キートラ
〜7〜




今日もまた、夢の中で空から落ちていく。

(……ラーレディルさん、明日も来てくれるかな)

ぼんやりとしながら、そんなことを考えていた。

瞬きをする。
地面との距離が縮まった。

方法を思い出したように、紅葉はもう一度瞬きをする。
すでにそれが、いわゆる"早送り"の方法だと気付いていた。

瞬きから冷めると、視界が激しく揺れる。
視界に固い地面が広がり、体が打ちつけられた。

膝が擦りむけたように熱い。

村人達が、鍬などを手にしたまま自分達の体で生垣を作り、暗い目でこちらをじっと見ている。
誰も近付いてこない、まるで怯えているかのように感じた。

目の前には馬車のようなものがある。
見るからに馬車なのだが、引いているのが馬ではない。
相変わらず、見たことのない生き物だ。

村人を代表してか、村の顔役の男が、派手な身なりの男と話をしている。
話をする二人の視線がちらりとこちらに向けられると、紅葉は得体の知れない悪寒を覚えた。

その視線から逃れるように俯き掛けた紅葉の顎を、派手な身なり男が手にする杖の先が掬い上げる。
派手な身なりの男は、紅葉と目が合った瞬間、歯をむき出しにして笑った。

紅葉が顔を背けると、少し離れた場所からこちらを見ていたクモークと目が合う。
クモークは目が合った瞬間にびくりと肩を揺らし、ばつが悪そうに目を逸らすと、紅葉に背を向けて人混みの中に消えていった。

(結構、くるわ……)

紅葉は瞼を閉ざす。

(だから嫌……)

閉ざした瞼の先に闇が広がる。
それは夢の終わり。

(人と関わらなきゃ、傷付くこともないのに)

瞼を起こすと、見慣れた天井が広がった。

窓のある方へと寝返りを打つ。
数回瞬きをしてもぞもぞとベッドから抜け出すと、窓をそっと開けて外を覗いた。

薄暗い空が広がっている、そろそろ夜が明けるのだろう。
東の空が白み始めている。

起きるには少し早い時間だが、紅葉は極力音を忍ばせながら服を着替え、桶を手に家を出た。

村はまだ、眠りの中にある。
踏み固められた土の上を歩きながら、紅葉は静かな村に振り返った。

(でももう、手遅れなのかもね)

苦笑のような……だが、何処か諦めたようで楽しげな笑みを浮かべ、紅葉は小走りに井戸へと向う。
不思議と今日の足取りは軽い。

家と井戸を往復しながら、頭の中で一日のスケジュールを組み立てた。
水汲みが終われば朝食の準備をし、スーが驚く中、洗濯に掃除、畑の手入れを終えると、紅葉は昼になる前に森へと足を向けた。

いつもよりも早めに入った森は、いつも通り、静かに紅葉を迎え入れる。

小鳥達――と言っても、やはり小鳥とは少し違った生き物だが、愛らしい声でまるで言葉を交わすように囀り合っていた。
そこで初めて、いつもと少し日陰の位置が違うことに気付いて嬉しくなる。

(ラーレディルさんは異世界だって言ってたけど、ここは地球じゃないのかな)

そんなことを疑問に思った自分に苦笑を浮かべる。
今頃、そんなことを考え始めた自分がなんだか可笑しかった。

周囲を見渡したが、ウィンブルの目立つ白い毛並みは見当たらない。

(異世界っていうよりも、タイムスリップ?でもだったら、あんな見たことない動物ばっかりなわけないし)

たったひとつ、疑問を抱くと次々と溢れ始めた。

太陽も月もある。
地面が土で、植物の葉が緑で、空が青いことも、地球と変わらない。

ただひとつ、地球と同じような環境下で、今のところ共通する生き物は人間のみだ。

(あ、でもラーレディルさんは変わった髪の色だし。もしかして見た目は同じでも、太陽や月も実は地球から見えるものとは別のものだったりするのかな)

足元をネレーが駆けて行く。
緑色の小動物は、草むらに入るとカメレオンのように姿を消した。

ふいに、自分の疑問がどうでもよく思えてくる。
例えそれを知ったところで、どうなるわけでもない。
決して投げやりになっているわけではなく、"今"を大切にしたい。

紅葉は黙々と、先日クモークと共に歩いた道を、記憶を頼りに一人で歩いた。

(あれ?この間はこの辺だったよね?)

