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アルテナは、柚に向けてにこりと微笑んだ。
途端に近寄りがたさが消え、印象が変わる。

「写真で拝見するよりもずっと可愛らしいお嬢さんだわ」

柚は頬を染めた。

テレビで見る通り、優しそうな女性に感じる。
同じ女で、母なのだ。

地位を得る為にアスラを産んだと非難されることもあるが、とてもそういう女性には思えない。
アスラが寂しい思いをしたのだって、アスラのみを特別扱い出来ないという理由で引き裂かれていただけかもしれない。

もしかしたら、彼女にならば……自分の気持ちを理解してもらえるかもしれない。

「昨日、戦場に行ったそうですね。怪我をしたと聞きました……もう大丈夫なのですか?」
「は、はい。自己治癒があるので」
「そう、とても心配しましたよ?ご家族の方も無事で、本当によかったわ。けれどね、あなたは女の子なのだから……無理をして危険な目に遭う事はないのですよ」

アルテナは顔を曇らせて柚を覗きこむ。
それは、まるで自分の子を心配する母のように、優しい。

「そういう時にはアスラを頼ってくださいね?とても良い子なの、あなたをしっかり守ってくれます」
「は、はぁ……有難う御座います」

柚は言葉を濁してアルテナから視線を泳がせる。
その、とても良い子に襲われそうになったんだが……と、母の前ではとても言えない。

「あなたには、同じ女性としてとても期待しているの」

アルテナのヒール音が遠ざかった。
アルテナは椅子に座り直し、にこりと優美に微笑む。

「強い子を沢山産んでくださいね?」
「ぇ……?」
「とても大切な役目ですよ、だからあなたはその事に専念してくださいね?戦場になんて行って、子供が産めなくなったら大変だわ」

見開かれた瞳が、赤い唇に釘付けになった。

「あなたに使徒と人類の未来が掛かっているのです。少し歳が離れているけれど、その分アスラがリードしてさしあげなさい?出来ますね、アスラ?」

おっとりと微笑むアルテナ・モンローに、柚は思わず俯く。

母のように優しく心配する口調で、何故そんな事を言えるのか……
"やはり"という思いは、もはや諦めすら覚えさせる。

「純血の使徒が生まれれば、他国もさぞ悔しがるでしょう」

同じ女に、子供を産む道具になれと言われているのだ。
期待しただけに、柚は笑い出したい気分になった。

ここにもまた、大きな感性の違いがある。
それは決して覆る事のない、巨大な壁のように感じた。

すると、アスラの足が僅かに一歩踏み出す。
柚はアスラを見上げて眉を顰めた。

「本日はその件で参りました。この件に関してはお時間を頂きたいのです」
「「え?」」

柚とアルテナの声が重なる。
イカロスとガルーダの唇が、穏やかに弧を描いた。

「子供は、無理に生み出すものではありません」

部屋は恐ろしいほどに静まり返る。

誰もが彼の言葉を理解するまでに時間が掛かった。
彼が政府に意見するなど、今まで一度もなかったのだ。

柚は開いた口が塞がらない。
ただ、驚きのままにアスラの横顔を見詰めていた。

アルテナの顔が一瞬青褪め、みるみると赤く染まっていく。
戦場など知らぬ細い肩が戦慄き始める。

怒りだと、柚は感じた。

「それは、わたくしへの当て付けですか?」
「……仰っている意味が分かりかねます」
「白々しい!あなたもそうなのね、わたくしをっ……」

アルテナが何かを言い掛け、唇を噛む。
キッとアスラを睨み付け、アルテナは部屋を出て行った。

遠ざかっていく、ヒールの音
柚は勢い良く閉まるドアにビクリと首を竦め、おろおろとアスラの顔を見る。

「ぉ、追い掛けろよ」

柚は思わずアスラのそでを掴み、ドアを指差す。
思わず小声になる自分の小心加減が、少し情けない。

「まだ話が終わっていない」
「けど……」
「黙っていろ」

冷たく述べ、アスラは封筒を大統領の秘書に差し出した。

「アース・ピース軍医ヨハネス・マテジウスによる、この一週間の宮 柚の体調に関する報告書です」

(え?なんだそれ。先生、そんなのいつの間に?)

柚は思わず何かを知っていそうなイカロスの顔を横目で見上げる。
イカロスは素知らぬ顔をしていて教えてくれない。

柚がそわそわとしていると、ガルーダに小さく笑われて思わず赤くなった。

大統領は秘書から封筒を受け取ると、中の報告書を取り出して目を通す。
それは、とても長い時間のように思えた。

最後のページにまで目を通し終えると、それを他の議員達に手渡す。

「そちらに詳しく記載されておりますが、宮 柚は入隊三日目に倒れました」

柚はぴくりと肩を揺らし、俯く。
ほぼお前のせいだろ!と、心の中で叫んでいた。

アスラの抑揚のない声は静かな部屋に強く響いた。

「原因はストレスです。アジア帝國の期待を一身に背負っているという重圧が、彼女に強いストレスを与えた原因です。幸い今回大事には至りませんでしたが、このような状態が続くようでは最終的には宮 柚の健康状態を大きく損ねることになるというのが、ヨハネス・マテジウス軍医の見解です」
「何を甘えたことを」

