何をやっているんだ俺は……と、自分に呆れていた。

いくら相手が女だとしても、ろくに知りもしない者のために、自分のことで精一杯の状況でこんなこと……
どうかしている。

焔は血を吐きながら、震える手で自分を貫く影を掴んだ。
情けないことに、痛みで手は震えている。

「く…そっ!」
「元気な子犬だ」

くすりと笑みを漏らしたアダムを視界から追い出し、焔は歯を食いしばって足を踏み出した。
突き刺さる影の針が肉に飲み込まれ、痛みが頭を突き抜けるようだ。

青褪める柚に向けて手を伸ばすと、柚が恐る恐るその手を握り返した。

先程まで助けを求めていたその顔は、今は血だらけの焔に青褪めている。
握った手が、お互い別の意味で震えていた。

焔は可笑しくなり、くつくつと肩を揺らす。
こんな状況で笑っているくらいだ、狂ってしまったのではないかと思えた。

「もういい、血……血が」
「てめえもっ……人の、心配する余裕、あんなら自分の――」

呼吸がこんなに苦痛に思えたのは初めてだ。
肺にチリチリとした痛みが走り、喉から空気が抜けるような音が飛び出す。

柚の手を握る焔の腕に影が絡みつく。
振り払おうとした腕に、鈍い音が響き渡った。

後はもう、ただ叫ぶ事しか出来ない。
意識が毟り取られるように途絶えていく。

目の前で、柚が自分の名を呼ぼうとして口篭る。
そう、お互い名前すら知らない。

本当に――愚かだ……

力が抜けてするりと離れていく焔の手に、柚は愕然とした。

血だ。
投げ出されるように地面に倒れこんだ焔の周囲に、血がじわりと広がり、その体を容赦なく雨が打つ。

"死"という単語が頭に浮んだ瞬間、離れなくなった。

妹を語る彼の横顔が脳裏を過ぎる。
責任と、何処となく後悔を感じさせる顔だった。

自分のせいで、人が死んでしまう――…

「ぁ…あぁ……」

頭を振ると、水がぽつぽつと滴る。
もはや、雨か涙か分らない。

柚は倒れた焔に身を乗り出そうとした。

体が重い。
影が縫い付けられているかのように、足が思うように動かない。

そこに行きたい。
彼に触れ、一刻も早く傷の手当てを……

どれほど強く思っても、体が動かない。
伸ばそうとする手に絡み付く影が、力を増すような気がした。

吸い込まれてしまいそうな、赤くて黒い血
雨が容赦なく焔を打つ。

せめて、雨が止めば……
雨はいつから降り出した?
何故雨が降っている?

誰が――…

ドクン……と、心臓が跳ね上がった。

手足が震える。
自分の中で、体力が急速に消耗されていっている。

何が起きているかなど、今更だ。
誰が降らせているかなど、確かめるまでもない。

途端に、恐怖が全身を包み込む。

こんなことが出来るなんて、尋常ではない。
これではまるで――まるで本当に、"使徒"

認めたくなかった、認める事が怖かった。

英雄ともてはやされる使徒
だが本当は、誰もが薄々と脅威を感じている筈だ。

人であり、人ならざる力を持つ者
今日、アスラの力を目の当たりにして、アダムを前にして、自分の力を前にして、強く思った。

――怖い…
人の命を容易く奪えてしまう"力"が、"使徒"が、恐ろしい。

柚は逃げるように叫んでいた。

その声に呼応するかのように、雨がひたりと止まる。
地響きが一瞬鳴り止み、先程とは比べ物にならない底から突き上げるような地震が走った。

柚を水が包み込み、影が内側から弾けとんだ。

アスラは柚に振り返り、小さく舌打ちを漏らす。
するりとアダムから手を放し、アスラはその場を飛び退いた。

地表を突き破った水が渦となり、アダムに喰らい付く。
抉れた地表を水が満たし、大地を侵食する。

アダムは風に乗るようにふわりと後ろに飛び退き、憂いに満ちた眼差しを向けた。

「エヴァ……」
「嫌われたな、アダム」

手を伸ばそうとしたアダムから柚を遮るように、イカロスが濡れた土を踏む。

「あぁ……まったく。皆、此処が公共施設だってこと忘れてないかい?」
「あの男を引き離す。それは任せた」

言うが早に、アスラがイカロスを追い越して足を踏み出した。

手を振り下ろす。
たったそれだけの動作で、地表を巨大な金槌で叩き付けるかのように、轟音と共に地面が抉り取られた。

水が視界を遮る中、くすくすと笑みを浮かべているアダムに、アスラが指を鳴らす。
巨大な円を描くようにアダムの足元が陥没しても、平然とした面持ちでアダムは薄い笑みを浮かべていた。

