29


シャワーを浴びた柚は、肩にタオルを掛けて宿舎の外に出ると、宿舎の裏側にある階段に腰を下ろした。
この位置からは、ちょうど生い茂る木が欠けていて月がよく見える。

髪を拭う手を止めて、柚はぼんやりと星の瞬く夜空を見上げた。

(疲れた……)

まどろむように、眠気が襲う。

すると、悪夢の様にハムサとの戦闘を思い出すのだ。
最終的に、思い出したくも無い骨や血塗れの姿を思い出してしまう。

(暫らく肉は食べたくない)

ぶんぶんと頭を振ると、濡れた髪から水が飛った。

柚の怪我は、自己治癒で基地に戻る頃には跡形もなく完治している。
焔は重症で、本人は平気だと言い張っていたが、焔を見たヨハネスが眩暈で倒れそうになっていた。

焦げたので、毛先を切り揃えてもらったばかりの髪を指で弄んでいると、突如背後から掛かった声に、柚は思わず飛び上がる。

「風邪をひくぞ」
「びっくりした、アスラか」

アスラが少し複雑そうな顔をした。

ガシガシと豪快に髪を拭きながら、柚は後ろに立つアスラを見上げる。
長身のアスラに背後に立たれていると、非常に圧迫感があって落ち着かない。

「何?」
「?」
「いや、何か用があったんじゃないのか?」

柚が話を促すように首を傾げると、逆にアスラが首を傾げる。
柚は苦笑を浮かべたが、アスラは見落とすような変化で、困ったように表情を変えた。

「別にない。月が綺麗だから此処に行けと、何故か強制的に追い出された」
「なんだそれ」
「イカロスの考えていることは、時々よく分からん」

柚はそっと詰め、アスラが座る場所を空ける。

「とりあえず座ればいいと思うぞ」
「……そうか」

隣に座れという意味だろうか?
アスラは暫し腕を組んだままその場所を見詰め、柚の隣に腰を下ろした。

何をするでもなく、アスラは時間を持て余す。

時々イカロスは理解に苦しむ事をいう。
今日に限って月を見ろなどと、見てどうしろというのだ。

隣から、小さな溜め息が漏れた。

アスラが顔を向けると、柚の横顔が寂しげに見える。
本人もため息を付いた自覚がないのだろう、ぼんやりとしていた。

その哀愁を纏った横顔が、幼いわりには妙に色っぽく感じる。

プラチナピンクの髪を風が弄んだ。
キャミソールから覗く白く細い腕を、柔らかそうな髪が隠してしまう。

決して女は珍しくない。

今まで、研究所が用意した女を沢山抱いてきた。
種を繁殖させる為に必要な行為で、義務なのだと教えられた。

アスラは考えが定まらぬまま手を伸ばす。

柔らかな髪に指が触れると、指の間をさらさらと零れ落ちた。
髪に隠れた白い頬に手を伸ばすと、柚がぎょとした面持ちで振り返る。

「な、何だ?」
「いや、誘っているのかと思った」
「はァ?何を?あ、いや、皆まで言うな。何故そうなる!?」

柚が真っ赤な顔をして怒声と共に立ち上がった。

「違うのか?」
「当たり前だ!」
「そうか、わかった。なら何もしない」

アスラは悪びれた様子もなく、手を引っ込める。
柚はひくりと顔を引き攣らせた。

本人に悪気はないようだが、だからこそかもしれない。
非常に疲れる。

「座らないのか?また怒らせたか?」
「うっ」

柚は、溜め息を共に項垂れるように座り直した。

少しだけアスラについて分かったこと。
柚からすれば、アスラは世間知らずで善悪を知らない子供のようなものだった。

「全く、調子が狂うな」
「……」

意味がわからないといわんばかりに、返事が返ってこない。
柚は膝の上で頬杖を付き、溜め息を漏らす。

ヒシヒシとアスラの視線を感じた。
柚は早々に帰っておけばよかったと後悔する。

すると、アスラが俯き、ぽつりと呟きを漏らした。

「嫌ならば、戻ればいい」
「……うーん」

柚は困ったように頬を掻く。

「別に、今のは嫌だとかそういう意味じゃないよ」
「……」

膝の上で頬杖を付き、柚はアスラに苦笑を向けた。
彼は、それ以上なにも言おうとはしない。

柚はゆっくりと瞬きをしてアスラを見上げた。

瞬きの間に彼の表情が変わるわけでもなく……アスラはどこかを彷徨っているかのように寂し気で無防備な顔をしている。
そのまま視線は何かを捜すように流れ、濃紺の空へと向けられた。

