35
「それでは、私はそろそろ参りますね」
「……うん」
柚はシェリーと向かい合うように立ち、寂しさが漂う声音で頷き返す。
たった一週間を共に過ごしただけだというのに、寂しさに胸が締め付けられた。
柚は、今にも泣き出しそうな自分を叱咤する。
シェリーが泣いたら、間違いなく自分も泣いてしまう。
「柚さん、一週間有難う御座いました」
「お礼をいうのは私の方だよ、シェリー」
シェリーが荷物を置き、柚に手を伸ばした。
それに応えるように、柚はシェリーと抱擁を交わす。
「また、会いましょう」
「シェリー……」
「さよなら」とは言わず、シェリーは車に乗り込んだ。
車の中から手を振るシェリーを乗せ、車はゲートに向けて走り出した。
小さくなる車を見詰め、柚は歩き出し、空へと踏み出す。
走り出した車の中で、シェリーは溢れ出した涙を掌で拭った。
拭っても拭っても溢れ出す涙に、ついには声をあげて泣き出す。
車を運転するアース・ピースの一般兵部隊に所属するキース・ブライアンは、バックミラーから少女を見やり、僅かに目を伏せた。
柚は顔見知りだ。
そもそものきっかけは、自分がアダムに体を乗っ取られたことがあるからだが、警護の当番でエントランスに立っていると柚の方から声を掛けてくる。
彼女が好かれていると、自分のことのように誇らしく思えた。
彼女の為に泣いてくれるシェリーに感謝を覚える。
一度伏せた視線を起こしたキースは、晴天にも関わらず、フロントガラスに降り注ぐ水飛沫に目を瞬かせた。
ワイパーで水を拭い、その先に現れた光景にキースは思わず声を上げる。
「グラゴールさん!」
シェリーが顔を上げ、後部座席の窓から身を乗り出す。
一瞬言葉を無くすほどに……
空できらきらと輝く、鮮やかな七色の色彩
「大きな、虹……」
まるで柚とシェリーの流した涙が掛けたかのようだ。
アンジェは、いつまでもゲートのある方を眺めている柚の手を握り、問いかけた。
「寂しい?」
「うん、寂しい……」
柚は静かに頷き、双子の手を握る手に力を込める。
膝を折り、柚は二人の体を抱き寄せた。
「でもね」と、穏やかで優しい声音が響く。
「寂しいだけじゃないんだ……」
涙に濡れた頬が頬に触れると、ライラは少しだけ冷たさを感じた。
だが、声は心地よいほどに柔らかに響く。
もう少しだけ……
柚の気が済むまで、こうしていようと思った。
茜色の空が頬を照らす。
穏やかな風が髪を優しく撫でていった。
留まることを知らずに離れていく風は、人の出会いと別れのようだ。
「宮」
「相澤……」
切り株のベンチに腰を下ろす柚は、声を掛けられてゆっくりと振り返った。
近付くことを躊躇うように、慎也は数歩分の間を置いて足を止める。
柚は首を傾け、苦笑を浮かべた。
「仕事いいのか?」
「ああ、今日は一人じゃないんだ」
「へぇ」
「実は先輩が予定より早く復帰してさ、明日から俺はお役御免なんだ」
茜色に染まる瞳が驚きを浮かべる。
柚が視線を落とすと、風が沈黙を繋ぐように柔らかに髪を撫でていく。
柚はゆっくりと立ち上がり、慎也と向かい合った。
「そっか、あっけないな」
「……ああ」
頭を掻き、慎也は苦笑と共に頷く。
その視線が彷徨い、地面へと落ちた。
意を決するように手を握り締め、言葉を紡ぐ。
「この間はごめん。俺が気持ちを伝えたところで、宮に何かをしてやれるわけでもないし、困らせるだけだって分かってたんだ……」
「私の方こそごめん。本当は、あんな使徒とか言うつもりはなかったんだ。驚かせたな」
苦笑を浮べ、慎也を見上げて苦笑を浮かべた。
「でも、相澤の気持ちは嬉しかったよ……有難う」
「ごめんね」ではなく、「ありがとう」と――柚は微笑む。
慎也は、儚くも穏やかに微笑み返した。
その顔が妙に大人びて映り、柚は目を細める。
