キートラ
〜9〜
紅葉は首を傾げながら、目を瞬かせる。
だがすぐに、これは先程森の中で見た夢によく似ていると気付き、息を呑む。
『話を続けていいか?』
『……』
拒絶するように、スーが紅葉の腕を強く掴んだ。
紅葉は不安になりながらも、バートの顔を見上げた。
『領主は足りない税の代わりに娘を奉公に差し出せば、足りない分の都合を付けてやると言った』
『いい加減にしてくれ、バート!家の娘はっ、セトゥナはもう六年間に差し出したじゃないか!またワシからセトゥナを奪うのか?娘なら他にもいるだろ!』
『……余所者であるその娘が候補に挙がるのは、この村では仕方のない流れだろう』
『ワシは絶対に認めん!二度とセトゥナを手放したりするものか!帰れ!!』
スーは近くにあった小物を手に取り、バートに向って投げ付ける。
バートに向って投げられた木彫りの器は、玄関の扉にぶつかり、跳ね返った。
器はころころと床を転がり、時間を掛けて動きを止める。
ぐるぐると床の上で回る器の音が、紅葉の耳に沁みこむように残った。
バートは怒りもせず、動きもせず……ただじっと、スーの顔を見ている。
スーは肩で息をしながら、バートを獣のような目で睨んでいる。
紅葉にとっては、誰も言葉を発することのない時間がとても長く感じた。
息苦しさの中の不安は、時と共に増していく。
バートは瞼を閉ざすと、再びゆっくりと瞼を起こして口を開いた。
『税の問題はこの村の問題だ……。だが、その頃その娘は村の者ではなかった。つまり、この問題とその娘は無関係だと思わないか?』
スーが弾かれたように体を揺らす。
目の前にスーの背中がある。
その前には、村長のバートが立っていた。
紅葉は不安の中で、夢と同じ光景を体験する。
その光景が、まるで再び夢の中に落ちたかのように錯覚をさせた。
『スー。お前を村から追放する』
『え……?』
スーが掠れた声をあげる。
そんな所まで、夢と同じだと思った。
『その娘を連れて、さっさと出て行け』
スーが弾かれたように顔をあげる。
スーは家を出て行こうとするバートを追おうと、杖を投げ出して駆け出した。
『待ってくれ!バート!バート!?』
追い縋るように、スーがバートに手を伸ばす。
皺だらけの指がバートの服を掴むと、バートが振り返る。
紅葉は目が合った瞬間、またデジャブのような感覚に困惑した。
スーは何度も崇めるようにお礼の言葉を繰り返している。
だがバートは再び顔を背け、スーに何を言うでもなく、何事もなかったかのように家を出て行く。
良く分からない、分からないのだが……。
紅葉はバートの後を追い掛け、家を飛び出した。
腰の鈴が鳴る。
(伝えなきゃ……)
"有難う"、"アリガトウ"、"ありがとう"
心の中で、覚えたての言葉を繰り返す。
足の速いバートを追い掛け、紅葉は走った。
疲れ切った足がもつれ、転びそうになる。
だが瞳だけは、バートの背中を追い掛けていた。
口を開く。
喉を吸い込んだ空気が通り過ぎる。
「ぁ……っ」
待ってと、唇が声なく動いた。
(スーおじさんも、クモークも……)
足を止め、バートに向けて叫ぶ。
(村長も――)
「『ありがとう!』」
声が空気を振動させる。
振動は音となり、バートの耳に届く。
振り返るバート以上に、紅葉が自分の発した声に驚いて立ち尽くしていた。
紅葉は困惑した面持ちで、喉に手を当てる。
久しぶりに聞いた自分の声だが、喜びよりも戸惑いが先に来た。
「……ぁ、ぅ」
紅葉は喉を押さえたまま、首を横に振った。
「違う」と言いたかった。
喋ることが出来たにもかかわらず騙していたのだと思われたくない、慌てて言い訳をしようとするが、やはり何も言葉が出てこない。
嫌われたくないと純粋に思い、紅葉は焦っていた。
バートは紅葉の前に立ち、家を指す。
『早く行け』
「……」
家に戻れと言うことだろうか……。
暫し迷った末に、紅葉は踵を返し、家へと歩き出す。
その道中、何度もバートへと振り返りながら、紅葉は家の前に立つスーの元へと戻った。
紅葉が戻ると、スーは紅葉を抱き寄せる。
バートに向けてスーが頭を下げると、紅葉が真似をするようにその隣で頭を下げた。
その姿に背を向け、バートはまばらに立ち並ぶ村の家々の中を歩く。
井戸よりもやや森に近い位置に、村長・バートの家はある。
自宅のドアを潜る。
まず視界に飛び込んできたのは、一様に晴れない面持ちをした数十名の村人達の姿。
そして、息子のクモークだった。
『親父!何処行ってたんだよ、この大変な時に!』
『……』
バートはクモークに一瞥を投げ、その横を通り過ぎる。
さらに何かを言おうとしたクモークが、一瞬眉を顰めて言葉を飲み込んだ。
(あれ……?)