その視線を追った柚は、月に目を留め、思い立ったように口を開く。

「アスラは……あの月を見て、なんて思う?」
「……特に感想はない」
「何かあるだろ?綺麗だとか、お団子食べたいとか」
「……腹が減っているのか?」
「ちーがーうっ」

柚が地団駄を踏む。

「つまり、人それぞれに感性ってものがあって、感じ方が違うって話だろ、今のは!」
「……面倒だな」
「えー、皆一緒の感じ方をしていたらつまらないじゃないか」
「そうか?」
「と、思うのも感性の違いってやつだな。ママに教わったんだ。ママはパパに教わったって言ってた」

懐かしむように目を細め、人懐っこい笑みが向けられた。
赤い瞳は、優しい弧を描く。

「同じ場所に立って同じ物を見ても、感じ方はそれぞれ違う。でもね、人はつい自分のものさしで他人も量ろうとしちゃうから、意見が対立したりもするんだけど、そうやって自分とは違う意見に触れる事で刺激を受け、怒ったり、笑ったりっていう感情の起伏が生まれる」

生まれたときから軍人として育てられてきたアスラからすれば、それがとても無意味に思える。

皆が同じ考えをしていれば、命令も早く行き渡り、迅速で適切な行動に繋がるのだ。
また、同じ考えであれば人類は無意味な争いをしないだろう。

だが、現実は万人が同じ考えというわけにはいかない。

「感情を生むから、人との触れ合いは大切なんだって。必ずしもいい感情が生まれるとは限らないけど、もしも理解出来ないと思う人と出会ったら、視野を広げて相手の立場に立ってその気持ちを考えてみるんだってさ」

くすくすと、柚からは朗らかな笑い声が聞こえてくる。

「というのが理想らしい……現実はそれほど上手くいかなくて、誰彼構わずに受け入れるなんて無理だろうけどな」
「……そうまでして、何故他者を受け入れる必要がある?」
「けど、アスラはしてくれたじゃないか」

柚は嬉しそうに笑みを漏らした。
アスラが目を見開く。

「理解出来ないって頭ごなしに否定する事は簡単で、自分に凄く楽なことだ。けど、アスラはちゃんと理解しようとしてくれたから、私は嬉しい」
「……そうか」
「そうだよ!」

身を乗り出し、力強く頷く少女の肩から、プラチナピンクの髪が滑り落ちる。
生き生きとした赤い瞳が優しく、ふっくりとした唇が愛らしい。

「ねえ、今アスラは何を思ってる?」

心臓が跳ねそうになった。

心の内を見透かされる事など、イカロスが傍にいるから慣れている。
だが何故か、後ろめたさのような感情を感じたのが不思議で、僅かに動揺している。

「そう聞いてもさ、言葉ではその感情の全てを表現出来ないんだろうな」
「そうかも、しれない……」

しみじみと思い、納得した。
今感じた思い全てを、言葉にするなど不可能だ。

自分が同意した事が嬉しいのか、柚の頬が緩む。

「でしょ?私もね、イカロス将官のようには出来ないだろうけど、アスラを理解しようと思う。けど……それは少し時間が掛かるかもしれない」
「そうなのか?」
「私にとっては当たり前のことが、どうやら全く違うから」
「……なるほど。それは、俺からしても同じ事だ」

二人は顔を見合わせ、どちらともなく小さな笑みが浮んだ。

柚は大きく背伸びをして、欠伸を漏らす。
瞼が少し腫れている気がした。

(そうか、あの時に泣いていたからか……)