「嫌な感じだ」

二人の戦いをみて呟きながら、イカロスは焔の脈を確かめる。
コートを脱いで焔に掛けながら、携帯電話を取り出して誰かと話をすると、イカロスは座り込む柚を見下した。

溢れ出す力を抑えようと必死に唇を噛み、体を抱きこんでいる。

イカロスは目の前にしゃがむと、座り込む柚の肩を強引に掴み、引き寄せた。
柚が助けを求めるように、肩を掴むイカロスの腕を痛い程の力で掴む。

「……どうしてこんな――止め方、わからないっ……皆、死んじゃう」
「大丈夫。今そっちにいって、舵を取るから。力を抜いて、出来るだけ心を静めるんだ……そう、いい子だね」

震える手から少しずつ力が抜けていく。
イカロスは柚の頬に手を沿え、ゆっくりと瞳を合わせた。

「俺の目を見て、俺に全てを委ねて……」

互いの瞳と瞳を合わせ、イカロスの柚に呼吸を合わせる。
ふっ……と、イカロスの瞳が深みを増す。

イカロスの意識が溶け込むように柚の中に沈んだ。

(うっ……!)

柚の意識に降りたイカロスの口からごぽごぽと気泡が浮ぶ。
辺り一帯を水が覆い尽くし、奥底から次々と沸き起こる。

イカロスは、光が差す方に向けて泳ぎ始めた。
光に近付くにつれ、視界が晴れてくる。

光に向けて手を伸ばすと、その中央で柚がぐったりと倒れ込んでいた。

光の中に、水は存在していなかった。
柚が、水を拒絶しているからだ。

イカロスが声を掛けると、倒れ込む柚がゆっくりと瞼を起こす。

他者の侵入を拒みはせず、柚が寝返りを打つように手を伸ばしてくる。
イカロスはその手を掴み返し、柚を抱き起こした。

泣き出しそうな顔をした柚が、自分に向けて縋るように呟く。

「アイツ、死んじゃう……」
「大丈夫だよ、使徒は頑丈に出来ているから」
「でも、私のせいで――こんなことしてる場合じゃないんだ……それなのに止められない、怖いっ」

涙を流す心に、イカロスは小さく頷き返す。

「これは君の力だ、受け入れてごらん?」
「恐い……呑み込まれる」
「そうじゃない、受け入れればきっと分る。これは君の手足と同じ。人類が持たず使徒が持つ、もうひとつの目には見えない器官だ。君に危害なんて絶対に与えない」

イカロスの手に力が籠もる。
柚が、涙の滲む瞳にイカロスを映した。

新緑の瞳が、穏やかな弧を描く。
イカロスは躊躇いなく光の外に出ると、外から柚に向けて手を伸ばした。

「俺を信じて――…おいで」

柚の瞳がイカロスを映したまま、躊躇いながらも導かれるように手を伸ばし返す。
一瞬、その手が躊躇った。

柚は恐怖を振り払うようにぎゅっと瞼を閉ざす。
覚悟を経て、強い双瞳が現れた。

柚の手がイカロスの手を取る。
イカロスは、その手をそっと握り返した。

途端に光が消え、柚の体が水に呑み込まれる。
溺れそうになる柚を支えながら、イカロスは目を閉ざして息を止める柚の耳元でそっと囁いた。

「息をしてごらん?」
「……なんで、水の中なのに」

呼吸が出来る。

唖然とした面持ちで、柚が呟く。
イカロスは静かに一度、頷き返した。

「温かい……」
「使徒が何故生まれたか、分るかい?戦争が続く世界で、我が子が生き長らえるように願ったからだよ」

柚はまどろむように瞼を閉ざす。

なんて心地がよいのだろう。
そう、自分はこの温かさを知っている。

先程まで感じていた恐怖が嘘のようだ。
この温かさを恐れていたなど、愚かとしか言いようがない。

そこは懐かしい……

「…――ママのお腹の中だ」

柚の呟きに応えるように、記憶から囁き掛けてくるのは、愛する父と母の声
嬉しそうな柔らかい声が耳に響く。

真っ暗な中で、いつもその声を聞いていた。

"おっ、また蹴った"
"ふふ、元気でしょう?本当に女の子なのかしら"
"お転婆になるぞ、こりゃ大変だ"

とうの昔に置いてきた記憶が蘇る。
母の体の中で、少しずつ大きくなってきた記憶

"早く会いたいな……俺達の子"
"そうね、早くこの腕で抱き締めてあげたい"

温かで大きさの違う手が、撫でる。
自分も早く会いたくて、初めて手を伸ばした。

"生まれてきてくれて、有難う――柚"