バートは椅子に腰を下ろすと、集まった村人達の顔を無言で見回す。
外は暗くなり始めていた。
家のランプに灯りを灯すと、集まった男達の顔を薄暗く照らし出す。
先程まで纏まらない話し合いをしていた村人の代表達が、空気が張り詰めたようにバートの顔を見た。
そして沈黙を破るように、村人達は口々に意見を述べ始める。
『とにかくバート。ワシ等で話し合ったんだが、やはりスーじいさんに事情を話すしかないだろ。領主がセトゥナって言ってんだ、俺達のせいじゃねぇ』
『けどなあ、スーの奴が大人しく差し出してくれると思うか?』
『セトゥナの時も大騒ぎしてたじゃないか』
『けど、今の娘は血が繋がってないだろ。何処から連れてきたのかは知らんが、前ほど騒ぎはしないんじゃないのか?』
クモークは怒りに駆られ、話し合いをする男達に怒鳴りかかった。
『なんだよそれ!余所者だって同じ人間じゃないか!それをまるで家畜を出すかのように!』
『クモーク、大人になれ。お前はあの娘を気に入っているようだが、どうせあんな女は何か問題を起こして他所の村を追い出されたか何かの女さ。今まで置いてやった恩を返してもらう時だ』
『セトゥナはそんなんじゃない!大体置いてやった恩って――あんた等、何もしてないじゃないか!』
『そういや、最近セトゥナの所に通ってた貴族みたいな男はどうした?セトゥナを奉公に出して、後で騒がれでもしたら敵わんぞ』
『今日は来てないな。やっぱりエフルクの関係者だろ』
ぎりりと歯を食いしばり、クモークは拳を握り締めた。
自分の言葉が届かない。
悔しさと怒りが、クモークを突き動かす。
クモークは話し合いに夢中な大人たちを残してそっと家を抜け出すと、スーの家へと向った。
『スーじいさん、俺だ、クモークだ。スーじいさん?』
ドアをノックしても返事はない。
クモークはそっとドアを開け、眉を顰めた。
家の灯りが灯っていない。
だが、家のドアを開けると、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
『これは……シャテレの実?』
いつも紅葉が持ち歩いている籠いっぱいに、シャテレの実が詰められていた。
その隣に、大きな葉が置かれている。
吸い寄せられるように、クモークはその葉を手に取った。
『……"ありがとう"……?』
たった一言、そう書かれている。
それ以外には差出人も何も書かれていなかったが、クモークと思しき人物の顔が可愛らしく描かれていた。
(俺に?)
そう思っていいのだろうか……。
自分の気持ちが伝わっていたかどうかはさておき、全てが一方的ではなかったのだと思ってもいいのだろうか。
『……セトゥナ?セトゥナ!』
クモークは家の奥へと踏み込み、部屋の中を見回す。
灯りどころか、人の気配もない。
(もしかしてスーじいさん、セトゥナを連れて……)
その時、家の外にぞろぞろと不揃いな足音が聞こえ始める。
クモークは弾かれたように顔を上げ、体を震わせた。
(村の連中が、セトゥナを連れに来たんだ!)
