30


朝霧に包まれたアース・ピースの基地に、いつもと変わらない朝が訪れた。

「ほーむら、生きてる?」
「勝手に殺すな」

部屋のインターフォンを鳴らす柚に、不機嫌な面持ちで焔が顔を出す。
柚の隣から、フランツが心配そうに顔を覗かせる。

「怪我はもういいんですか?」
「別に……」
「なんだ、その態度は!フランが心配してくれてるんだぞ、もう大丈夫だよ!とか、心配してくれて有難う、君は友達だ!とか、いえないのか?」
「言えるか!気持ち悪ィ!?」

廊下に響く柚と焔の声に、フランツは苦笑を浮かべた。
そして、部屋からげっそりとした面持ちで出てきたヨハネスにぶつかりそうになり、フランツが慌てて足を止める。

「あ、ヨハネス先生」
「あぁ……皆さんお揃いで、おはようございます。焔君も元気そうでなによりです」
「おはようございます。先生は今にも死にそうですね……」

フランツが心配そうに呟いた。
その後ろで、「絶対お前の怪我のせいだ」と呟く柚に、焔が「あァ?」と低い声で返す。

ヨハネスは下がり気味の眼鏡を指で押し上げながら、苦笑を浮かべた。

「少し急ぎの用があったものですから。私ともあろうものが、人生初の徹夜を体験してしまいましたよ」
「いつも九時には就寝して、誰よりも早く起きるヨハネス先生がですか?」
「く、九時!?」

柚と焔が顔を引き攣らせる。

ヨハネスはふらふらした足取りで、大丈夫だろうかと見守る柚達の前から消えていった。
ヨハネスの向った方角から響く何かにぶつかるようなけたたましい音に、柚とフランツが思わず首を竦める。

すると、部屋から顔をだしたアンジェが、はっとした面持ちでもじもじとドアの陰に隠れた。
苛立った面持ちのライラが、アンジェを廊下に押し出す。

「おはよう。アンジェ、ライラ」
「お、おはよう……」
「……」

アンジェが頬を染め、はにかんだように俯く。
その隣を、ライラが無言で通り過ぎていった。

思い出したように、柚は隣のフランツに尋ねる。

「ところで……あの双子の父親って誰なんだ?」
「さあ、そういう情報は一切こちらに流れてきませんね。ある程度大きくなるまで別棟で育てるらしいですし、僕等も知らないところで子持ちなのかもしれません……」
「そ、それは恐ろしいな」

柚が顔を引き攣らせた。
フランツが、はっとした面持ちで慌てて首を横に振る。

「あ、あの双子は違いますよ?十二年前に、僕ここに居ませんから!」
「……いたとしても、六歳でガキは出来ねぇよ」

黙って聞いていた焔が、呆れた面持ちで吐き捨てた。

「十二年前にいたってことは……研究所組と、ローウィー教官か?」
「十二年前なら、今支部の方にいるジャンもそうですよ。けど、もう亡くなった使徒の可能性の方が強いですね」
「そっか」

親を知らなくとも支え合い、生きている子供達
兵器として育てられたが故に欠落したものがあるが、やはり本質は人なのだ。

昨日、アスラと話してそう感じた。

食堂に入ると、日当たりのいい場所で、双子が向き合い食事を始めている。

食事が終わりそうなジョージと軽く挨拶を交わし、一人離れた場所に座ろうとする焔を引き摺り、柚達も席についた。
目の前に運ばれてきた食事を見て、柚がむっと口を尖らせる。

「あー、焔のデザート付いてる!いいな、いいなー」
「お前はそれ以上太るなって意味だろ」

焔が、「はんっ」と鼻で笑い飛ばす。

「何ィ!?」

フランツは目の前の喧騒を笑顔で見守る。
すると、ライアンズが半分寝ているユリアとハーデスを引き摺り、怒声と共に食堂に顔を出した。

「うるせぇぞ、お前等!」
「あんたが一番うるせぇよ」
「そうだ、そうだー!」

昨日のことが嘘のような平和さだ。
いつも思っている――こんな日が、永遠に続けばいいと……

そんなフランツは、姿を現したイカロスに振り返った。
ライアンズが慌てて口を閉ざす。

「おはよう。柚ちゃんと焔が来てから、此処も賑やかになったね」
「おはようございます、イカロス将官。珍しいですね、今日はこちらで?」
「いや、フランツ達に用があってね。ちょうどセットで居てくれて助かったよ」

