キートラ
〜15〜
ラーレディルは紅葉の隣に腕を組んだまま立つと、草原を眺めながら淡々と報告を始めた。
『「そなたのことは私が一時的にファーテルで預かる事になった。一応、初対面ということにしてあるから、適当に話をあわせてくれ。それと……」』
紅葉は立ち上がると、隣に立つラーレディルの横顔を見上げた。
『「ルサベルクの話では村人に暴力を振るわれそうになったらしいな?今、そなたが村に行けば二の舞だ。キートラに寄ってやるわけにはいかん、必要なものがあれば後で誰かに取りに行かせる。いいな」』
その言葉に、紅葉は困った面持ちになる。
小さく口を開き掛け、地面に文字を書いてスーのことを訊ねようとした紅葉を制し、ラーレディルは続けた。
『「スーという老人のもとにはイーブディを向わせた。覚えているか?いつも付いてきていたあのでかい奴だ」』
こくりと頷き返す。
不安に揺れる紅葉の瞳には、収束に向う事態を最後まで見届けようとする意志を感じた。
ラーレディルは周囲に一瞥を向けると、紅葉と向き合い、集まっている兄弟達から会話を遠ざけるように声を落とす。
『「ここは兄が統括権を持つ地ゆえ、本来私にはとやかく口出しできる場所でもなければ、エフルクを裁く権限もない」』
"つまり、あまりよくない結果と?"
ラーレディルはばつが悪そうに頭を掻く。
『「そうだな。この件を公にはしない方向で決まった」』
"村はどうなりますか?"
『「そのことだが……キートラはエフルクが治めるコーヴェラにある。そこでキートラの領有権を私が預かるファーテルの領主に預け、キートラをコーヴェラ領から改めファーテル領にするか、領有権はそのままに、奴の私財からキートラの復興費を出させるかと迫ってやった」』
黒い双眸が、答えを促すようにラーレディルを見上げた。
闇灯りの中でも、睫毛が黒いことが分かる。
タナムから覗き見える髪は月明かりの下でも亜麻色だというのに、不思議でならない。
『「奴は後者を選択した。私も時々復興状況の視察に来るということで兄も賛成してくれた。最後まで責任を持って復興を見守るつもりではあるが、現段階ではこれが限界だ」』
ゆっくりと、大きな黒色の瞳が瞬きをした。
風に揺れるタナムを手で押さえる紅葉が、タナムを留めるレアレアを失くしている事に気付く。
暗くて気付くことに遅れたが、よく見ればその手も傷だらけだ。
少女はしずしずと視線を地面に落とした。
何かを悩むように、覚悟を決めるように……。
そして、澄んだ眼差しがラーレディルを見上げた。
"違っていればお詫びしますが、ひとつ、失礼なことを伺っても宜しいですか?"
『「なんだ?」』
さらさらと声の代わりに文字を紡ぎ、手を休めることなく、紅葉はラーレディルの掌に新たな文字を刻む。
"こうなるように、エフルクという人を仕向けたのはあなたですか?"
ラーレディルは目を見張り、じっとこちらを見詰める紅葉を見下ろした。
紳士的な態度であったラーレディルの纏う雰囲気が、何処となく様を変える。
組んでいた腕を解き片手を腰に当てると、ラーレディルは片足に重心を掛けながら口元に弧を描いた。
『「私ではない。だが詫びを入れる必要はないぞ」』
尊大な物言いで告げるラーレディルを、ただじっと見上げる瞳。
まるで人形のように、紅葉の表情は変わらない。
『「私がエフルクの動きを知り、泳がせ、利用してやるつもりだったことには違いない」』
紅葉はラーレディルから顔を背け、腕を抱え込む。
「だが」と付け加えられた言葉が、紅葉の視線を引き戻す。
『「クモークという青年が堂々と介入できる理由を持ってきてくれたお陰で、私にも都合がよく事が運んだ。そうでなければエフルクから都合良くそなたを救い出し、私に恩義を感じるよう仕向けるつもりだった」』
声のないまま、紅葉はクモークの名を呟いた。
ゆっくりと背を向け、紅葉はラーレディルから離れるように足を踏み出す。
音もなくしゃがみ込むと、掌で砂を撫で、小石で文字を刻んだ。
"あなたは、予知の力を何に使いたいのでしょう?"