老人と女の足だ、村人達が逃げたことに気付いて追い掛ければ、すぐに見付かってしまうかもしれない。
クモークは慌しく部屋の中を見渡した。
スーの外套も紅葉の外套もない。
仕方がないのでベッドからシーツを剥ぐと、クモークは頭から被り、家に裏にある窓から外へと飛び出した。
近くの家の納屋が目に留まる。
繋がれた家畜を見回すと、一頭、家畜にしては足の早いライファナを見付けた。
綱を外すと、クモークは鞍も付けずにその背に跨る。
『悪い、借りるよ』
他の繋がれた家畜に呟くと、クモークは手綱をライファナの背中に打ち付けた。
ライファナが驚き、勢い良く前足を上げ、弾かれたように走り出す。
『おい、家の中に誰もいないぞ!逃げたんだ!』
『なんだ、今の音は!』
『裏だ、裏から誰かが逃げていくぞ!』
鍬などの農具を手にした男達が、ライファナに乗って村の外へと駆け出したクモークを指差した。
(セトゥナ、逃げてくれ!)
ふいに民家の屋根に視線を感じて振り返ったクモークの視界に、白い影が映る。
白く美しい獣が長い尾を揺らし、クモークに背を向けるように身を翻す。
『っ……!』
クモークは前へと向き直り、唇を噛み、手綱が軋むほどに力を込めて握り締めた。
ライファナの足が力強く地面を蹴る。
砂埃が走り出したクモークの姿を霞ませた。
紅葉はスーと共に、夜の森を歩いていた。
辺りはすっかり暗く、唯一の明かりは空に浮かぶ月の頼りない光のみ。
森の中は小鳥の囀りも消えて薄気味悪さだけが残っている。
昼に歩き回った疲れも取れていないが、今は前を歩くスーの後に付いて行くことに必死で、疲れも忘れていた。
スーは老人とは思えない足の速さで歩く。
紅葉は小走りにスーの隣に並ぶと、スーの顔を見た。
少し前までは、自分以外の者が全て敵であるかのような、どこか追い詰められた顔をしていた。
今は余裕のない顔をしながらも、スーの表情は少しだけ前と違っているように感じた。
『どうした、疲れたか?もう少し頑張れ』
じっとスーの顔を見ていると、スーが紅葉の視線に気付いて言葉を掛ける。
歩き詰めのスーの頬を、汗が伝い落ちた。
(よく分からないけど、私のせいで何かに巻き込まれちゃってるんだよね?)
これからどうなるのか、不安がないわけでもない。
だが、スーが自分を先導してくれる為、何処か他人事のような気持ちでもある。
(駄目駄目、そういう考えはいけない。自分のことなんだから)
焚き火を前に、人生初めての野宿を経験しながら、紅葉は考え込んでいた。
途中で収穫した実を小枝に刺し、スーが焚き火の火に掛けている。
(あの夢……)
紅葉は顔を上げた。
(もう一度、見れないかな)
『セトゥナ、食べなさい』
考えを遮るように、スーが小枝を差し出す。
スーはほとんど口を付けず、紅葉に食べるよう促してくる。
眠るときまで、寒くないかと世話を焼いていたスーの寝顔を見下ろし、紅葉は膝を抱えた。
(血の繋がってるお母さんだって、こんなに気に掛けてくれないのに)
くすぐったいような嬉しさの反面、寂しさを感じる。
(きっとお母さんは、私がいなくなったことすら気付いてないんだろうな)
紅葉は膝に顔を埋めた。
焚き火の炎が風に揺れる。
火が弾けた。
周囲の音が、まるで火を吹き消すかのように一瞬にして消える。
浮いているような浮遊感が体を支配し始めた。
闇の中で目を覚ました紅葉は、目を見開きながら周囲を見渡す。
ここが夢の中だと確信すると、意を決した面持ちで瞬きを繰り返した。
時間を進めるごとに、紅葉は状況を理解出来ずに眉を顰める事となる。
いつもは青い空が赤い。
黒煙がもうもうと赤い空を昇っていく。
大きな炎が遠くに見えた。
動物としての本能が、巨大な炎に恐怖を抱かせる。
紅葉は森の中からその様子を眺めていた。
(煙が出てるこの方角って……村の方じゃ……ない?)
―NEXT―