キートラ
〜8〜




すると、ウィンブルは木の上で体を翻す。
「待って」と言い掛け、紅葉は思い出したように腰の鈴を掴み、鈴を鳴らした。

ウィンブルが足を止め、肩越しに振り返る。
だがウィンブルはふいっと顔を逸らし、そのまま森の中へと走り去ってしまう

紅葉は困惑した面持ちで揺れる枝を見上げていた。

(なんで、行っちゃうの?ホルツ)

しょんぼりとしながら、紅葉はその場にぺたりと座り込む。
クモークの時のように、ホルツのことも怒らせてしまったのだろうかと考えながら、紅葉はため息を漏らした。

少し泣きたい気分だが、太陽が傾き始めている。
のんびりしていたら夜になってしまう為、紅葉は背中に巻き付けたシャテレを解き、ひとつひとつ籠に移した。

(結局、最後は助けられちゃったね)

顔に苦笑が浮かんだ。
紅葉は小枝を拾い、地面に強く文字を刻む。

慣れない文字は、まるで図形を描いているかのよな気分になってくる。

(これだけは覚えたんだ。えっと、『あ・り・が・と・う』)

地面に文字を刻むと、籠に移したシャテレをひとつ取り出し、文字の隣にそっと置いた。

(気付いてくれるかな)

紅葉は満足そうに一人笑みを浮かべ、ウィンブルが去っていった方へと振り返る。
戻ってきてくれるかどうかは分からないが、その時はネレーや他の動物が食べればいい。

(帰ろう)

疲れたと思いながら、籠の中のタナムと上着を身に付ける。
その道中、薬草や夕飯に使えそうな物を捜すことも忘れることなく、紅葉は長い帰路に付いた。

それから程なくして……
まるで去るのを待っていたかのように、長く白い尾を揺らし、一頭の獣が現れる。

獣はゆっくりと、地面の上に置かれたシャテレの実へと歩み寄り、大きな口に咥え込んだ。
長い尾を一振りし、地面に書かれた文字を掻き消す。

そのままするりと身を翻すと、何事もなかったように木に爪を掛けて上へと駆け上り、生い茂る緑の中へと姿を消した。

揺れる木の葉がひらひらと舞い落ちる。
ぽつりと垂れた果実の汁が、ほのかに甘い香りを残し、後はただ静寂が森を包み込んだ。










ファーテル上空を、首とくちばしの長い鳥が飛んでいく。
鳥と言っても人よりも大きい。

鳥は一度空を旋回し、丘の上の屋敷へと高度を下げると、その背から小柄な人影が飛び降りた。

青年は屋敷の屋上に着地すると、屋敷の中に姿を消す。
上品な装飾品が並ぶ長い廊下を曲がり、離れにある賓客用の離宮にまで、青年は軽快な足取りで足を運んだ。

客間のドアの前に立つ男が、青年に気付いて歩み寄る。
青年は歩く手を上げ、男に声を掛けた。

『お疲れ様です、イーブディ殿』
『遅いぞ、ルサベルク』
『いやー、面目ない。ところでディル様はまだ機嫌悪いんですかね?』
『……』

悪びれた様子もないルサベルクの態度に、イーブディは無言でため息を漏らした。
ルサベルクはそんな同僚の隣を、肩を竦めて素通りする。

『ディル様、ルサベルクです。ただいま戻りました』
『入れ』

部屋の窓は大きく開け放たれていた。
薄紅色のカーテンが強い風を浴びて揺れている。

部屋の主は背筋を伸ばし、まるで未来を見据えるかのような真剣な眼差しで、窓から外を眺めていた。

『やはり勘付かれたようですよ。キートラで見掛けた怪しい連中が、コーヴェラの領主邸に入っていくのを確認しました』

ラーレディルは忌々しそうに舌打ちを漏らし、壁に凭れると腕を組む。
ターコイズブルーの瞳が、窓に切り取られた空を羽ばたく鳥へと向けられた。

『冗談ではないぞ。やっとあの娘が俺に本心をぶつけてくるまでに距離を詰めたというのに』

機嫌の悪さを隠すことなく呟くラーレディルに、ドアの近くに控えていたイーブディが不思議そうに口を挟んだ。

『失礼ながら、ラーレディル様は娘とお揉めになったのでは?』
『はあ……そんなことだからお前はいつまで経っても婚約者と余所余所しいままなのだ』
『は、はあ。申し訳ありません』
『そうですよー、イーブディ殿。セトゥナ殿は本心をなかなかお見せにならないお方なんでしょう?どんなものにしろ、感情的になったところを見せたって事は、隙が出来たも同然!』