ならばきっと、柚の母もそうなのだろう。
彼女はとても深く――…

「愛されて育ったんだな……」

柚に手を伸ばし掛け、アスラは疑問を抱いた。
この手で、何をしようとしたのか……

そんなアスラの気も知らず、柚は困ったように苦笑を浮かべた。

「まあな。アスラの母親はどんな人なんだ?」

柚は言ってからはっとする。

以前、見たアスラの記憶
あの中で、アルテナ・モンローはテレビと全く印象が違う女性だった。

柚は、もごもごと言葉を濁すように呟く。

「テレビでは凄く優しそうだったけど……」
「……そうか」
「と、友達に見せてもらった雑誌で見た事あるぞ。子供のお前がモンロー議員に抱っこされて笑ってるところ」

アスラが目を瞬かせる。

そこは驚くところなのか?と、柚は笑顔の下で顔を引き攣らせた。
とりあえず、このままアルテナ・モンローの話題から話を逸らしたほうがいいかもしれないと、柚は思う。

「そういえば、子供の頃のアスラは可愛かったな」

柚は膝の上に組んだ腕に顔を乗せ、くすくすと微笑んだ。

女の子と勘違いするような繊細な顔立ちだったことを覚えている。
母に抱かれながら、聡明な眼差しは母を見詰めていた。

アスラの睫が陰を落とす。

「俺ももう、気付いたからな」
「気付いた?」

唐突な言葉に、柚は首を傾げた。

アスラが顔を上げて月を見上げる。
虚無な横顔が、寂しげに映った。

「お前から見た俺は、幸せそうだったか?」
「……う、うん」
「母上のプロパガンダの一環だ。子供を愛する優しい母が訴える言葉は、さぞ見栄えも聞こえもいいだろうな」

柚は困った面持ちになる。

触れられたくないことだったのだろうか?

アスラの口振りは、まるで母親を嫌っているかのように感じた。
アダムに母を貶された時はアダムに腹を立てていたように見えたのに、どちらが本心か分らない。

どちらも本心なのだろう……
そもそも使徒は、肉親を嫌い、憎むなど出来ないのだ。

「母上が俺に触れさせてくれるのは、カメラがある前だけだった……」

整えられた綺麗な爪、すらりと伸びた細い指
人々に向かって微笑む、慈悲深いまなざし

その眼差しを与えて欲しかったのは、自分だった。
ずっと、手を握っていて欲しかった。
ただ……愛して欲しかった。

離れていく手
その手を追い掛けて伸ばした手をすり抜けていく……美しい手

いつからか、追う事が恐くなった。

拒絶されることが恐ろしい。
ならば最初から――求めなければいい……

手を力なく握り締める。
その手に柚の手が触れ、はっとした面持ちで柚が手を引っ込めた。

柚はぎこちなく笑い、母の様に細い指を絡ませて持て余す。

もしかしたら、先程手を伸ばし掛けた自分と同じ気持ちなのかもしれない。
アスラはぼんやりと思う。

赤い眼差しが流れ、柚は心の内を恥ずかしそうに明かした。

「私、本当はね……アスラが恐かったんだよ」
「ああ、知っている」
「そ、そう」
「皆が俺を恐れる……別に、珍しい事ではない」

アスラが柚から顔を背け、僅かに視線を落とす。

「……別に、アスラが恐いわけじゃない。あんなことしようとしたアスラが恐かったんだ」
「あんなこと、とは?」
「え?えっと……その……あの、アスラが部屋でしようとしたこと」

柚が困ったように赤くなり、もごもごと聞き取りにくい声で口篭る。
アスラはそんな柚を見て、首を傾けた。

「……何故だ?」
「何故って、あ、当たり前のことだ!」
「当たり前なのか?」

悪意もなく、不思議そうな水色の瞳が瞬く。
疲れる……と、柚は頭を抱えたくなった。

何故こんなことを一から説明しなければならないのか……
だがきっと、彼は求め、必要としているのだ。

"人"らしさを――…

「説明しにくいっていうか……なんというか。ああいうのは、その、特別なんだ。そりゃあ、中にはそう思わない人もいるかもしれないけど、最初は凄く痛いって言うし、は、恥ずかしいし……だから、その、恐いっていうか……うぅ、勘弁して!」

