は、エドゥの数十メートル程手前で消えた。
まるで壁に衝突したかのようだ。
水がぼこぼこと沸騰を初め、次の瞬間には白い蒸気となって消える。
それはあまりにもあっさりと、容易く。
「ナーガラージャ、それで全力か!」
「全力ですよ!」
「くっ」と喉を鳴らすナーガラージャに、ロマノフの喝が飛ぶ。
ナーガラージャが、苛立ったように返した。
エドゥとナーガラージャは距離を置いて立っているが、水が消えたのはエドゥとナーガラージャの中間距離から、さらにナーガラージャ側に半分寄った位置。
(エドゥの力の範囲があんなに広いってこと?)
暑さのせいか、カーラの頬を汗が伝い落ちた。
「うわー……。エドゥには悪いけど、エドゥの相手はあんまりしたくないよ」
マルスが手で顔を仰ぎながら、困り顔で呟く。
「あれでも全然全力じゃないんだよ、信じられる?」
カーラは思わず、「え?」と声を漏らしてマルスを見上げた。
マルツィオが小さく苦笑を浮かべる。
「エドゥが全力を出すことは難しいんだって」
「?」
マルツィオの言葉に、カーラはマルツィオへと視線を動かした。
「全力を出せば実害が多過ぎるからなー……訓練室なんてあっという間に吹き飛ぶだろうし、ここにいる俺達なんて一瞬で骨まで消し飛ぶだろうし」
「まあお城ももちろん駄目だよね。この島小さいから全焼かな?海の水も広範囲で蒸発しちゃいそうだね。あ、その前に水蒸気爆発とか凄そう……っていうか、僕達死んじゃう?」
指を折りながら、マルスとマルツィオが想像を繰り広げている。
カーラはエドゥへと視線を戻した。
短い時間で理解したエドゥという人物は、誰に対しても構えない、気さくで面白い人だということ。
だからといって何も見ていないわけでもなく、その目は常に周囲を見渡し、さりげなく仲間達をフォローしている。
実際、マルツィオに腹を立てていたカーラも、エドゥのせいでマルツィオの顔を見るとつい笑ってしまい、怒っていたことすら曖昧になってしまっていた。
(エドゥは、ここに必要な人ね)
仲間を纏めるという意味では、ファーヴニルよりも断然適任だ。
周囲もエドゥのさりげないフォローを理解している。
だが、周囲はいささかエドゥに頼り過ぎている気もした。
(エドゥが、頼れる相手はいるのかしら……)
それこそ、カーラにとっては関係のない話だ。
余計なことを考えている間にも、ナーガラージャとエドゥの力比べは続いている。
だが、開始した当初よりも明らかに、ナーガラージャがエドゥにぶつける水の塊が小さくなっていっていた。
原因は明らかで、エドゥの火の力が訓練室を満たし、ナーガラージャが操る為に必要な水分が大気中から消失してしまっているからだ。
室内の空気がひどく乾燥しており、ちょっとした静電気でも発火する、非常に危険な状態と言っていいだろう。
ついには、ナーガラージャが膝に手を付き限界を訴えた。
辛うじて立っているのは明らかだが、それでも立っているのは彼の意地だろ。
ナーガラージャの足元には、水たまりのように汗が滴り落ちている。
目がうつろで、呼吸が荒い。
だが、エドゥは開始した時と何一つ変わらない。
オレンジ色の淡い燐光に囲まれて、無表情に立つエドゥ。
指先すら動かさずに、疲労困憊するナーガラージャを見やる彼は、使徒の中にいても異質だった。
(エドゥには悪いけど、少し、怖い……)
セラフィムの彼を前にして、人間が使徒を恐れる感情に初めて共感した。
室内は異常なほどに熱いというのに、カーラは背筋が嘘寒くなる。
無意識に腕を摩った。
そんなカーラを、マルスは目を瞬かせて見ていた。
元の訓練室に戻ると、ロマノフは開口一番に告げた。
「貴様は一兵士としても使徒としても弱い!」
「……」
「だが案ずるな。我々も下級クラスには期待していない、特に貴様にはな」
カーラはムッとして、視線をロマノフに向けた。
確かに、片鱗ではあるものの、エドゥの力を見せつけられれば自分など赤子同然なことは分かる。
だからといって、その言い草には腹が立つ。
その態度を見ながら、ロマノフは嘲笑うように口角を上げた。