何度も上を見上げ、辺りを見回すが、木には実らしきものが見当たらない。

(もう少し奥に行ってみよう)

心の中でそう呟き、瞬きをした瞬間、眩暈のような感覚が襲い来る。
まるで右目にだけ圧力が掛かったかのような感覚が襲い、次第に薄れてくると、紅葉は恐る恐る瞼を起こす。

体が空に投げ出された。
わたあめのような雲の間をゆっくりと突き抜ける。

紅葉は流されていく感覚の中、思いついたように瞬きをした。
時間が進む。
もう一度、紅葉は自分の意思ではっきりと瞼を閉ざし、瞼を起こした。

目の前にスーと思しき男の背中がある。
その前には、村長のバートが立っていた。

『お前を村から追放する』
『え……?』

スーが掠れた声をあげる。

『その娘を連れて、さっさと出て行け』
『待ってくれ!バート!バート!?』

結局のところ、二人の会話の内容は紅葉には分からない。
ただ、スーの声が尋常ではない事態を告げている。

追い縋るように、スーがバートに手を伸ばす。
皺だらけの指がバートの服を掴むと、バートが振り返る。

(あ……)

バートと目が合った。

紅葉はこれが夢だということを知っている。
だが、まるで夢ではなく現実であるかのようにどきりとした。

目を見開き、その視線から顔を背けて瞼を閉ざし――…。
夢から覚める。

紅葉は先程いた森の中に、ぽつりと立ち尽くしていた。

思い出したように、小鳥達が歌を歌い始め、さわさわと木々が揺れる。
青い空を真っ白な雲が流れていった。

紅葉は先程とは逆に、空を見上げる。

空を隠すように生い茂る木々が風に揺れた。
何気なく空を見上げた紅葉の視界に、紫色の果実が映る。

(あ!あった、シャテレ)

手で光を遮りながら、紅葉は立ち位置を変え、葉に隠れる果実を見上げた。

(どう考えても届かない……)

試しに近くに落ちていた木の枝を持ち、飛び跳ねてみたが、あまりにも自分の行動が間抜けに思え、棒で落とす方法は諦める。
近くで小石を拾い、果物に当てて落とす作戦に出るが、小石は全く別の方向に飛んでいく。

紅葉はため息を漏らして木の足元に座り込んだ。

座り込んで休むわけでもなく、紅葉はスカートを捲り上げて落ちないように縛ると、ブーツの紐を締め直した。
立ち上がるなり腕捲りをし、木に向き直る。

挑むように自分を見下ろすシャテレを見上げると、紅葉は意を決した面持ちで幹の表面に手を掛けた。

足に力を込め、木にしがみ付いて体を固定すると、より高い場所へと手を伸ばす。
木登りを経験したことがない紅葉は、地面から50cmほど足が離れた頃、伸ばした手が木の表面を滑り、木から滑り落ちた。

「っ!」

背中から倒れた紅葉は一瞬呼吸に詰まり、げほげほと咳き込みながら体を起こす。

手を見ると、皮が剥けて血が滲んでいる。
見なければ良かったと顔を逸らすも、見てしまうと痛みが増す。

(はぁ……)

紅葉はため息を漏らすと、バスケットから布を取り出して怪我をした手に巻いた。

タナムを留めるレアレアを外してタナムを取ると、簡単に畳み、籠の上に置く。
更に上着を脱いで身軽になると、紅葉は気合を入れるように腕を引いて唇を引き結んだ。

何度か失敗を重ね、やっとのことで太い枝まで上り詰めると、紅葉は一度その上に腰を下ろして休憩を取ることにした。

(たっ、高い。登る前はこんなに高いと思わなかったのに)

投げ出した二本の足が心許ない。
どうやって降りようと考えそうになったが、紅葉は考えを掻き消すように首を横に振った。

(もっと違う方向に考えよう。そうね、えっと……ああ、そうだ。風が気持ちいい)

身を委ねるように、紅葉は目を細める。

さわさわと柔らかな風が紅葉の亜麻色の髪を揺らす。
まるで水の中を漂っているかのように心地良い。

時間を忘れそうになる一時から覚醒すると、紅葉は気合を入れ直し、幹の上に立ち上がった。

立ち上がると、風ひとつでも体が揺らぐ。
葉と葉がぶつかり合い、ざわざわと音を立てていた。
涼しげな葉の間から太陽の光が差し込む。

紅葉は光に向かい、手を伸ばした。
傷だらけの手だった、だがそれが愛しい。

努力して得られるものが、すぐ目の前にある。

(ここまで来ればあと少し、頑張れ私!)