柚が真っ赤になって膝に顔を埋める。
零れ落ちた髪から、普段は隠されている少し尖った形の耳が顔を出すと、その耳までもが赤く染まっていた。

暫くすると、柚は膝に顔を埋めたまま、そろりとアスラに視線を向ける。

「男の人はそう思わないかもしれないけど、女はそういうもんだと思う。だから、本当に好きで好きで、そういう……恐いっていう思いも乗り越えて、自然とそうしたいって気持ちになれる人とする、もの……だと、思うんだけど……聞いてる?」
「聞いている、よく分からないが」
「そ、そっ」
「……理解しようとも、思う」
「あ……ありがとう」

柚は再び膝に顔を埋めた。
そして、しまったとばかりに勢い良く顔を上げる。

「って違う!話が思いっきり逸れた」
「そうか?」
「そうだ。私は言いたかったのは……」

柚が長く溜め息を吐いた。

「アスラのこともう恐くないし、嫌いでもないってこと。まあ、アスラからすれば、そういうのはどうでもいいことなのかな」
「……そうでもないようだ」
「そっか、よかった」

微笑みが向けられる。
自分には決して向けられることがないだろうと思ってきた……優しい微笑みだ。

「それで?」
「え?」
「それでお前は、あの月を見てなんと思ったんだ?」
「……ママとパパも見てるかなって」

はにかみながら返す答え。

笑みと共に閉ざした瞼が開かれた瞬間、突如にアスラに肩を掴れ、片手が頭を抑えて引き寄せる。

驚く柚の唇を割り、舌が咥内に侵入してきた。
逃れる舌を追い掛け、絡めとり、吸い上げる。

柚は驚きに目を見開きながら、アスラの胸板に手を付き、必死に引き剥がそうとした。

慣れた様子で咥内を蹂躙しながら、アスラの手が肩から腰に下り、腰を撫でる手にぞわっと総毛立つ。
さらにはキャミソールから忍び込んできた手に、柚は目を剥いた。

「んー!?んんー!」

アスラの髪を掴んで引き剥がすと、不機嫌そうにアスラが眉間に皺を刻む。

「……なにをする」
「それはこっちのセリフだ!?」

柚の拳を、アスラは顔の前で受け止めた。
振り上げたもう片方も軽々と受け止め、アスラは悪びれた様子もなく「何を怒っているんだ」と文句を言う。

「さ、さっきの話聞いてたか?理解しようと思うって、たった今自分で言ったよな?」
「言った」
「だったらそういうことするな!?」
「……だがそうしたいと思った」
「ひぃ!なんてタチが悪いんだ、寄るな、ケダモノッ!?」

柚が青褪めて後ずさる。
アスラは座ったまま、そんな柚を見やり、思い出したように口を開く。

「そういえば言い忘れていた。お前が気に掛けていたようだから言っておく。キース・ブライアンは一命を取り留めたそうだ」
「キース・ブライアン……?あ、アダムに乗っ取られた人?よかった」
「……ああ」

呟くように、頷いた。
会話が噛み合っているようで、実は噛み合っていないことを知っているのはアスラだけだ。

怒っていた柚が嘘のように、ほっと安堵の笑みを浮かべている。
自分がそのことに対して安堵していると知ったら、彼女はまだ思い出して怒るかもしれない。

何事もなかったかのように「おやすみ」と告げて部屋に戻っていく柚を見送ると、アスラは掌に視線を落とした。

立ち上がり、静かに月を見上げる。

いつも変わらず、退屈そうに瞬く星と白い月
いつもは何も感じない空を見上げ、明日からは別のことを思うかもしれない。

今日はきっと、夢を見るだろう。

それは幼い頃の、温かい夢であることを切に願う……





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