キートラ
〜14〜
その頃、コーヴェラ領の街道では……。
『ディ、ディル殿下!?』
エフルクが上ずった声を上げ、騎獣から転がるように降りた。
他の者達も転がるように騎獣から降り、片膝を折って跪く。
取り残された紅葉が降りようと苦戦をしていると、ラーレディルが先に騎獣を降り、紅葉に歩み寄り手を差し出した。
それは女性に対する紳士的な態度というよりは、ややぶっきらぼうなものに感じた。
『「俺の手はいるか?」』
紅葉は苦笑のような笑みを浮かべ、こくりと頷き返す。
『「それでいい」』
満足そうに口角を吊り上げる笑みは、初めて泉で出会ったときのように自信に満ち溢れたものだ。
ラーレディルは紅葉の手を掴み体を引き寄せると、両手が紅葉の体を抱え上げ、地面へと降ろす。
紅葉はラーレディルを見上げると、小さく微笑んだ。
そしてラーレディルに向けて左手を差し出す。
最初は首を傾げたラーレディルだが、促されるまま手を差し出すと、紅葉はラーレディルの手に右手の人差し指で丁寧に文字を書いた。
"あなたが来てくれる未来を見ました"
『「やはり……そなたがウィンブルに与えられた力は予知か」』
こくりと、小さく頷き返す。
ラーレディルはため息を漏らすと、もう片方の手を腰に当てた。
少しの衝撃で再び崩れかねない岩塊の上を、こちらは命懸けで抜けてきたのだ。
何度も騎獣が着地した岩が崩れて転がり落ち、冷や汗を掻きながら騎獣の手綱を握り操り、あの長い道を抜けてきたというのに……。
紅葉にはすでに、自分がここにこうして現れる未来が見えていた。
命懸けの覚悟が無駄に思え、疲れが押し寄せる。
"危ないことをなさりますね"
『「そうでもしなければ、俺にとっては不都合なことになるからな」』
"もう一人、あなたに似た人の夢を見ました。ご兄弟は?"
『「俺に似ているのならば兄上だろう。どんな内容だ?」』
兄の話題が出ると、わずかばかりラーレディルの顔が引き締まった。
紅葉は静かに首を横に振る。
"書き換えられた未来だと思います。その方と、彼と、そして私がいた夢です"
紅葉の視線がエフルクに向けられると、エフルクはすっかり青褪めていた。
兵の後ろに隠れるようにして、ガタガタと震えている姿はいっそ哀れだ。
『「セトゥナ、そなたは今自分が置かれている状況が分かるか?」』
"全く分からないわけではありませんが、出来れば教えて欲しいです"
エフルクはキートラの村に火を放った。
紅葉にとってそれは許せないと思うことではあったが、ラーレディルやこの国のものにとっては、仕方がない、当然だと思うことなのかもしれない。
否、やはり悪いことだとは思うが、ラーレディルという男が、それを悪いことだと思ってくれるかどうかは怪しい。
『「あの男は、予知の力を持つそなたを兄に差し出そうとしている。自身の出世の為にな」』
"では、あなたと一緒ですね"
ぴくりと、ラーレディルの表情が強張る。
紅葉は瞼を閉ざすように微かに頭を垂れ、再び顔を上げた。
何処となく寂しげな雰囲気を浮かべながらも、その顔は変わらずに微笑んでいる。
"そういう考えを否定はしません。ただ、前にも言いましたがこの力で無責任なことは出来ません"
微笑みが色を変え、真摯な眼差しが射抜くようにラーレディルの顔ではなく、真っ直ぐとその瞳を見詰めた。
まだよく知らない間柄ではあるが、他者との関りを柳に風と受け流すような態度にあった少女が、この数日で何かがあったのかと思わざるを得ないほどに毅然とした態度で自分と向き合っている。
以前断られた言葉と同じ言葉を口にしながらも、その言葉の意味と重みは全くといっていいほどに違って感じた。
物怖じしない紅葉の視線が、ゆっくりとラーレディルから剥がされていく。
ラーレディルは憮然とした面持ちで腕を組むと、ため息を漏らした。
『「ひとまず奴と話しをする。そなたとの詳しい話は後だ、少し待っていろ」』
紅葉は静かにゆっくりと、こくりと頷き返す。
恐らく紅葉は、この先の未来も知っているのだろう。
それは底知れぬ不安を感じさせる。
(手の内に引き擦り込むことが出来ればいいが、逃せば邪魔な存在だ)
ラーレディルはエフルクの名を鋭く呼んだ。
兵達が自分の後ろに隠れるようにしているエフルクを肩越しに見やり、エフルクの前から退く。
『待たせたな』
『い、いえ。どうぞごゆっくり』
『そうもいかん。エフルク伯、この娘はなんだ』
『近くの村から新しく奉公に迎えた娘でして……』
『ほう。たかだか奉公の娘を領主自ら、ましてや兵をこれほど伴ってお出迎えとは、下々の者に対してまで気の回る男だな』