「そういえば、シェリーが相澤に会ってみたいって言ってたぞ」
「え?宮お墨付きの美少女が?俺なんかに?」
「なんで赤くなるんだよ、そういう意味で会いたいって言ったんじゃないぞ、シェリーは」
「あ、赤くなんてなってないぞ!」
にやにやと笑いながら肘で小突く柚に、口を尖らせた慎也は誤魔化すように慌てて顔を逸らした。
お互い、夕焼けに染められた頬は赤いかどうかなど、分りはしない。
二人は顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。
「すげぇ綺麗な顔した人に、本当に好きなら連れ去れって言われたんだ」
「え?誰だ、そんな無責任なこと言う奴は」
腕を組み、柚が首を捻る。
「俺さ、宮の事好きだけど、そんな度胸はないんだ。あの時デーヴァ元帥に睨まれて、すげぇビビってた」
「そりゃあ、あの時のアスラは私も恐いと思ったもん」
「へぇ、宮でも恐いと思うんだ」
「当たり前だろ、か弱い私は常にビクビクだぞ」
「嘘付け!」
慎也は、少年のように笑う。
共に笑いながら、柚はふと寂しさに襲われ……だからこそ、無理に笑い続けた。
「でも思ったんだ。デーヴァ元帥は本当に宮の事好きなんだなって」
「え?うーん……それは、どうなんだろうな。あいつの好きは、お気に入りの部類なんじゃないかな」
柚が視線を落とし、芝生を軽く蹴る。
「それは違う」と、穏やかながらも芯の強いはっきりとした否定の言葉が降った。
柚は顔をあげ、慎也を見上げる。
「あの人……宮の事を見てる時は、いつも優しかったぜ」
「え?」
「だから、好きって気持ち、信じてやれよ」
手が、ぽんっと頭を撫でた。
まるで子供扱いをされている気分になり、柚はむっと口を尖らせる。
手を退けて顔を上げると、慎也は笑っていた。
文句を言いたい気持ちを吹き飛ばすような清々しい笑み。
柚ははにかんだ笑みを返す。
「……うん、わかった」
穏やかな声音が、森に吸い込まれる。
またひとつ、別れが訪れた。
胸にぽっかりと開いた穴を、冷たい風がくすぐる。
「なんだか、寂しいこと続きだな」
「僕達がいるじゃありませんか」
食後の遊戯室での一時、溜め息と共に呟く柚にフランツが苦笑を浮かべた。
頬杖を付いていた柚はフランツを見上げ、こそばゆいとばかりの面持ちで「うん」と頷き返す。
すると、無言で雑誌に視線を落としていた焔が、開け放たれたままのドアに視線を向けた。
開け放たれたままのドアを、アスラの手が軽くノックする。
「柚」
「あ……うん?」
立ち上がり、柚がアスラの傍に歩み寄った。
意外そうに、フランツが柚の姿を視線で追う。
いつもは、そこに座ったまま応対をしそうだが、自分からアスラの方に行くなど珍しい。
焔は二人から顔を背けるように、再び雑誌に視線を落とした。
「ずっと渡しそびれていたんだが、留守番をさせた時の土産だ」
「え?お土産?」
小さな箱が、掌にそっと乗せられる。
水色のリボンが掛けられた白い箱に、柚の視線が吸い寄せられた。
「行きたそうにしていたのでせめて土産をと思ったが、どうだろう?」
「開けていい?」
嬉しそうに目を輝かせる柚が、期待に満ちた眼差しでアスラを見上げる。
アスラは静かに頷いた。
柚は、壊れ物に触れるようにリボンを解いて蓋を開ける。
「女に物を贈ったことがないので母上に相談をしてみた。柚には食べ物の方が喜びそうだと伝えたが、母上が絶対にこれだと仰ったので、今回はそれにしてみたのだが……」
「え゛?」
箱を開けた柚は固まった。
中には、シルバーの指輪が輝いている。
現代に至っては大変貴重とされる天然の宝石があしらわれ、さんさんと輝いていた。
(ぉ、重い!これはお土産にしてはいろんな意味で重過ぎるぞ、アスラ!)