使徒の力、能力、それは――愛する子供が、戦争の時代を生き抜けるようにと願った、父と母の愛の形

涙が溢れて止まらない。
愛しくて堪らない。

「……ママ、パパ」

使徒とは進化ではない、とても大きな愛の奇跡だ。

――有難う…

柚は胎児のように体を丸め、自分の体を抱き締めた。

母の胎内で少しずつ形作られた、指の先まで……
愛しくて、ただ愛しくて、嬉しくて……





「っ!」

精神体は柚の中から弾き出され、イカロスは痛む頭を押さえた。

腕の中で、柚が眠っている。
精神体を強制的に弾き飛ばされた衝撃の中、最後まで抱き締めていた自分に感服した。

「終わったんですか?」

覗きこんできたのは、仲間の顔だった。

白い髪に炎のようなメッシュの入った髪が、少し焦げている。
ライアンズ・ブリュールの顔や手足には、小さな火傷疵があった。

「まあね、そっちはどうなった?」
「逃げられました」
「そりゃあ大変だ、小言を言われる」

イカロスが冗談半分に肩を竦めて見せる。
一瞬、ライアンズはばつが悪そうな顔になった。

「冗談だ。今回の目的はあくまでも使徒狩りだし……アスラだってライアンを責められないだろうしね」

イカロスは小さく笑みを漏らしながら、腕の中で眠る柚を見下す。
まるで赤子を覗きこむかのように、ライアンズがそれに習う。

「ぐっすりですね」
「本当に」
「しかし驚きましたよ。女が見付かるなんて」
「お転婆だよ、気を付けて」
「のようですね……」

ライアンズは、校庭に視線を向けて、小さくため息を漏らした。
イカロスはくすくすと笑みを浮かべる。

すると、水溜りを踏む足音と共に声が降った。

「イカロス将官、西並 焔の治療終わりました」
「ご苦労さま」

ヨハネス・マテジウスは、治癒の能力を持つ使徒だ。
彼は神経質そうに眼鏡を軽く指で上げ、イカロスの前で膝を追って柚を覗きこんだ。

全身血だらけの焔には治癒が施され、すぐに完治しない折れた腕はギプスが巻かれていた。
ヨハネスの指示で、焔が担架に乗せられて運ばれていく。

「いつも仕事が早いね、ヨハネス」
「普通ですよ、イカロス将官。そちらの子とあなたは?」
「俺は平気。こっちも多分怪我はしてないと思うけど」

イカロスは柚をヨハネスとライアンズに任せ、ゆっくりと立ち上がった。
ズキリと頭が痛むが頭痛など慣れたもので、一々気にしていられない。

アスラは陥没した大地の中央にいた。

風が彼のコートを靡かせる。
長い付き合いゆえに、その後ろ姿を見ただけでも分かってしまう、彼の感情の起伏

すでに生徒は避難しており、校舎は閑散としている。
大地は抉れ、亀裂が走り、いたるところから水が噴出していた。
校舎にまで皹が入り、能力者の力の脅威を知らしめるかのようだ。

イカロスは校庭を眺めるアスラに歩み寄り、肩に触れた。
洪水のように、アスラの考えが流れ込んでくる。

「そう気に病まなくても大丈夫だよ、アダムを逃がしてもお釣がくるさ。そりゃあ、明日は此処にマスコミが集まるだろうけどね」
「……」
「はいはい、その件はまた今度。俺達はそういう生き物だろ、そんなことで腹を立てるのはやめなさい」

周囲から見れば、イカロスが一人ごとを言っているように見えるだろう。

だが、アスラの返事は聞かなくても分ってしまうのだから仕方がない。
長い付き合いだ、アスラが無口になった原因は自分かもしれないと時々思う。

「気持ちを切り替えなさい。アダムが表に出てきた、上位クラスの力を持った女の使徒が見付かった。上も敵も黙ってないよ」

「忙しくなる」と付け加える。

彼の心が陰るのを感じた。
それに感化されるように、自分まで憂鬱な気分にさせられてしまいそうになる。

「イカロス」

ふいに名前を呼ばれ、イカロスは顔をあげた。

アスラは早々と、気持ちを切り替えている。
彼の前向きさは羨ましいの一言だ。

「土地、均しておけ」
「……はいはい」

全く、人をなんだと思っているのか……
文句のひとつも言いたくなるが、イカロスは校庭の中央に立った。

手を翳すと地鳴りが起こり、大地が震撼する。
足元が浮き上がり、凹凸の激しかった大地が平になっていく。

心を読み、大地を支配する使徒
まごうことなき、アース・ピース元帥の右腕、イカロス将官

アスラも自分も、そして仲間も……
それ以外の名を与えられていない。

研究所で生まれ、名前のみを与えられた。
母親の顔も知らない、例え親に愛されていなくても、この力を使う度に肉親を愛しいと感じるのが使徒の性

自分達は、国の国家機関"アース・ピース"の一部として存在することのみが許された存在

「君は幸せだよ」

柔和な顔に、皮肉めいた笑みが浮かんだ。

「だからこそ、辛いんだろう――この先が」

外から連れてこられた使徒と会う度に思う。

それは、研究所で生まれた自分達の知らない感情
アスラや他の研究所生まれには理解出来ない。

研究所生まれでその感情を知っているのは、他者の心を読み、感じる事の出来る自分のみ……

「不毛だよ、アスラ……」

呟きが冷たい風に掻き消された。





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