議員の一人、アンドレイ・イワノフが鼻で笑い飛ばす。
ヨハネスの報告書が、目を通されることなくゴミ箱の中に投げ落とされた。

柚は目を見開き、抗議の声をあげそうになる。

それを止めたのはガルーダだ。
そして、イカロスが足を静かに踏み出した。

議員達がびくりと脅える。

イカロスは投げ出された報告書を丁寧に拾い上げた。
イワノフの前に膝を折り、慇懃に再度報告書を差し出す。

その間、終始若葉色の瞳がイワノフを見上げていた。

イワノフが目に見えて怯え、報告書を振り払う。
はらはらと飛び散った紙がイカロスの頬を切った。

部屋の空気が凍りつく。

柚は顔を顰めた。
イカロスが怪我をしたのは事故とはいえ、過剰な怯え方が不愉快だ。

やはり、これが現実……
政府は使徒を恐れ、だからこそ飼い慣らしているのだ。

静かに顔をあげて穏やかに微笑むイカロスに、イワノフが青褪め、上擦った声をあげる。

「み、見たのか……?」
「失礼。ここで能力の使用は禁止されておりますが、私の力は意思によって制御できるものではありませんので、ご了承頂きたく存じ上げます。元より釈明するまでも御座いませんね」

イカロスの眼差しが、再びイワノフを捕えた。
笑わない瞳の元で、唇が緩やかに弧を描く。

彼らしくもない笑みに、柚はぞっとした。
慇懃な態度の中に他者を見下げるような色がにじみ出ている。

「ご心配なさらずとも、あなたの秘密は決して漏らしませんのでご安心下さい」
「な、何を言っているんだ、君は!悪い冗談は止めたまえ、わ、私には知られて困る秘密などないぞ」

イワノフが引き攣った笑みを取り繕った。

「そうですね、失礼致しました。さあどうぞ、イワノフ議員」

引き攣った笑みを浮かべたまま、小刻みに震える手が差し出された報告書を毟り取るように受け取る。
ぱらぱらと紙を捲りながらも、その目は挙動不審に動き、文字に目を通していないことは明らかだった。

誰かが、くすくすと失笑を浮かべる。

秘密を持つ者は、イカロスを恐れるものだ。
だが、誰とて秘密のひとつやふたつは持ち合わせている。

それが他人事となると、とても滑稽に映るのだ。

アスラが足を踏み出し、黄 太丁の前に立つ。

部屋のSPが体を強張らせるが、SPなどが使徒を抑えられないことは誰もが理解している。
見下された黄 太丁は全く動じず、黒い革の椅子に堂々と凭れていた。

「我々はあなた方に従わせられているのではない、我々の意思により従っているのだという事をお忘れなきよう、お願い申し上げます」

呆然としていた議員の数名が音を立てて椅子から立ち上がる。
顔は青褪め、その目がアスラを睨み付けていた。

黄の唇が、小さな弧を描く。

「若造が、このワシを脅すか?」
「滅相も御座いません、黄大帝。これは陳情です」

黄とアスラの視線がぶつかり合う。

時間にすれば短いが、周囲のものからすればそれはとても長く感じた。

部屋は緊迫した空気に包まれ、呼吸すら遠慮したくなる。
柚が緊迫感に限界を感じていると、黄が高々と笑い声を上げた。

その笑いは、愚かと嘲笑うものか、もしくは感服によるものか……

柚はぽかんとした面持ちで笑う黄を見やり、イカロスを見やる。
イカロスは安堵の溜め息を漏らし、柚に小さく笑い掛けた。

柚は喜びよりも、驚きに沸く。

「よかろう。再検討を約束する」
「有難う存じます」
「ただし、分かっているな?ついにアダムが動き出したと報告を受けている。奴は国家のみならず世界に仇なす逆賊だ、なんとしても奴等を根絶やしにせよ。今以上の戦果を期待しているぞ」

黄の顔に、柚の背筋を冷たいものが這う。

つまり……
アース・ピースも、逆らえば同じ道を辿るという脅しだ。

アスラは抑揚のない顔と慇懃な態度で黄に接した。

「黄大帝のご期待に沿えるよう、より一層尽力する所存に御座います」

アスラは敬礼を送り、退室を告げて踵を返す。
ドアが開かれる。

自分は何もしていないというのに、柚は疲れて足元が覚束なくなっている気がした。

アスラが先に部屋を出ると、イカロスとガルーダに習い、柚もぎこちなく敬礼を送り、部屋を出る。
柚は最後に部屋を出るとき、思わず足を止めて振り返った。

「あ、あの」
「なんだい?」

黄の声は優しい。
アスラに接するものとは違う、まるで幼子に接するかのようなものだった。

戦場で知った自分の無力さ。
それと同じ……ここでもまた、自分は無力で子供だった。

柚は黄に向け、深々と頭を下げる。

「有難う御座いました!」

頭をあげるとプラチナピンクの髪がふわりと揺れ、吹っ切れたような笑顔と共に部屋から消えていく。

ドアの閉まる音が、今だ凍り付く議員達を残した部屋に響いた。
途端に、黄はくつくつと愉快そうに笑い声をあげる。

「まだまだ、幼いのう……」

思い出したように、部屋の中には議員達の怒号が響いた。

「大統領!デーヴァ元帥のあの言動は、反逆ともとれるものですぞ!」
「一度甘い顔をすれば、これからも付け上がります!」

黄は議員達の怒りを聞き流す。

アレは、国家が飼い馴らした獣だ。
たまに餌を与えねば、いつ飼い主の喉元に食らい付き、肉塊を貪るとも知れぬ……猛獣なのだ。
そして、獣は雌を守ろうとする……

黄は机の上で指を組み、口元に笑みを浮かべる。

「毒とならば、全てを叩き潰すまでのことよ」

その顔から、すっと波が引くように優しい笑みが消えた。





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