肩越しに振り返り、ラーレディルを見上げる紅葉。
ラーレディルはくつくつと肩を揺らして笑う。
『「やっと、私の目的を聞いたな」』
視線を地面へと戻し、紅葉は無言で返した。
『「以前にも名乗ったが、私はラーレ=ディル・エルイディア。エルイディアはこの国の名であり王家の名でもある。ディルとは王の二人目の嫡子――つまり、第二王位継承者に与えられる名だ」』
紅葉の背中に影が掛かる。
月を背に、最高権力に近い男は生まれたときから与えられたその力を、当然のように受け入れていた。
だからこその自信とカリスマなのかもしれない。
『「ハーナ=シェルのシェルは第一王位継承者に与えられる名、つまりは今のところ兄が次の王に当たる。しかし兄は政治に向かん人だ」』
紅葉はゆっくりと、エークヴァルと話をしているハーナシェルの背中を見た。
面倒見が良さそうな好青年であり、纏う雰囲気は非常に紳士的で柔らかい。
『「一応王になるつもりではいるようだが、政治に興味が薄い。温厚で争いを嫌い、人を疑うことを知らなければ、悪意というものに疎い。今回とて、エフルクは自分の為にやったことだから悪気はないのだと言い出す始末だ。兄を人としては尊敬するが、王としては認められない」』
ラーレディルは紅葉の顔を見る。
彼の顔には迷いも躊躇いもない。
出会ったときから変わらない、自分を信じる男の顔だ。
『「王の遺言さえなければ兄が王になる。だがセトゥナ、分かるだろう?兄が王になるということがどういうことか」』
"エフルクのような人が権力を握ってしまう?"
『「そうだ。その結果、苦しむのは下々のもので、いずれ国は倒れる。見過ごしていられるか?」』
ラーレディルが足を踏み出す。
砂を踏む音が紅葉の耳に届き、紅葉は隣に立ったラーレディルの顔を見上げた。
ゆっくりとラーレディルが体を屈め、しゃがむ紅葉の手を取る。
『「そうならぬ為に、そなたの力で私を王座に導いて欲しい」』
大きく瞬きをひとつ。
そして紅葉はくすりと笑みを漏らし、悪戯をするような顔をして首を横へと傾けた。
"あなたのような方が、自分の力で王座に就く自信はないのですか?あなたが利用したがっている力は、あなたの嫌うウィンブルのものですよ?"
『「なかなか言うな……」』
ラーレディルは苦々しく笑う。
『「王も一人の人間。一人の人間に出来ることなど限られている。それを補う為に臣下がいて、それをいかに上手く扱うかが重要だと思わんか?」』
"私も、あなたの臣下になさるおつもりですか?"
『「不満か?」』
"きっとそれは光栄なことなんでしょうね"
『「当たり前だ。だがそなたには臣下よりも光栄な地位を――」』
紅葉は言葉を遮るようにラーレディルから手を引くと、立ち上がりラーレディルに向き直った。
スカートの裾が翻る。
何かを吹っ切ったような微笑みと共に、紅葉はラーレディルの手を取った。
それは色好い返事を期待させるだけもので、紅葉が手を求めると、ラーレディルは手を差し出す。
紅葉はラーレディルの掌に文字を書いた。
"寝ないで走り回ったりして疲れちゃいました。人と関わるのってやっぱり面倒ですね"
言い掛けた言葉も忘れる勢いで、ラーレディルは唖然とした面持ちになる。
ラーレディルの顔を見上げ、紅葉は声なくくすくすと笑みを漏らした。
紅葉が笑うと、腰の鈴が控え目に音を立てる。
"私が協力しなくても、あなたは王になると言っても協力は必要ですか?"
『「そんな先の未来まで見えているのか?」』
紅葉は曖昧に首を横に振りながらも、はっきりとした否定はしない。
"今回のことでつくづく思いました。私はどこかの人里離れた山奥で、ひっそりのんびり過ごしたいです"
『馬鹿を言うな。「そなたの存在はすでに兄達に知れているのだぞ。そんなことが通用すると思っているのか?」』
小さく肩を竦め、紅葉は苦笑を浮かべた。
彼女の笑みにはやはり声がない……だが、それが強く印象に残る。
"あなたが王になるまででよろしければ、ご協力致しましょう"
『「私が王になるまで?」』
こくりと頷き、その条件でどうだと問い掛けてくるような瞳が何処となく無邪気に感じた。
『「それで、私が王になった後、そなたはどうするんだ?」』
"山奥かどこかで隠居したいですね"
『……』
眉間に皺を刻み、ラーレディルが黙りこくる。
暫しの沈黙の後、ラーレディルが呆れ混じりの長く長いため息を漏らした。
『「今こうして話をしている未来も、そなたには見えていたのか?」』
言葉でも文字でもなく、紅葉はくすくすと笑うのみ……。
国が巫女を手放すと本気で思っているのだろうか?
