10


翌朝、柚は甲高い声と共に部屋を飛び出した。
ラン・メニーを中心とした医者や看護師達が、カルテを手にその後を追い掛けてくる。

「もうやだ!なんでそんなことまで答えなきゃならん!セクハラ!プライバシーの侵害だ!!エッチー!」

半泣きで走り去っていく柚を見送り、フランツはラン・メニーを呼び止めた。

ラン・メニーは、使徒研究所の代表医師だ。
代表医師が自ら朝の健康診断に出向くとは、よほど女性の使徒に興味があるのだろうと、その熱心さに反場呆れる。 

「どうしたんです?」
「質問に答えてくれないんだよ、年頃の女の子の扱いは難しいね」

カルテを覗き込んだフランツは、僅かに頬を染めて苦笑を浮かべた。
カルテの項目には、生理の周期や性行為の経験、興味等、答えにくい項目がずらりと並んでいる。

「女の子の使徒が貴重なのは分りますが、少し急ぎ過ぎじゃありませんか?相手は女の子ですし、まだ連れて来られたこと自体、気持ちの整理がついていないと思いますよ」
「しかしねぇ……」
「なんとでも言えるじゃないですか。このままじゃ、精神的に悪い影響を与えるとか」
「ふむ」

ラン・メニーは渋々ながら頷き、その場を下がった。

柱の陰から覗いていた柚が、恐る恐る顔を出す。
フランツは柚を呼び寄せ、「もう大丈夫」と囁いた。

すると、柚の後ろからライアンズがげんこつを降らせる。

「てめぇ!朝っぱらからギャアギャアうるせぇぞ!」
「痛っ!?ぶったー!」
「だからうるせぇ!」
「ライアンも十分煩いですよ」

フランツが笑顔で二人を引き離す。

「ライアン。柚は女の子なんだから、もう少し優しく出来ないんですか?」

ライアンズは顎を撫で、柚をまじまじと見下した。

「フラン、女とはこういう時、可愛くきゃあという生き物だ」
「ぎゃあ!?」

唐突に柚のスカートを捲る上げるライアンズに、柚が悲鳴をあげる。

フランツが笑顔でライアンズを殴り飛ばした。
「黒のレース」と呟きながら、満足そうに気を失うライアンズの顔を、フランツは笑顔で踏み潰す。

「大丈夫ですか?昨日の言葉訂正しますね。ライアンは顔も性格も頭も悪いから、近付かない方がいいですよ」
「そ、そうする」

真っ赤な顔でスカートを抑えた柚が、顔を引き攣らせて頷いた。

「ところで、朝食に誘いに行こうと思ってたんですけど」
「う、うん」
「じゃあ、焔も呼んで行きましょうか」
「ああ、あいつ今、部屋で謹慎」

焔を迎えに宿舎に戻ろうとする二人の背に、ライアンズの冷めた声が掛かる。
二人が足を止め、ライアンズに振り返った。

ライアンズは淡々とした面持ちで続ける。

「昨日の夜、脱走しようとしたから俺が捕まえた。イカロス将官の温情で一日の謹慎処分」
「……」
「お前も気をつけろよ、宮 柚」

ライアンズが柚の肩を叩き、その隣をすり抜けていく。

感情を切り捨てたような顔で柚の隣を通り過ぎるライアンズの横顔を見やり、フランツは複雑そうに顔を歪めた。
すると、隣に立つ柚がぼそりと「ムカつく」と吐き捨てる。

フランツは慌てた。

「違うんですよ、柚。ライアンは本当に悪い人じゃないんです!」

柚がゆっくりとフランツに視線を向ける。

「脱走はね、本来なら一週間の独房行きなんです。きっと彼がイカロス将官に掛け合ってくれたんだと思うんです。デーヴァ元帥に直接報告してたら間違いなく独房だっただろうし。さっきのだって、君のことを元気付けようとしてやったんですよ。まあ、方向性はかなり間違っちゃってるけど……」

フランツが遠い眼差しでぼそりと付け加えた。

捲くし立てたフランツに、柚は小さく笑みを漏らす。
フランツは、きょとんとした面持ちで、笑う柚を見やった。

「違うんだ、フラン。ライアンじゃない」
「え?えっと……じゃあ焔?」
「それよりご飯、食べに行こう?お腹空いた」
「……はい」

柚の言いたい事が良く分からない。
戸惑っているフランツに、歩きだした柚は小さく口を開く。

「アイツね、妹が居るらしい。自分がいなくなったら妹さんが一人になっちゃうって……」

フランツは、突然振られた言葉が誰を指すのか分からずに、しばし困惑した面持ちを浮かべていた。
だがすぐに、焔の顔を思い出す。

「こんな別れ方になっちゃったけど、私の家族はアイツの妹さんと違って、私が居なくなっても一人きりになるわけじゃない。絶対に帰らなきゃならない理由もないな……」
「柚は?柚自身は、それでいいんですか?」
「なんでそんなこと聞くんだ?どうせ帰れないのに」