嫌な汗がだらだらと流れ落ちる。
そもそも、議事堂の土産売り場で買った物でなければ、土産とは言わないのではないか……と、喉まで出掛かったが、柚は寸前で呑み込んだ。
「気に入らないか?やはり、食べ物の方がよかったか?」
無言の柚に、アスラが首を傾ける。
まるでいつも食い意地を張っているかのような見解を何とかして欲しい。
柚は引き攣り気味の顔に、慌てたように笑顔を浮かべた。
「そ、そんなことはないけど、こんな高そうな物を貰っちゃって、い、いいのかな?」
「高いのか?」
「いや、私は知らない」
「そうか。母上に選んで貰ったものなので、俺も知らん」
二人のやりとりを見守るフランツが、「元帥……」と、げんなりした面持ちで呟きを漏らす。
不機嫌な面持ちの焔が、「マザコンが」と吐き捨てた。
柚は、慎重に蓋を閉め、引き攣った笑顔のままアスラを見上げる。
「とりあえず、あ、有難う」
「ああ」
お礼を言う柚に、アスラは安堵したように頷いて返した。
慎也の言葉が何度も脳裏を過ぎり、つい意識してしまう。
アスラを見上げていた柚は、頬を染めながら俯く。
すると、そんな柚を観察するようにじっと見詰めていたアスラが、柚に事務的に問い掛けた。
「それで、どうだ?」
「え?」
「惚れたか?」
「はァ?」
顔をあげた柚が眉を顰める。
目の前に立つアスラをいぶかしむように見上げる柚に、アスラは小さく「駄目か」という呟き、不機嫌にため息を漏らす。
「本には、女は贈り物に弱いと書いてあったが……愛されるようになるというのは難しいものだな」
「……アスラ」
柚が項垂れてアスラの名を呼ぶ。
「どうすれば、お前は俺を愛するようになるんだ?」
突然の問い掛けに、柚は目を瞬かせてアスラを見上げた。
途端にあたふたとうろたえ始めた柚は、上擦った声をあげる。
「そっ、そんなこと、いきなり聞かれても!」
赤くなりながら声を荒げる柚の反応に、アスラからは無表情ながらも不服さが漂ってきた。
「それとも、まだ愛情表現が足りないのか……」
「ちょっ!顔を近付けるな!わかった、分かったからちょっと待て!話し合おう!」
顔を近付けてくるアスラを押し返しながら、柚は焦りの声を上げる。
アスラが大人しく従うと、柚がどっとため息を漏らした。
ソファーから身を乗り出し、そろそろ止めるべきかとはらはらしながら見守っていたフランツは、怒らない柚に目を瞬かせる。
「えーっと、その。私を、その、す、好き……って言うのは……」
「例えお前にどう否定されようと、この感情はお前にしか抱いていない。よく考えた上での結論だ」
大きな掌が、慈しむように頬に触れた。
いつもそうだ……最近のアスラは、壊れ物に触れるようにそっと触れてくる。
一瞬にして柚の頬が赤く染まり、視線が逃げるようにアスラから逸らされた。
「言葉にし難いが、不思議なものだ……」
ちらりと盗み見た先で、微笑んでいるアスラがいる。
柚は唇を引き結び、再び俯いた。
その顔は反則だと、心の中で悲鳴を上げる。
今にも頭がショートしてしまいそうだ。
まるでアスラが自分を想う気持ちが流れ込んでくるかのようで、心がはち切れそうになる。
頬に触れるアスラの手にそっと触れ、やんわりと遠ざけた。
「あの……うん、えっと、わかった」
自分らしくない声だと思うと、ますます恥ずかしさが増す。
きっと目も当てられないほどに顔が赤いだろう。
「本気でそう想ってくれるなら、こういう時どう返せばいいか分からないけど……でも、嬉しい、と思う」
呟くように、「有難う」と告げる。
声は、微かに震えていた。
気恥ずかしくて、顔をあげることが出来ない。
心臓は、緩やかながら大きな鼓動を繰り返していた。
「とりあえず、アスラの気持ちは分かった」
「そうか」と、呟きのような相槌が返る。
その声は何処までも平素通りの抑揚のない声だが、やはり今の柚にはアスラの顔を見る勇気がなかった。
「だから私も……真剣に向き合ってみることにする。私が、アスラの気持ちに答えを見付ける時間が欲しい」
「それは、どれくらいだ?」
「うっ……それは、はっきりとした事は言えないけど。そ、それに、もしかしたら、アスラじゃない人を好きになっちゃうかもしれない」
もごもごと、柚が言葉を濁す。
すると、アスラはきっぱりと告げた。
「それは嫌だ」
柚が、深く俯いたまま「うっ」と呟きを漏らす。
言葉に詰まる柚に、アスラは静かに呟いた。
「困らせたいわけではない」
「……うん」
「だが、お前を誰かに取られるのも嫌だ」
「う?う……ん」
壁に押し付けるようにして、顔を近付けてくる。
頬を隠す髪の指を通して耳に掛けると、柚の視線が動揺して泳ぐ。
照れる顔が愛らしいと思った。
その瞳が、永遠に自分だけを映せばいい。
自分の名を呼び、手を握り、背に腕を回し、互いの鼓動と体温を感じ、"愛している"と囁いてくれれば、どんなに幸せだろうか。