ライアンズの問いに、イカロスはおっとりとした笑みを返した。
ライアンズは、目の前を通り過ぎていくイカロスを不思議そうに見送る。

遅れて、イカロスが正装をしていることに気付き、目を瞬かせた。

「あ、イカロス将官。おはよう」
「おはよう。フランと焔も、怪我はもういいのかな?」
「はい、ご心配をお掛けしました」
「……」

苦笑を浮かべるフランツと、ふいっと顔を逸らす焔
「なら、ちょうどよかった」と告げるイカロスに、柚が首を傾ける。

「実は今朝、ガルーダが任務から戻ったんだ」

イカロスはいつも以上に爽やかに微笑んだ。

「というわけで君達は命令違反の罰として、明日から三日間、ガルーダによる楽しい特別訓練だよ」

朝の食堂で、和やかな空気が一瞬にして氷り付いた。
フランツを筆頭に、その場にいた全員が青褪め、「ひっ」と息を呑む。

柚と焔のみが、きょとんとしていた。

「お前等……死ぬなよ」

ライアンズが同情に満ちた眼差しを向けてくる。
焔のプリンを食べながら、柚が口を尖らせた。

「え?ガルーダ尉官優しいじゃん」
「……何も知らないってのは幸せだね。君らはさならがライオンに与えられた餌だよ。ま、僕は可哀相なんて思わないけど」

ユリアが鼻で笑い飛ばす。
ハーデスが悲しそうに目を伏せる。
奥ではアンジェが大声で泣きだし、ライラが宥めていた。

「何かあったらすぐに呼ぶんだぞ?手遅れになる前にな。止血用に布と包帯を渡しておくから、絶対に放すなよ」

ジョージが、いそいそと包帯を取り出す。
好意を受け取りながら、二人は顔を引き攣らせた。

「そ、そんなに凄いのか?」

柚が青褪めて訊ねる。

ライアンズがぽんっと肩を叩いた。
遠い眼差しの元、ライアンズの手が小刻みに震えている。

「そりゃあもう……凄まじいな。俺はあれで暫らく飯が喉を通らなくなった。尉官を見ると、無性に逃げ出したくなる」
「僕は死んだおばあちゃんに危ういところで追い返されましたよ」

フランツが、がたがたと震えながら戦慄いた。
焔が顔を引き攣らせながら鼻で笑い飛ばす。

「お、大袈裟過ぎじゃねぇの?」
「だ、だよな。騙されないぞ」
「君ら、手が震えてるけど?」

ユリアがくすりと笑みを浮かべる。

すると、イカロスが食堂のドアに視線を向けた。

規則正しい足音が響き、食堂の前で止まる。
表情のない顔が食堂を見渡した。

「騒がしいな……」
「すみません!」
「構わん、続けろ。柚は来い」
「え?うわぁあ!?」

アスラが指を向けると、柚の体がふわりと浮き、宙で一転する。
そのままアスラの前に降ろされた柚が、空の容器を手に、床に落ちたプリンを見て立ち尽くした。

そんな柚を他所に、ライアンズが真顔で呟く。

「今日は紫のレースか」
「顔に似合わず、大胆なの穿いてますよね」
「違っ!これは私の趣味じゃなくって……!って――何見てんだ!?」

ひそひそと言葉を交わすライアンズとフランツに、柚がスカートを押さえて怒鳴り返す。

二人に向かって行こうとした柚のケープを、おもむろにアスラが掴む。
驚いて振り返る柚を引き摺り、アスラは無言で歩き出した。

「じゃあ、ちょっと行ってくるから」

イカロスがぽかんとしている一同に苦笑を向ける。

焔が思い出したように立ち上がり、唇が喘ぐ。
そのまま焔は眉間に皺を刻み、イカロスから顔を背けた。

イカロスは静かに目を細め、宥めるように焔の頭を撫でる。
途端に、焔はイカロスの手を振り払って睨み返した。

イカロスは小さな苦笑を浮かべ、踵を返す。

「いやァー人攫いー、朝食まだなのにぃー!プリン返せー!」

引き摺られながら情けない声をあげる柚を黒塗りの公用車に押し込むと、アスラとイカロスに続き、着替え途中のガルーダが飛び込んでくる。
隣に座ったガルーダが、「おはよう」と太陽のような笑みを浮かべて、柚を揉みくちゃにした。

アスラは淡々とした口調で、運転手に「出せ」と短く命じる。
走り出した車は、何重の門を潜り抜け、基地の外へと滑るように走り出す。

柚はぶすっとした面持ちで窓の外に視線を向けた。

まるで世間から使徒を隠すかのように、基地の周辺に建物は一切なく、ひっそりとした森に囲まれている。

基地を出て暫らく走ると、変哲のない森をようやく抜けた。
そこで新たに、森への立ち入りを禁じる簡素な門があることを知る。

人気のない公道を走り、ようやく建物が増え始めた。

車が大通りに出ると、横断歩道で信号を待つ大勢の人
立ち並ぶビルを行きかうサラリーマンやOLの姿に溢れる。

大きな公園の前に差し掛かると、ベビーカーを押す若い母親がすれ違う園児を見て頬を緩ませていた。
赤い風船が空を飛んでいく。

組み込まれる筈だった、平凡な社会のサイクル
珍しい光景ではないというのに、人々が普通に生活をする姿を見ると、もの寂しさが込み上げる。

突如、頬をガルーダの指が突っ突いた。

柚ははっと目を見開く。
ばつが悪くなり、慌てて窓から顔を逸らす。

すると、その肩にガルーダが凭れ掛かった。

「ねむくなった」
「……うん、退屈」

柚は苦笑を浮かべ、自分もガルーダに凭れ掛かる。

優しい嘘
全てを見透かしている人の前で、柚もまた嘘に嘘で応じる。

静かに瞼を閉ざす。
ガルーダからは太陽の香りがした。

寝息を立て始める二人をイカロスは静かに見やり、隣に座るアスラへと視線を向ける。
アスラは頬杖を付き、ぼんやりと外を眺めていた。

その唇が、小さく呟く。

「風船……」
「ん?」
「さっき、風船が飛んでいった。風船は、昔……一度だけ、母上に貰った」

ぽつりぽつりと……思い出すように呟かれる言葉
イカロスは、思わずくつくつと笑みを漏らした。

「色は?」
「……覚えていない」
「そう。今なら、何色がいい?」

「そうだな」と、言葉が迷う。
振り返った視線が、ガルーダに凭れて眠る柚に止まった。

「……赤、がいい」

本人ですら聞き取れないような声が微かに響く。
イカロスは小さく小さく……頷き返した。





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