フランツの顔が陰る。
柚は静かに首を横に振り、何処か淡々とした面持ちで前を見た。

「ごめん、今の言い方は意地悪だった……私は大丈夫だよ。ただ思うのは、二人とも私がいなくなった事を悲しまないでくれればいい」

言葉は、泡のように小さく消えて行く。

その余韻を噛み締めるように、フランツは目を細めた。
フランツは小さな自嘲と共に呟く。

「君は強いですね。僕よりずっと」

柚はフランツの横顔を見た。
そっと視線を逸らし、柚は後ろで手を組む。

「僕は此処に連れて来られた当初、ずっと落ち込んでいましたよ。逃げ出す勇気もなかったし、君のように前向きでもなかった。正直、今日はちょっと不安でした。昨日あんなことがあって、柚が落ち込んでるんじゃないかって」

フランツは柚を見やり、穏やかに微笑んだ。

「僕に出来ることは本当に小さいけど、君達の寂しさを少しでも和らげることが出来たらなって思ったんです。僕が此処に来たとき、皆にしてもらったように」
「フラン」

そでを摘むように掴まれ、フランツは目を瞬かせた。
柚が目の前に回りこみ、微笑みを浮かべる。

「ありがとう。フランもライアンも好きだ」
「……へへ」

フランツが照れたように頬を染めて笑みを漏らす。
力になれたのならば、本当に嬉しい。

食堂に向けて歩きながら、フランツは柚に訊ねた。。

「ところで、柚と焔はどういう関係なんですか?」
「え?うーん……なんだろうな。ちょっと話したことはあるけど、実はお互いの名前すらちゃんと知らない関係?」
「何ですそれ……僕はてっきり恋人か友達なのかと」
「いやいや、それありえない」

嫌そうな顔をして、柚が否定する。
フランツは笑顔のまま顔を引き攣らせた。

「でも、焔は柚を助けようとして怪我したって聞きましたよ?見ず知らずの柚を助けるためにあんな怪我したんですか?なんだか意外ですね」
「な、なんでそんな事知ってるんだ!でも、そうなんだよなぁ……お礼言わなきゃって思ってるんだけど」

柚はため息と共に、困ったように口をつぐむ。
それは何処か、迷子の子供のような顔に見えた。

食堂は宿舎と研究所の中央にある背の高い建物の一階にある。
案内された食堂は予想以上に広く、閑散としていた。

「あんまり人いないんだな」
「研究所の人達は不規則な生活ですから。希望すれば自室に持ってきてくれるし。そうそう、僕達の食事メニューは個人個人で違うんですよ。その人の体調や体質を考慮したメニューが出されるんです」
「えー……なんか、凄いんだな」

柚は顔を引き攣らせる。

部屋は訓練中、スタッフが掃除洗濯をしてくれるらしい。
生活必需品の他に必要な物があれば、申告すれば大抵のものは与えられる。
また、この閉鎖された空間で使徒がストレスを感じないように、基地施設の中には映画館等の遊戯施設が設置されている。

使徒が訓練と任務に専念できる快適な生活を送る為のシステムだという。

食堂には数名しかおらず、フランツが簡単に紹介をしてくれた。

窓際に座る二人の少年はまだ十二歳で、研究所で生まれた使徒だと教えられる。
金髪碧眼で全く同じ顔をしていたが、二人は受ける印象が正反対だ。

「この双子が、ライラとアンジェ。今ここにいる使徒で最年少ですよ。アンジェがお兄さんらしいです」
「あの、アンジェ……です、よろしく」

おっとりとした顔付きのアンジェが、恥ずかしそうに名乗る。
反対に、しっかりした顔付きのライラは、食事を続けながら愛嬌もなく、一瞥も向けずに名前だけを名乗った。

「フラン、こう、もぎゅっとしてもいいだろうか?」
「落ち着いて、柚」

そわそわとした様子で柚がフランツに訊ねると、フランツが宥める。
小声で話す柚とフランツに、二人が怒っているのではないかと勘違いしたアンジェがおろおろとライラを咎めた。

「ラ、ライラ、失礼だよ」
「別にいいよ、猫被ったってしょーがないし」
「けどっ、けどぉ……」
「それより、アンジェ。またニンジン残して、ちゃんと食えよな」
「うっ、だって……嫌いなんだもん」

アンジェの目にじわりと涙がにじむ。
ライラが苛々とした面持ちでアンジェを睨み付けた。

「またすぐ泣く!」
「だって、ライラがぁ」

ぐすぐすとアンジェが鼻を啜る。
ライラが更に苛々している気配を感じると、柚は苦笑を浮かべてアンジェの頭を力強く撫でた。

「なんだなんだ!男の子がこんなことで泣くなよ。ほら、とりあえず笑っとけ」

柚はアンジェの頬に指を添え、への字に曲がった唇をあげてみせる。
笑みと共に顔を覗きこんでくる柚にアンジェが戸惑っていると、強引に笑い顔にされたアンジェを見たライラが噴出した。

笑われてショックを受けるアンジェを他所に、柚はライラとアンジェの頭を撫でる。

「ほら。アンジェが笑ってれば、ライラも笑ってくれるだろ?」
「ぁ……」
「僕は、別に……!」

慌てたようにむすっとした顔を浮かべるライラに、フランツがくすりと笑みを漏らす。

だが、フランツの笑みはすぐに消えた。

本当は……、本当は、柚もそうやって無理に笑っているのではないだろうか?
さっきも、今も。

人に心配を掛けないために?
自分が柚を心配していから、自分を笑わせる為に?

気遣うつもりが、逆に気を遣われているのかもしれない。
だとしたら、とても寂しい。

心の壁だ。

フランツは、床に落とした視線を起こし、柚を見詰めた。

"無理に笑わなくていいよ"
その一言が言えなくて……





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