キートラ
〜6〜




紅葉が洗濯物を干していると、血相を変えたクモークが駆け込んできた。
クモークは息も整わぬまま、紅葉の手を掴む。

『ごめん!俺、親父の用事でテレンに行ってて!』

紅葉は目を瞬かせる。

『アイツが来たんだろ?なに言われたんだ?』

動転しているのか、クモークの声は大きい。
家の中からスーが何事かと顔を出すと、クモークに気付き歩み寄る。

『あんたか。セトゥナに何か用か?』
『スーじいさん!あの男は何をしに来たんだ?まさかセトゥナを連れてく気じゃないよな?な?俺さ、俺、テレンから戻ったらスーじいさんに言おうと思ってたんだけど、セトゥナと結婚の約束してるんだよ』

スーが目を見開く。
驚きは一瞬であったが、スーは複雑そうな面持ちで紅葉の手を確かめるように握るクモークを見詰めた。

『本気か?バートには言ったのか?』

クモークは項垂れるように首を下げたまま、首を横に振る。

『少し、中で話そう』
『はい』

まるで叱られる子供のように項垂れたまま、クモークは紅葉の手を引いて家に入ろうとした。
するとスーが、紅葉に向けて首を横に振る。

『セトゥナはいい』
『けど一応セトゥナにも……』
『いいんだ。どうせあの子は、私達が何を話していてもその内容は理解出来ていない』

クモークは目を見開き、息を呑み……
『やっぱり……』と呟きを漏らす。

『気付いていたのか……ならいい、セトゥナも来なさい』

スーに呼ばれ、紅葉は首を傾げながら家の中へと入る。
家に入ると、スーは紅葉に自分の隣いるようにと促した。

小さな古びた机をはさみ、スーとクモークは向かい合う。
紅葉はスーの隣に立ち、沈痛な面持ちの二人を不安そうに見ていた。

(何?こういう空気、苦手だわ……洗濯物だけでも、干してしまいたかったんだけど)

とは思うものの、やはり自分が原因だろうとは思う。

自分が何をしただろうと気を揉むのはすでに疲れた。
もう全てが面倒で、憂鬱で、今ここに立つ自分の時間が意味のないもののようで虚しい。

うんざりしながらもため息を飲み込んでいると、スーが重い口を開く。

『セトゥナを嫁にと考えてくれたことには、本当に感謝する。わしも老い先短い身だ。この娘のこれからを考えると、不安で仕方がない。お前のような男が、この子の支えになってくれれば有難いことはない』

紅葉は首を傾げた。
スーの瞳が、何処か寂しげに自分を見上げてくる。

『けどなクモーク、セトゥナはわし等が使う言葉が分からんのだ。すまないな……きっと、求婚されたことすら、理解していないだろう』

俯いたままのクモークが目を見開く。
ゆっくりと、恐れるように、クモークが顔をあげた。

クモークと目が合った。
紅葉はにこりと微笑み、首を傾げる。

紅葉が首を傾げると、先日贈ったばかりのタナムが揺れた。
その間から亜麻色の髪が微かに顔を出す。

(アイツの言ったことは、本当だったんだ……)

黒い雫が涙のようにクモークの胸の内に落ちる。
波紋は動揺となり広がっていく。

(嬉しそうにしてたのに、全部全部……)

心が凍えていく。
思い出が色褪せていく。

(俺の独り善がりだったんだ)

恥ずかしくて堪らなくなる。
虚脱感が全身を覆う。

そんなクモークの様子に眉を顰め、紅葉は顔を覗き込もうとする。
だがそれよりも早く、スーが頭を擦り付けるようにして机に頭を垂れた。

『この子も悪気はないんだ、言葉を理解出来ないなりに頑張っているんだよ。どうか恨まんでやってくれ、この通りだ!』

深く、深く、何処までも深く……

無言のまま、クモークの顔が悲しそうに歪む。
紅葉が眉を顰めるよりも早く、クモークは紅葉とスーから顔を背けた。

そんなクモークの、彼らしくない態度がますます紅葉を不安にさせる。

(なんだろう?私のこと……だよね?)

クモークが帰っていった後、スーは紅葉に何も言わなかった。
ただ一言、『大丈夫だ』と漏らし、部屋へと戻っていく。

(大丈夫?本当に大丈夫なの?)

せめて言葉が分かれば、何かをしてしまった後に謝るなり、行動を起こせただろう。

今はただ、不安と罪悪感のようなものが募るだけだ。
クモークの悲しそうな顔が頭から離れない。

(分からないけど……私はクモークを傷付けたのかもしれない)

翌日から、クモークは紅葉の前に姿を現さなくなった。

クモークが村を数日空けることは今までに何度もあったが、今は同じ村に居て、クモークがあえて紅葉を避けている。
ウィンブルも、森に入るときはラーレディルが居る為、姿を現さない。

家の前で、紅葉は小さくため息を漏らす。

ここに来てからというもの、その日その日の生活に忙しかった紅葉が初めて、生活以外のことを考えていた。
あちらの世界では人付き合いが苦手で、他人と距離を置いて接してきた紅葉が、初めて寂しいと感じていた。

『「セトゥナ、今日も土産を持ってきたぞ。なんだ、昨日持ってきてやった服は着ていないのか?」』

いつも通り、ラーレディルは村を訪れる。
いつも通り、クモークは目を逸らし、去っていく。
いつも通り、ウィンブルは現れない。

『「ドドウのタナムとレアレアだ。王都で扱う物に劣らない高級品だぞ、そんな安いタナムは捨ててしまえ」』

紅葉ははっとした面持ちでラーレディルの顔を見上げた。
ラーレディルが、クモークがくれたタナムを外そうとする。

紅葉は咄嗟にその手を振り払い、ラーレディルを睨み返した。

(あなたのせいよ、全部あなたのせいだ!)