だが今は、彼女がいるだけでも幸せだと感じた。
本の中の恋愛は、決まって単純な程に二人が惹かれ合い、互いを好きになる。
恋愛とは単調なものだと思っていたが、現実の世界にその保障は何処にもないのだ。
「俺のものにするよう努力する」
「ぅ……ア、アスラ!」
羞恥の限界に達した柚がアスラの胸を押し返すと、アスラは不服そうな顔をする。
「キスくらいいいだろう」
「だっ、駄目!」
「っ――いい加減にしろ!」
雑誌をテーブルに叩き付け、焔がソファーから勢い良く立ちあがった。
フランツがびくりと飛び上がり、焔を見上げる。
焔はずかずかと二人に歩み寄り、アスラを睨み付けた。
「胸糞悪ぃ。いちゃつくなら人目のない場所でやれ。ところ構わず盛ってんじゃねぇよ」
「なっ!そんなんじゃ――」
柚が真っ赤になって怒鳴り返す。
焔は不愉快そうに「ふんっ」と鼻を鳴らし、二人の横を通り過ぎて行く。
フランツは目を覆いたくなったが、代わりにため息を漏らした。
目の前で去っていく焔に向けて文句を言っている柚を他所に、アスラは焔の背を無言で見やる。
その瞳が、静かに細められた。
ドアが開く間も惜しむように、焔は自室に滑り込んだ。
胸の奥から、不快な感情が込み上げてくる。
苛立ちに唇を噛み締めた。
アスラの柚に対する態度も、いつものように怒らない柚の態度も、こんなことで苛立ち、二人に当たった自分も……
何もかもが気に入らない。
閉ざした部屋のドアに拳を叩き付けると、痺れが電流のように腕を伝う。
"どうか、後悔をなさいませんように……"
苛立ちをぶつけるように、足元に転がっている空のペットボトルを蹴り付けた。
(関係ない、俺は……)
ギリリと、噛み締めた奥歯が鳴る。
闇夜よりもさらに漆黒の瞳が瞼に呑み込まれた。
胎動が鳴り響くかのように……
風が窓を叩く。
手首に巻いた赤いリボンが、穏やかな風にそよいでいた。
ハーデスは嬉しそうに何度もその様に視線を落とし、腕を上げ、角度を変えては口元に笑みを乗せる。
微かに、ゆずの実の残り香がした。
いつもの屋上からいつものように、真っ暗な森を眺める。
「柚……」
呪文のようにその名を呟くと、胸が温かくなった。
変わらない風景
広大な闇夜に瞬く月と星々
だが、はっきりと……
何かが変わり始めていた。
視界を霞ませるほどに香がたぎる。
岩をくりぬいた一室の床榻の上で、優美な手が林檎を取り上げ……
血のように赤い瞳と唇が、秀麗で妖艶な弧を描く。
「かつて、蛇に唆されたイブは禁じられた善悪の知識の実を食べ……アダムにもそれを勧めたという」
深く項垂れる赤髪の青年の隣で、かしずいていた少年がゆっくりと顔を上げた。
壊れた面を外せば、中から穢れのないアメジストのような瞳が姿を現す。
放たれたダーツの矢が林檎を貫いた。
矢を伝い、透明の雫がぽとりと床に落ちる。
スーツ姿の男の細手は林檎からダーツの矢を抜き取り、高層ビルから人々が暮らす町並みを見下ろした。
「神は怒り、我等が人類の始祖はエデンの園を追われることとなる」
始祖をエデンの園から追い出したのみならず、使徒などという新たな人類を創造した。
間違ったのは――"神"
冷たい海のような双眸が、閉ざされた瞼の下に鳴りを顰めた。
「はてさて……」
黄の指が林檎を軽く弾く。
机の上を、熟れた林檎の果実が転がっていった。
「柚の与えた果実は――」
――使徒の未来に、何をもたらす?
目を細めると、目尻にくっきりと皺が浮かび上がる。
一度動き出せば、とどまることを知らない。
弾かれた林檎は机の上を転がり続け、狭い机の上での終着点へと辿り着いた。
机の端で落ちまいと揺れていた林檎が、ついには傾く。
真っ赤な果実が広い世界へと転がり落ちた。
―End & To be continued…―
予定より遅れたりしつつ、なんとか二部「盲目鬼ごっこ」完結致しました。
ここまで、お付き合い頂き有り難う御座いました。
相変わらず、毎日ドキヒヤしながら更新させて頂きましたが、お付き合いいただけたのみならず拍手やランキングにまでご協力下さった方々に多大な感謝の気持ちでいっぱいです。
MEMOの方でお話しましたが、二部はアスラが自分の気持ちに気付いたり、ストーリーとしては今後に繋がる布石にようなお話……のつもりでした。
途中柚のテンションの低さに引き摺られるかのように、なかなか話が思うように進まなかったりしましたが、書き足している内に一部を超える長さになってしまいました。
少しでも楽しんで頂けていれば幸いです。
三部は、今まで名前のみの登場だった"彼"と、エデン、そして焔等に触れていければと思います。
ではでは三部でまたお会いできれば嬉しいです。
最後まで、有難う御座いましたm(__)m
管理人/もも