女は名をヴィットーリア・ブリヴィオと名乗った。
女について知ることが出来たのはそれだけだ。

「ここがあんたの部屋だ。それにしてもその野暮ったい格好、なんとかなんねぇの?」

客室に荷物を置いたクリフに,対しドアに凭れるイヴァンは不躾な視線を向けていた。
むっとしながら、クリフは自分の格好を見下し、再び男に視線を向ける。

イヴァン・カロッソ。
レオナルドが目を掛けてきた出世頭だ。

ラフに高級ブランドのスーツを着こなすイヴァンは、いいものを着ていると一目でわかるが、他者に嫌味な印象を与えるでもなく、ごくごく自然にそのファッションを自分のものにしている。

それに比べ、自分は古着屋で購入したくたくたのシャツと少し色あせた感じのパンツ。
事実ではあるが、とりあえず目の前にある服を着てきたといった印象の自分。
今まで気にしたこともなかったが、あまりにも野暮ったく感じて恥ずかしくなる。

「仕方ないだろ!他のは洗ってなかったんだよ。その、最近ごたごたしてたから」
「へぇ。九日前に契約先をクビになり、その後、職を探す気配もなく、家から目立った外出もなかったあんたが?」
「なっ!なんで知って――」
「当然。あんたは一度ここに来たときから、うちのドンに目付けられてたんだよ」

唖然とした。
一体どういうことだか、さっぱり分らない。

自分で言うのもなんだが、こんな自分にあのレオナルドが一体何を期待したというのか……。

だがはっきりと、何かが動こうとしていることだけは分る。
ここに居れば、スクープは目前だ。
クリフは、宝物を探す子供のように胸が高鳴っていく思いがした。

「とりあえず、後で俺のスーツ貸してやる」
「余計なお世話だ」
「馬鹿だな。あんたにその格好でうろちょろされたら目立つだろ」

イヴァンがクリフに迫った。
背が高くほどよく鍛えられた体をしたイヴァンが、気安くクリフを見下す。

この手が今まで何人の人間を死に追いやってきたのだろう……。
口調は軽いが、彼には常人が持ち得ない独特の雰囲気があった。

「いいか、これから新顔のあんたがヴィットーリアの周りをうろうろすることになる。事情を知らない連中は当然勘繰ってくるだろうし、あんたも命狙われることは覚悟しておけよ」
「命ィ!?冗談じゃないぞ!」
「だから、護衛を付けるって言ってんだよ」

言ってないだろ!と、出掛けた言葉を呑み込む。

イヴァンの言葉は、ただの脅しではない。
彼の瞳は真剣そのものだった。

「銃も貸してやるから持っとけ。撃ち方は分るな、坊ちゃん」
「そ、それぐらい、知ってる!」
「上等だ。ほら、俺のお気に入りだ。後で返せよ」

イヴァンは懐から取り出した一丁の銃を、"お気に入り"と言う割には無造作に投げてよこす。
危うく落としそうになりながら、クリフは手にすると思った以上に重い銃を受け取った。

「お、おい!待てよ、俺はあんた等に聞きたいことが山程あるんだ!チェチェーレの問いってなんだよ。あんた等が俺を呼んだんだろ?だったら、もう少し説明とか質問に答えてくれてもいいんじゃないか?」
「勘違いすんな。今回の件はすべてドンの遺言だ。俺等はその指示に従っただけ。俺らも忙しいんだ、自分で確かめてくれ」
「死んだ奴にどーやって確かめろってーんだ!?」

苛立ちのまま叫んで、喉が痛い。
何もかもが自分を置き去りにして進んでいくし、誰もかれもが不親切だ。

イヴァンは軽く手を上げて、苦笑を浮かべた。

「何も本人に直接聞くのが全てじゃないだろ?真実を導き出すのがあんた等ライターの仕事じゃないのか?」

一瞬、クリフは言葉に詰まった。

確かにクリフは、この世の理不尽に埋もれる真実を導き出し、多くの者に知ってもらう為にライターになった。
欲を言えば、人々に真実を知らせ、自分の手で理不尽な思いをしている人々を救う為に人を動かしたかったのだ。

だが現実はそう甘くはなかった。

理想を追い掛けるにも、フリーライターに経費が支給されることは少ない。
結局自分の生活費もままならず、芸能人のスキャンダルでなんとか食い繋ぐことで精一杯だった。

「じゃあ、カポであるあんたの意見を聞きたい!」

ドアを潜ろうとしていたイヴァンが足を止め、肩越しに振り返る。
食い下がるクリフに、イヴァンは視線のみで先を促した。

「あんたは、イヴァン・カロッソは、レオナルド・チェチェーレに気に入られていた。その内ボスになるってまで噂されてたあんたは、この現状をどう考えてるんだ?」

イヴァンの愛想のない瞳がゆっくりと瞬きをして、口角が愚問だと告げるかのように吊り上がる。

「ドン・チェチェーレの望みに不満なんてひとつもないね」

部屋を出て行くイヴァンに続き、ドアの閉まる音。
自分の住んでいる古びたアパートよりも広い一室で、クリフは地団駄を踏みたくなった。

(尊敬していたボスの意思なら、女狂いになったボスの命令にも従うって?そういうのがカッコイイとか思ってんだろ!アンダーボスの方が、よっぽどまともだ!)

