キートラ
〜5〜




「……」

紅葉はゆっくりと瞬きをする。
ラーレディルは自分の提案こそが紅葉の求める願いであるかのような顔で、紅葉が賛同するときを待っていた。

くすくすと声なく苦笑を浮かべ、紅葉は首を横に傾ける。
その仕草が何処か寂しげで、ラーレディルは意外な答えに眉を顰めながら、「帰りたくないのか?」と問い掛けた。

"帰りたいといえば帰りたいけど、私はもう死んでると思うんです"

車に轢かれたのだと告げる紅葉に、ラーレディルが「車とはなんだ」と不思議そうに問い返してくる。
説明に困る紅葉に、「まあいい」と呟き、ラーレディルは再び岩に腰を下ろした。

『「それはつまり、そなたがこちらの世界で生きる覚悟があるということだろう?」』

紅葉は地面の文字を消すと、複雑そうに地面を見詰める。

"なるようにしかならないと諦めているだけです"

途端に、ラーレディルが紅葉の前に立つ。
その足が、紅葉が書いたばかりの文字を踏み付け、ラーレディルは紅葉の手を掴み強引に立たせた。

『「くだらんことを言う娘だ。そなたにはウィンブルに与えられた力があるはずだ」』

明瞭な強い口調で、ラーレディルは紅葉の体を揺さぶる。

『「そなたがその力を使えば、世界すら動かすことも夢ではない」』

紅葉は目を瞬かせながらも、ラーレディルの瞳を見詰め返した。

みなぎる自信と、自身の価値を信じて疑わない真っ直ぐであり堂々とした瞳。
彼はそういった地位の、もしくは地位に手が届く人間なのだろう。

紅葉が顔を逸らすと、ラーレディルはため息を漏らす。

『「その気がないというなら、私の為にその力を使え。地位と名誉をやる、今より楽で贅沢な暮らしもさせてやろう」』

困ったように、紅葉はラーレディルを見た。
紅葉は声に出して反論など出来はしないのだが、ラーレディルは反論を許さないように早口に捲くし立てる。

『「この条件では不満か?ならば望みはなんだ」』

紅葉は少しの間考え込み、やはり困ったように苦笑を浮かべて首を横に振った。

"私はこの世界の事をまだまだ知らないんです。もし本当にそんなに凄い力を貰ったのだとすれば尚更、何も分かってない私がむやみに使ってはいけないと思うんです。無責任なことは出来ません"

ラーレディルは意外そうに、目を瞬かせる。
自国の言葉で「そうか」と呟き、何度か小さく頷く。

『「懸命な判断だな。とはいえやはり、私が信用ならんということか」』
"信用出来ない訳じゃないけど、私にはこれ以上何かに巻き込まれるほどの余裕がないんです。ごめんなさい"

ラーレディルは不満そうに腕を組み、紅葉を見下ろした。
紅葉は、申し訳なさそうにラーレディルから視線を落とす。

するとラーレディルは、思い付いたように身を乗り出した。

『「そうだ。私がそなたに、こちらの言葉を教えてやろう」』

紅葉は目を瞬かせながら、ラーレディルの顔を見上げる。
ラーレディルは自身の考えに頷きながら、紅葉の手を取った。

『「明日も来る。そなたの目で、私は力を貸すに値する人物であるかを見極めるがいい」』

困った面持ちになる紅葉を他所に、自信に満ちた笑みを浮かべるラーレディル。
とても断ることなど出来ない雰囲気に、紅葉はこっそりため息を漏らした。

必要とされることは、あまり慣れない。
人を頼る事も、どちらかというと苦手だ。
他人に執拗に構われても、困惑の方が大きい。

森を抜ける途中、ラーレディルは紅葉に忠告を残した。

『「ウィンブルは人に化けて紛れ込んでいることがある。奴にあまり気を許すな、いいな」』
「……」

紅葉が頷けずにいると、ラーレディルはじっと紅葉の目を見る。
そして、尊大な態度で子供染みたことをいう。

『「お前が頷くまで帰らん」』

紅葉が渋々頷くと、ラーレディルはイーブディを連れ、村を後にした。

まだ日は沈まず、空は晴れやかに青い。
だが、ファーテルに戻るまでにはすっかり日が落ちてしまっているだろう。

何処となく機嫌のいいラーレディルの姿に、イーブディは何度か声を掛けることを躊躇った。
暫く悩んだ末に意を決し、イーブディは前を行くラーレディルに遠慮がちに声を掛けた。