ルサベルクがイーブディに向けて肩を竦める。
イーブディはルサベルクにまで馬鹿にされ、むっとしながらも口を閉ざす。

ラーレディルは思い出したようにルサベルクへと視線を向け、指を差した。

『そもそもお前が一大事だと言って俺を呼び戻しに来なければ、俺はあの時セトゥナを追い掛け、信頼を勝ち得る好機だったんだぞ!このままではあの程度で腹を立てた度量の狭い男と思われるではないか』
『そりゃあ信頼って言うより付入るって言うんですよ、ディル様』
『うるさい』

ラーレディルが目を吊り上げる。
二人の会話についていけないかのように、イーブディはしきりに目を瞬かせながら二人の顔を見比べた。

『そもそもの原因はディル様でしょ、八つ当たりせんでくださいよ。ちゃんと手順を踏んでこっちの領主に挨拶してれば、こそこそ隠れて逃げ帰ってくる必要はなかったんですよ?』
『ルサベルク!貴様、主君になんたる無礼を――』
『そいつの無礼は今に始まったことではない』

面倒くさそうに、ラーレディルはひらひらと手を振る。
『そんなことないですよー』と笑うルサベルクを、イーブディがぎろりと睨み付けるが、ルサベルクは反省と言うものを知らない顔で何処吹く風だ。

『ラーレディル様。今からでもエフルク伯に、娘に手を出さぬよう話をしてみては如何でしょうか』
『エフルクは兄上派だ。俺にとって有利になることは何が何でも阻止してくるはずだ。それに俺達は数回に渡り、奴に挨拶もせずに偽名で領地に入っているんだぞ。奴にとってはますます面白くないだろうよ』
『では、如何なさるおつもりですか?』

イーブディの問い掛けに、ラーレディルは「ふう」とため息を漏らす。

『仕方あるまい。少々気の乗らない手ではあるが、エフルクを利用されてもらうとしよう』

目を細め、誰にともなく呟く。

気だるげに瞼が閉ざされ、ゆっくりと瞬きをひとつ。
瞼の下から現れたターコイズブルーの瞳は流れるように、茜色に染まりつつある空を見上げた。


紅葉はそんな空を、キートラの近くにある森の中からため息と共に見上げていた。

(最っ悪……何処で道を間違えたの?)

泉の岩に腰を下ろしたまま、げんなりとした面持ちで膝を抱える。

先程から同じ場所をぐるぐると回ったまま、一向に森を出ることが出来ないでいた。
お陰で予定よりも遅れていたところに拍車を掛けている。
ただでさえ慣れない木登りでくたくたの体に、鞭を打つかのような仕打ちだ。

(そろそろ帰らないと、またスーおじさんが心配しちゃう)

紅葉は緩慢な動きで立ち上がると、泉の水で顔を洗った。

波紋が消えていくのを、ぼんやりと見詰める。
眠ってしまいたくなるような、静けさだ。

(でもちょっと、帰るのが怖いな)

紅葉は苦笑を浮かべた。

意思の疎通もままならないクモークと、無事に仲直りすることはとても困難なことだ。
話を聞いてくれるかすら怪しい。

ラーレディルに関しては、もはや二度と来てくれないかもしれない。

(あの人だって、毎日遠いところから通ってくれてたのに)

そんな彼の行動を迷惑だと思った自分が恥ずかしい。

(今度はちゃんとあの人の話も聞いて、ちょっとくらいなら……協力してもいいかな)

紅葉は立ち上がると、大きく背伸びをして空を見上げる。

(とにかく帰ろう)

さわさわと風が囁く。
振り返った紅葉の目には、言葉にすることは出来ないが、森の印象が何処となく変わって見えた。

再び帰路に着くと、今度は迷うことなく森を抜けた。

恨めしそうに森に振り返ると、村への一本道を進み、村に入る。
スーの家が村の外れで、森に近いことは有難い。

村に戻った紅葉は、今度は村がいつもと違う雰囲気であることに気付き、眉を顰めた。

いつも何処か辛気臭い雰囲気を纏っているこの村が、いつも以上に静まり返っている。
まるで人に見捨てられた廃墟のようで不気味さを感じてしまう。

その原因は、この時間ならばまばらに歩いている村人の姿が全くないせいだ。

(……)

ふいに、最近見た夢を思い出す。

(えっと……この間見た夢は、馬車みたいのに乗った貴族っぽい人の前に連れて行かれる夢で……。今日見たのは村長がスーおじさんに何か言ってる夢よね)

考えながら家に戻った紅葉は、玄関のドアを潜るなり人の背中にぶつかりそうになった。

『セ、セトゥナ……』
「?」

スーが、この世の終わりであるかのように青褪めた面持ちで自分の名を呼ぶ。
スーは紅葉の腕を掴み、自分の後ろへと引き寄せた。





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