彼女の考えは浅はかにも感じるが、恐らく"それ"を報酬として求めているのだろう。
そうだとすれば、最も実現力のあるであろう自分を交渉相手に選んだ可能性がある。
浅はかなようでありながら、その陰に確かな強かさを感じる。
ラーレディルはもう一度、紅葉から顔を背けてため息を漏らした。
(全く……本当に扱い辛い女だな。散々利用されるか、下手を踏むと、見限って他の誰かに乗り換えられそうだ)
だが、それを面白いと感じている自分がいることも確かだ。
黒い瞳を見詰め、ラーレディルは尊大に力強い笑みを浮かべる。
『「いいだろう。交渉成立だ。気が変わったらいつでも言え」』
"はい"
紅葉がおっとりとした面持ちで笑う。
はたして何処から何処までの未来が見えていたのか、考えることすら無駄なことのように思えてくる。
やはり強かな女だと、ラーレディルは苦々しい思いで舌を巻いた。
『「これからよろしく頼むぞ、セトゥナ」』
"こちらこそよろしくお願いします"
「それと」と、紅葉は書き加える。
"私の本当の名前は紅葉、モミジと申します"
『は?』
ラーレディルは、今更ながらの訂正に目を丸くして紅葉を見た。
申し訳ない顔をしているのならば、まだしも……
全く悪びれた様子もなく、紅葉は地面に文字を付け加える。
"セトゥナっていうのは、スーおじさんの家族からお借りした名前なんですよ"
『「そういうことは先に言え!おかしいと思っていたのだ、さてはその髪も偽物か!?」』
ラーレディルが逃げようとする紅葉のタナムを引っ張った。
タナムを剥ぎ取られ、逃げる体勢の紅葉が非難の眼差しを向けてくる。
"髪ってなんのことですか?"
『「ウィンブルが選ぶ娘の髪色は、黒と決まっている」』
"私の髪も黒ですよ?"
紅葉は肩に掛かる髪を指先で摘み視線を落とす。
ラーレディルから見ると、その色はどうみても亜麻色だ。
『「やはりカツラか!そのせいでどれだけ悩まされたことか!」』
"地毛ですってば。染めてるんです、ほら生え際はもう黒くなっちゃってるでしょう?"
『なっ!そ、「染めているだと!?何故わざわざ黒髪を!」』
"え?何をそんなに怒っているんですか?あっちではそういうのが流行ってるだけですよ"
『「そんなくだらん理由で、神聖な黒髪を染めるな!?」』
大声をあげるラーレディルに対し、紅葉は不満そうな顔で首を竦める。
ハーナシェルやエークヴァルが不思議そうにこちらを見た後、顔を見合わせて首を傾げていた。
ラーレディルは疲れたように、わざとらしく息を吐き出すと、『「他には?」』とぶっきら棒に訊ねてくる。
紅葉は首を傾げた。
『「他に、何か隠していることはないか?」』
「……」
暫し考え込む。
そして、紅葉は思い出したように両手を合わせた。
「『おはよう』、『こんにちは』、『さようなら』?」
『なっ……!?』
ラーレディルの顔が、面白いほど見事に引き攣る。
端正な顔が、あんぐりと口を開いて固まっている光景が、紅葉には面白おかしい。
『声が出るのか!?』
「?」
声を荒げるラーレディルに首を傾げ、紅葉はいそいそと地面に文字を書いた。
"私も昨日気付いたんです。でも考えてみれば、ホルツは私の「言葉」を貰ったって言ってたんです"
『「それはつまり?」』
"この世界の言葉なら、覚えさえすれば喋れるんじゃないかと"
暫しの間、紅葉にとっては気まずい沈黙が流れる。
ラーレディルの顔がやつれて見えるのは気のせいだろうか……。
ラーレディルはげんなりとした態度でこめかみを押さえた。
『「……この私をここまで振り回してくれた者はそなたが初めてだ」』
"光栄です"
にこりと、紅葉が悪戯染みた笑みで笑う。
疲れた顔をしていたラーレディルが、ふっと力を抜いたように笑みを浮かべる。
その顔は、やはり兄弟だと思うほどにハーナシェルによく似ていた。
ふいに闇が辺りを包み、光に覆われ、そして体が空へと投げ出されるように降り注ぐ――…。
それはおそらく、遥か未来のことだろう。
そこが何処かは分からない、見たことのない光景だ。
小高い丘の上に立ち、紅葉は一人の男と鮮やかな赤い屋根が並ぶ町並みを見下ろしていた。
通りには花や紙吹雪が舞い、賑やかな演奏が風に乗り、この丘にまで届いてくる。
遠巻きにも分かるほどに活気に溢れた人々が、通りで所狭しと踊り合う。
人々の"生気"とでも言うのだろうか?