「なんだ、その目は。貴様の仕事は子供を産むことだろう?わざわざ訓練つけてやる意味もない――と言いたいところだが」
最初はムッとした程度だった怒りが、一瞬にしてメータを振り切る。
反論してやりたいところだが、視界の端でおろおろとしているマルツィオが、ロマノフに向けられる怒りをマルツィオに対する苛々に分散させていた。
スターリンが横目でちらりとロマノフを見やり、小さく苦笑を浮かべる。
「有事に備え、念の為、自分の身くらいは守れる程度の護身術は身につけて貰うぞ」
「はいはい。と、いうわけですよ。まあ、教官は人間ですから、彼が教えられるのはあくまでも武器の扱いや体術ですけど、基本は大事ですよ」
スターリンは両手を広げ、朗らかに口添えした。
彼の細く長い指が、自分のこめかみを軽く叩いて示す。
「ご存じかもしれませんが、使徒の力を最大限に生かすのはイメージです。カーラ、君は風を操る使徒ですね?その力をより自在に、精度高く扱えるようになるのはもちろん必要です。けれど君の能力値で、確実にダメージを与えるならば近距離戦に持ち込むしかない」
なめらかな口調で喋り始めるスターリン。
まるで参考書を読み上げているかのようだ。
「いくら巧妙に力を操れるようになっても、近距離戦でそれを活かすのは体です。そこでやはり体術が必要になってくるんですよ。というわけで、頑張ってくださいね」
最後ににこりと微笑み、話は終わる。
そしてその日はそのまま、解散となった。
廊下に出ると、首にタオルを巻いてベンチで水分補給をしているナーガラージャと、その隣で手持無沙汰に佇むマルスがカーラ達を待っていた。
マルスはカーラとマルツィオが出てくると、すぐさま歩み寄ってくる。
先程の訓練室はまだ使用中のランプが点灯しており、エドゥが使っているという。
当然ながら、ゲーゲンハルトの姿はすでになかった。
「終わった?」
「ええ。ナーガは大丈夫なの?」
見るからに疲労が濃い。
項垂れているナーガラージャは顔を上げ、苦笑を浮かべた。
「平気。で、参考になった?」
「え、ええ」
圧倒的なエドゥの力を思い出し、カーラは少し返事に詰まった。
何を学んだかと言われれば、圧倒的な力の差。
自分が力の弱い使徒ということは理解していたし、誰かと張り合いたいと思っていたわけでもないが、ここまでの差があることはショックだった。
自分がいかに人間に近いかを思い知り、本当の使徒というものを知った気がする。
だがすぐさま、ロマノフの無礼な物言いの数々を思い出し、カーラは両拳を握り締めながら、決意を胸にキッとナーガラージャを見やる。
「あたし、絶対強くなって見返してやるわ!」
「え?エドゥを?」
「ち、違う。あの教官よ」
「なんだ、そっか。はは、その意気」
ナーガラージャとマルスが笑った。
マルツィオも笑っている。
こうしていると本当に、彼等の輪に入り込んだようだ。
嫌な感じはしない――などと思い始めている自分に、カーラは気付き始めていた。
訓練室の小窓から、外で足を止めていたカーラ達が去っていく姿が見えた。
スターリンは横目でその光景を見送ると、そのままロマノフに視線のみを流し、口元に弧を描く。
「いやはや、あなたはいつもいい仕事をしてくださる。彼女もやる気を出してくれたようで何よりですよ、人を乗せるのが本当にお上手だ」
「どうせならば、結果を出してから評価をして頂きたいものです」
淡々と返すロマノフに、スターリンは思わず「ふっ」と声を漏らして笑う。
「これはあなたの天職なのでしょう」
「さあ、どうでしょう。私はただ与えられた職務を全うしているだけですが」
「またまた、ご謙遜を。才能があって、その才能をフルに活かせる」
胡散臭く笑うスターリンの視線が、訓練中のランプが灯る第二訓練室へと向けられる。
振動が、自分達のいる第一訓練室まで伝わり、小窓がガタガタと震えていた。
「……中には、そんなあなたを羨む者もいるでしょうな」
細い瞳を一層細め、スターリンは鬱蒼と微笑んだ。
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