『「な、なんだ?何を怒っている」』

口を開き、怒りを投げ掛ける。

半分は八つ当たりなのだ。
分かっていたが、不安定な感情が溢れ出して止まらない。

声も出せないまま金魚のように口をぱくぱくとさせ、仕舞いには自分が惨めで虚しくなり、紅葉は踵を返して森へと駆け込む。

『なっ、なんだというんだ!セトゥナ!「待て、セトゥナ!」』

呆気にとられた様に戸惑うラーレディルの声に振り返らず、セトゥナは森の中を走りながら涙を流した。
森を彷徨い、転び、次第に涙も枯れ果てた頃、空は紅葉の頬を茜色に染め始める。

紅葉は木に背中を預け、体を抱きこんだ。
少しずつ肌寒さが増してくる。

何も考えずに森の中を歩き、すっかり迷子になってしまった。

村にも帰り辛い。
ラーレディルはきっと怒って帰っただろうが、見るからに身分が高そうなラーレディルを怒らせ、ただで済むとは思えない。

遠くに獣の低い鳴きと甲高い悲鳴のような鳴き声が響いた。
まるで獣同士が喧嘩をしているかのようだ。

(やだ、怖い。こっちに来たらどうしよう)

しん……と、辺りが静まり返る。

紅葉は狂ったように脈打つ自分の胸に手を当てた。
寒さを忘れ、恐怖に体がガタガタと震える。

紅葉が木に掴まりながら、恐る恐る立ち上がった――その瞬間、背後から突然声が掛かった。

紅葉が飛び上がると、夕日を背に浴びる男が立っている。
男は釣られて驚くわけでもなく、紅葉を無言で見下ろしていた。

紅葉は眩しさに目を眇めながら、相手を見上げる。

『こっちだ』

(この人……)

村長のバートだと気付くと、バートは厳格な面持ちを崩すことなく、紅葉に背を向けた。
紅葉が困惑して立ち尽くしていると、バートは肩越しに振り返り、顎をしゃくる。

(何も聞かないって事は、もしかして村で大事になってたり……)

紅葉が青褪めるが、バートは特にどうという様子もなかった。

バートという男は強面で、滅多に口を開かない。
余所者の自分を疎んでいるように思える。

そんなバートが、自分を何処へ連れて行くのか。
村に戻ったら、今度こそ本当に捕まるか殺されるかもしれない。

紅葉が俯くと、背の高い草がバートの背中を隠して見失う。
はっとした紅葉が慌てて小走りにバートを追い掛け、草を掻き分けた。

「!」

バートの姿の代わりに、目の前に見慣れたキートラの村が広がる。
紅葉は暫しの間、草を掻き分けた姿のまま固まった。

(え?え?私……村の近くで迷子になってたの?)

周囲を見渡すが、すでにバートの姿はない。

重い足取りでとぼとぼと村に帰ると、スーが森と村を繋ぐ道の前でうろうろと歩き回っている。
紅葉が鈴を鳴らすと、弾かれたようにスーが振り返った。

『セトゥナ!』

スーの顔に安堵の面持ちが浮かぶと、スーは杖を投げ出し、悪い足を引きずって紅葉に駆け寄るなりその体を抱きしめた。

紅葉を捜している様子の村人の姿はない。
やはりと、安堵したようなショックを受けたような、複雑な感情が込み上げた。

(でもこの人は、心配、してくれたんだ……)

顔が青褪めるほどに……
体が震えるほどに……
見付けた途端、他人である自分を抱き締めて泣いてしまうほどに心配してくれたのだ……

(ごめんなさい、ありがとう)

本当に、この人の娘だったらよかったのに。

紅葉は折れてしまいそうなスーの体を抱き返す。
嬉しさと虚しさに涙が流れた。

そんな紅葉の視界に、隠れるように村の中に消えて行く人影が映る。

(クモーク……?)

紅葉は目を見開く。
心臓が大きく脈打つ。

(捜してくれたの?)

紅葉は森へと振り返った。
そして村へと向き直る。

今までずっと、来る者は拒まず、去る者は追わず……。
いつも人との繋がりは希薄だった。

知人と呼べる人はいたが、所詮は友人未満、親友と呼べる人はいない。
他人とは、人生の中ですれ違っていくだけの付き合いのように思っていた。

(仲直り、したい)

村の家々に灯りが灯り始める。

茜色の空は夕闇に呑まれ、まるでホルツの瞳の色のような紫に染まっていく。
白い月が、その姿を少しずつ鮮明なものへと変えていく。

(……ちゃんと謝って、お礼が言いたい)

声に出して、彼らの言葉で……。
紅葉は初めて強く、そう思った。





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