心が踊るような気分だ。

今は何処にも不安などない。
ただ、それが喜んでもらえる結果に繋がるなら、その過程はどんなものであっても構わないと思える。

紅葉は次の枝へと手を伸ばした。
精一杯体を伸ばし、それでも足りないとばかりに、体が裂けてしまいそうなほどに手を伸ばし……
固い枝を指先が触れると、しっかりと握り直した。

決してクモークのようにはいかないが、少しずつ自分のペースで、紅葉はシャテレへと近付いていく。

木に登り始めて大分時間が経過した気もする。
やっとシャテレに手が届く位置にまで辿り着くと、紅葉の真剣な顔に安堵の笑みが溢れ出し、肩からどっと力が抜けた。

頭上の枝は果実の重みにしなっている。
ここからならば、手を伸ばせば届くはずだ。

幹に掴まりながら、紅葉は枝の先端になるシャテレの実に手を伸ばす。
シャテレの実を掴み、そっと手首を回すように捻ると、ポキリと小気味のいい音を立ててシャテレは枝から離れ、紅葉の掌の中におさまった。

紅葉は自力で収穫したシャテレを見詰め、嬉しそうに目を輝かせた。
たったひとつの果実が、まるで何よりも価値のあるものに感じてならない。

自然に笑みが零れ、溢れる喜びを一人の胸の内に収めてきれず、誰彼構わずにこの自分の喜びを知って欲しいと感じる。
そんな自分の感情が自分でも驚くほど新鮮で、自分が自分らしからぬほどに浮かれているのだという事に気付く。

いくら眺めていても眺めたりない気分だが、紅葉はシャテレをいくつか収穫し、傷を付けないようひとつひとつ丁寧に布に包み込んだ。
それを背中に斜め掛けにし、胸の前で縛り付けてしっかり固定をすると、意気揚々としていた紅葉もさすがに冷静になる事態に直面する。

(どうやって降りよう……)

登ってこられたことが不思議な高さだ。
登った時のように一度でも失敗すれば、確実に死ぬか怪我をするだろう。

(気を引き締めていかなきゃ)

自慢ではないが、運動神経だけは胸を張って「ない!」と断言できる。

(慎重に、慎重に……)

紅葉は自分が登ってきた木の枝に足を伸ばした。
なんとか木に足の爪先が当たり、体重を掛けようとした瞬間、体重を掛けようとした枝に亀裂が走るような音が響く。

「!」

枝は幹から剥がれ落ち、つい先程まであった足場が消失する。
落下する枝と共に、体がガクリと傾いた。

「っー!?」

喉に固く悲鳴が詰まる。

青い空を見上げた。
体が吸い寄せられるように、地面に向けて吸い込まれていく。

落ちている、はっきりと分かった。

音という音が耳から抜け落ち、耳も目も体も、全てを恐怖という感情が支配して何も考えられなくなる。
恐怖で声も出ない、指一本すら動かない。

地面を蹴る音が急速に迫ることすら、紅葉は気付かなかった。

白い巨体が木々を力強く蹴り、枝に飛び乗り身を翻す。
誰かが何かを鋭い口調で叫んだ。
人の言葉のようであり、獣の鳴き声のようにも聞こえる。

次の瞬間、地面に叩き付けられるはずの体は、まるで何かに受け止められたかのように、地面に落ちる寸前で止まった。

「!」

止まったのはほんの一瞬で、体はすぐに地面に吸い寄せられたが、おかげで痛みは感じない。
紅葉は驚きを浮かべたまま目を瞬かせ、思い出したように飛び起きて周囲を見渡した。

「?」

周囲を見渡しても、これといった変化はない。
はっとして、弾かれたように上を見上げると、木の上には白亜の獣が佇んでいた。

長い尾が太い枝の上に立つウィンブルの体から垂れ、柳のようだ。
手足を覆う毛皮は黒く艶やかであり、体を覆う白亜の毛皮は汚れを知らず、光を浴びて雄麗に輝く。

「ぁ……ぅ」

紅葉は立ち上がると、木の上に立つウィンブルに向けて、必死に何かを言い掛けるが声にならない。

ウィンブルは鼻先に皺を寄せ、僅かに牙を剥く。
静かではあるものの怒っている様子に、紅葉は思わず口を閉ざした。





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