『ラーレディル様、結局あの娘は巫女ではなかったのですか?』
『いや、巫女だ。間違いなく巫女だろう』
『では何故、お連れしないのです?』

肩越しに、ラーレディルはイーブディへと振り返った。

『今連れ帰ったところで、単なる手柄にしかならん。あの娘が自ら、俺の為に働くよう仕込む時間が必要だろう』
『しかしそう上手くいきますか?権力や財に興味がないのでしょう?』
『ウィンブルには助けられたことがあると話していた。恩義を感じないわけではないだろう。ならば恩を売るまでだ。まあ、惚れさせてしまうのが一番確実な手だがな』
『ほ、惚れさせ……ですか。わたくしは賛同致しかねます。いくら国の為とはいえ、女性の心を弄ぶような真似事は……』
『お前は甘い。なに、責任はとる』
『責任、とは?』

イーブディが、不思議そうにラーレディルに問い返す。
見るからに屈強そうな男が目を瞬かせている顔は滑稽だった。

だがイーブディを笑うわけでもなく、ラーレディルは一人くつくつと愉快そうに笑い返した。

『巫女が愛妾では見栄えが悪いだろう。磨けば見目もなかなかの顔だ、俺の正妻にしてやってもいい』
『……は?』

不思議そうな顔が、呆気にとられた面持ちで目を瞬かせる。

ファーテルの町に入る関所が遠くに見え始めた。
クローム色の壁がぐるりと大きな町を囲んでいる。

ラーレディルは騎獣の速度を上げながら、肩越しにイーブディへと振り返ると、口角を吊り上げた。

『俺は先に行くぞ。露店が閉まってしまうからな!』
『ラ、ラーレディル様?』
『やはり、女と会うのに手ぶらでは俺の面目が立たんだろ?お前はゆっくり来い』

地面を蹴る音が、声と共に遠ざかっていく。
イーブディは小さく口を開いたまま、その気がなくとも主の姿を見送ることとなる。

(このお方は……やはりあの方の弟君だ)

イーブディは手綱を握る手に力を込めた。
不安が津波のように押し寄せる。

(……どうか、道を踏み外されますな)





ラーレディルは言葉の通り毎日紅葉の元に通い、言葉を教えた。

感謝はするが、迷惑でもある。
ただでさえ家事で忙しい中、ラーレディルが訪れるのだ。

スーはいい顔をしない。
その上、村人達の遠巻きないぶかしむ視線とひそひそと会話をする声に晒されている。

さらには、ラーレディルが土産と称して持ってくる物はこの村では高級品とされるような物ばかりで、それがいつ村人達のひがみに火をつけるか冷や冷やしていた。

(人付き合いって面倒だわ……)

一々監視してくる村人達に気を使い、強引なラーレディルに振り回され、不機嫌なスーの顔色を見て過ごす。
そんな毎日が続き、日に日に疲れとストレスが溜まっていく。

ラーレディルを見送り、いつも以上に居心地の悪さを感じながら家に戻ろうとすると、村長バートの忌々しげな声が耳に届いた。
言葉の意味は分からないものだが、悪意だということだけは分かるものだ。

(どうせこういう生活なんだし、いっそ山奥でひっそり暮らしたい)

紅葉はため息を漏らし、隠れるように家のドアを閉ざした。

ドアの蝶番が軋む音すら耳障りだ。
ため息を漏らすと、苛立ちがますます募った。



その日の夜、紅葉はベッドを机代わりに、ラーレディルが簡素に纏めてくれた単語帳に目を通していた。
ベッドの隣の小さな机では、蝋燭が唯一の灯りとなり、文字を照らし出す。

付け入るかのようにうとうとと、睡魔が押し寄せてきた。
もう少し頑張ろうと自分に言い聞かせるが、瞬きと共に紅葉の顔はベッドにゆっくりと倒れ込む。


睡魔は疲れ果てた体を羽のように包み、奈落の底へと放り出した。

何処までも落ちていく感覚の中、ふいに光が差し込み、瞼を起こせば闇が鮮やかな空色に染まる。
雲の隙間を滑るようにすり抜け、穏やか風を受け止めながらゆっくりと緩やかに落ちて行く。

緑に覆われた大地がはっきりと見え始めた頃、瞬きをひとつ。
途端に、目の前に鮮やかな緑に染まる森が広がった。


体が吸い込まれる。

村へと続く一本道を、カポカポとリズミカルな騎獣の蹄に、カラカラと車輪の回る音。
馬車の姿を見掛けた村人が、顔色を変えて村へと駆け戻り、叫ぶ。

『エフルクが来たぞ!女を隠せ!』

瞬きに、一瞬にして場面が変わる。

『じいさん、あんたが匿ってる娘を出せ!』

家の外から村人達の大声が聞こえていた。
スーは無言で床下に紅葉を押し込み、蓋をする。

光が完全に閉ざされた。

人が流れ込んでくる足音が響く。

ギシギシと頭上を歩く音。
それと共に、紅葉の耳には心臓の音が木霊する。


紅葉は息を呑み、瞼を起こした。


天井を見上げたまま、全身でため息を吐き出す。
呼吸をするたびに肩が揺れる。
首筋を汗が伝い落ちた。

机の上ではゆらゆらと、短くなった蝋燭の炎が揺れていた。





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