爪を噛みながら、テーブルの周りをうろうろと歩き回る。
くたびれたスニーカーの紐を踏み、転びそうになった。

(だいたい、あの女も女だ!欲に目が眩んで死んじまったら元も子もないだろう!)

自分の事を棚に上げて、クリフは預けられた銃を握り閉める。

いつも自分が手にしているのはペンとメモ帳。
こんな冷たい鉄の塊など、御免被る。

「イタリア人は、馬鹿の集団だ!」

その時、部屋のドアがノックされた。
返事も待たずにドアが開き、数着のスーツを抱えた細身の男が姿を現す。

それが、カポ・レジームのリオネロ・コレッティだと気付くと、クリフは自分の失言を恨んだ。

「イタリア人がなんだって?」
「うっ……」
「僕等からすればイギリス人は文句ばっかりで態度がデカイ。疲れないの?もう少し気楽に構えれば?ああ、それとこれ僕のスーツ。イヴァンのじゃ裾が余るだろう?」
「ぐっ……」

リオネロは怒った様子もなく肩を竦め、壁にスーツを掛けた。
確かにイヴァンのスーツを借りたら裾が余りそうだが、心遣いがあまり喜べない。

クリフは礼の代わりに、話題を戻すことにした。

「あんた等は気楽に構え過ぎだ!あの女、殺されるぞ」
「そんな事は僕等がさせないから、あんたは余計な口出しをせずにただ見ていればいいんだよ」
「ああ、OK!好きにしろ、そしてくたばれ」

興奮気味に吐き捨てるクリフに、リオネロは大きめで愛嬌のある瞳を一度瞬かせる。
そして、くすくすと少女のように笑みを漏らした。

「うん、あんた貧乏くじを気付かないうちに進んで引くタイプだ」
「っー!ほっとけ!!」

クリフの怒声に追い出されるように、リオネロは部屋を出て行ってしまう。

「どいつもこいつも馬鹿にしやがって!」

ソファに音を立てて腰を下ろすと、背もたれに凭れたままずるずると体を沈めた。

染みひとつない、真っ白な天井を見詰めながら、クリフはごそごそとポケットを漁る。
手に滑らかな素材が触れ、ポケットから写真を抜き取った。

(結局、こんな胡散臭い写真どころじゃなくなったな……)

写真をポケットにしまい直す。

(とりあえず、まずは基本の情報収集だ)

クリフは意気込みながら、買い漁った雑誌を捲り始めた。

ここは余所者をあまり好まない、どちらかというと閉鎖的な土地だ。
マフィアという組織は政治と地域に根付いたもので、内外共に情報を漏らさない傾向にある。

現地の新聞や雑誌は報復を恐れてか、詳しく書き記したものは見当たらなかった。

「あー、駄目だ」
(俺の方が、よっぽどマシな記事を書くぞ!)

雑誌を床に放り投げると、部屋のドアをノックする音が響く。
はっと顔をあげると、すっかり日が落ち、空は茜色を黒に塗り替えようとしていた。

シニョール・オルコット(オルコットさん)?」

返事がないクリフに呼び掛ける声がして、クリフは慌ててソファから起き上がり、返事を返す。

「開けても?」
「あ、ああ。今開ける」

慌ててドアに駆け寄りドアノブを掴む。
掴んだドアノブを見ながらドアを開けたクリフの額にひやりとした冷気のような塊が押し当てられた。

"しまった"と、心の声が叫んだ。

目を見開き、息を呑むクリフの瞳には、無邪気な面持ちの男が映る。
男の唇が何かを呟き、引き金が引かれた。

鼓膜を突き破るような銃声と、味わったこともない痛みを想像したクリフの耳には、シリンダーが空回りする音のみが届く。
腰から力が抜け、クリフは尻から崩れるように床へと崩れ落ちた。

悪戯が成功したとばかりに腹を抱えて笑い声を上げている男を、クリフはしばし呆然と見上げる。

「おい、パトリツィオ!どうした!」

血相を変えたイヴァンが飛んでくると、パトリツィオは腰を抜かしているクリフを指す。

「ちょっとおどかしたら、こいつ腰抜かしちゃって」
ヴァッファンクーロ(馬鹿野郎)!こいつはボスの大事な客だって言っただろーが!!」

一人愉快そうなパトリツィオの頭に、イヴァンの拳が振り下ろされた。
やっと現実に引き戻されたクリフの顔がみるみる赤く染まり、奥歯を噛み締めながら怒りに震える。

すると、ヴィットーリアが首を傾げながら子供達の相手をするような微笑みを向けてきた。

「なにやら楽しそうな声が聞こえるが、何事じゃ?」
「ボス。すみません、こいつがいつもの調子でちょっと悪戯を……」
「ちょっとだと!?」

クリフはわなわなと震える拳を握り締め、イヴァンを睨みあげた。
興奮のあまり、イタリア語で喋ることも忘れ、英語で怒鳴りたてる。

「ちょっとで済むか!俺は死んだと思ったぞ!!それをこの男はへらへらと、本当に反省してんのか!」
「おやまあ……客人がカンカンじゃ。この悪戯坊主はわらわの客人に何をしてくれたのかのう?」

ヴィットーリアはパトリツィオの顎を掬い上げるように指先で撫で、顔を覗き込む。
ヴィットーリアの目が合った瞬間、パトリツィオの顔は赤くなるのではなく、さっと青褪めた。





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