皆がその場で今を生きる姿が、とても楽しそうな喜びに満ちている。
ひしめき合う町並みの先には丘よりも更に高い地に建てられた灰色の城が聳え、旗が威風堂々と風を浴びて靡いていた。
隣に立つ男は熱心に街を指差し、紅葉に何かを語り聞かせている。
未来の紅葉は、相槌を打ちながら静かに微笑みを漏らしていた。
紅葉は隣に立つ男の横顔を見上げる。
逆光が男の顔を隠していた。
だが、空色の髪ははっきりと見てとれた。
風が紅葉の白いタナムを揺らす。
タナムの下で、いまよりもずっと長い黒髪が風に泳ぐ。
紅葉へと振り返った男が、力を抜いたように穏やかに微笑む。
それはハーナシェルのようであり、今さっき、ラーレディルがそうして笑った顔にも似ていた。
紅葉は瞼を起こし、目を細めた。
当然のように「どうした?」と訊ねてくるラーレディルに、紅葉は暫し目を瞬かせ、ただ穏やかに微笑み返す。
"いま、未来が……"
紅葉は地面に書き掛けた言葉を止めた。
ハーナシェルとエークヴァルが、ラーレディルに声を掛けて空を指差している。
釣られるように、二人は空へと顔を向けた。
黎明の空の下、太陽が辺りを白に染めていく。
振り返った瞬間、鈴の音が小さく鳴り響いた。
美しい朝焼けに目を奪われるラーレディル。
柔和に目を細めるハーナシェルに、小さく口を開いたまま雄大な自然に目を奪われるエークヴァル。
三人の兄弟の横顔を見上げ、紅葉は地面に書き掛けた文字をそっと消した。
『「それで、今何を言おうとしたんだ?」』
紅葉は振り返るラーレディルの顔を見上げ、瞼を伏せて静かに首を横に振る。
今はまだ亜麻色の短い髪が揺れた。
"お礼を言いたかったんです"
『「そうか」』
ラーレディルが穏やかに目を細め、言葉を返す。
未来は変えられることを知った。
滅多な事では変わらない未来。
些細な事で変わる未来。
何がきっかけで、何がどう転ぶかなど、紅葉にはまだ分からない。
こうして迎えた結果が、"ハッピーエンド"だったのかもまだ分からない。
もしかしたら、数分後にはこの選択を後悔しているかもしれない。
だがひとつ確かな事は、人とのつながりを希薄に生きてきた紅葉の運命を変えてくれたのは、クモークやスーの絆だったということ。
(ホルツ……あなたは私を殺そうとしたんじゃないのね)
未来を変える為に起爆剤を打ち込んだのだ。
(疑っておいて、勝手なことを言うけど……少しの間、あなたの予知の力を使わせて欲しい……)
ウィンブルの姿は見えない。
だが何処かで見守ってくれている気がする。
「ごめんね」と、心の中で呟く。
ラーレディルに強制されたわけではない。
自分で選び、未来へと足を踏み出したのだ。
紅葉は胸の前で手を握り締め、顔を出した太陽の中に身を置いた。
白い光が辺りを包み込み、太陽は昇る。
それぞれが望む輝かしい未来を得る為、今日も一日が始まろうとしていた。
―To be continued…―