『は、はあ。いえ、最近この辺りはですね、盗賊が出る為』
『まあそんなことはどうでもいいが、近くの村というのはキートラだな?』
『は、はぁ……』
エフルクが目を泳がせながら頷き返す。
ラーレディルは前へと足を踏み出した。
その顔が怒りに染まっていることに気付くと、エフルクは思わず一歩、足を引く。
その時、頭上に若い男の声が響いた。
『ディルさまー!やっと追い付きましたよー』
『ちっ……ルサベルクめ』
場にそぐわない陽気な声は一瞬にして辺りの空気を壊す。
場違いな雰囲気を放つ青年の姿を確認すると、迷惑そうな面持ちをしたラーレディルが聞き取れないほどにぼそりと、青年の名を吐き捨てた。
騎鳥をいつも愛用している鳥獣ではなく、夜目の効く鳥獣に乗り換えたルサベルクが空から手を振ってくる。
だが、ルサベルクの後ろに目を向けたラーレディルは、ルサベルクへの苛立ち以上の驚きに、弾かれたように目を見開き眉を顰めた。
無意識にか、姿勢が正されたラーレディルを横目で見やり、紅葉は空を見上げて目を凝らした。
空に白く浮かび上がる小さな箱のようなもの。
鳥達が抱えて飛ぶそれを、ラーレディルは忌々しげに睨み付ける。
『兄上の鳥籠……!エフルク伯、そなたが呼んだのか?』
『い、いえ。滅相も御座いません!』
首が飛んでいきそうなほどに横に振るエフルク。
ラーレディルはゆっくりとこちらに向けて高度を落とし始める鳥籠を見ながら、鋭い声音で問い掛ける。
『ひとつ聞くが、この娘はウィンブルが異界から連れ帰った娘だな?貴様、国に報告もせずに兄上にのみそれを知らせたのか?』
『お……仰る意味が』
『兄上に聞けば分かることだ。今なら今しがたの言葉、撤回させてやらんでもないぞ』
鳥籠を睨むように見詰めたまま、エフルクには目もくれずに吐き捨てるラーレディルの顔を見て、エフルクは青褪めた顔で唇を戦慄かせた。
空は深く深く、夜に染めれていく。
同じ頃、ファーテル領主の屋敷の一室では、青年が月を背に、懺悔のように一言一言を言葉として紡ぎだしていた。
ぽつりぽつりと紡がれる言葉は、夜の闇に木霊することなく吸い寄せられていくかのようだ。
夜になっても賑わうファーテルの街は、大通りの露店が灯りを灯し、昼と変わらぬ明るさだった。
だがそんな賑わいにすら背を向けるように、屋敷の一角で椅子に座る青年の声は小さく儚い。
『私達は領主の弾圧を恐れて、自分達のことだけ考えてきました』
クモークは椅子に座りながら、両膝の上に手を付き、まるで許しを請うように項垂れていた。
『領主よりも、騒ぎ立てるスーじいさんの方が悪者みたいに、皆が皆、スーじいさんを避けるようになっていって、スーじいさんもそんな村人達を仇のような目で見るようになっていったんです』
スーの冷たい眼差しが脳裏を過ぎる。
スーの姿を見付けると、そそくさと避けて通る村人達の姿が日常の風景として当たり前に感じていた。
いつしか自分の中でも、スーという男は変わり者で避けられても仕方がない人物なのだと思ってしまっていた。
『でもセトゥナが狙われて、俺……私にも、やっとスーじいさんの気持ちが分かったんです』
村にいて、何処かに置いてきてしまった感情……。
いつの間にか、道からはずれたことが当たり前になっていたことにすら、気付かずにきた。
『今回、俺がしたこと……俺は間違ってない』
『そうでしょう?』と、問い掛けるように向けられる眼差しは、何処かでも頼りなく不安をたたえていた。
『俺もスーじいさんも、絶対に間違ってないはずなんだ!』
『……間違っていないよ、君は正しいことをしたんだ。よく頑張ったね』
穏やかな微笑みと共に、綺麗な手がそっと頭を撫でる。
ずっと胸の奥で固まっていたものが、溶けて流れ落ちていくかのような気がした。
訪れる者もほとんど居ない為、閉鎖的なキートラの村。
だがその影で村人達は罪を隠し、その罪が暴かれることを何よりも恐れ、より一層余所者を拒むようになっていた。
そして、今となってはその罪を暴く為に……
一人の少女が舞い降りたのだと思えるほどに、クモークにとって紅葉という少女は神聖だった。
それは空に輝く青白い月のように控えめに、何処までも柔らかい光。
同時に儚くもある。
初めて出会ったその日、そんな月明かりの下に、紅葉は溶け込むように立っていた。
そして今、紅葉は月明かりの下で太陽のような気性の青年の隣に佇む。
夜風に白いタナムを揺らしながら……。
『ラーレ!こんなところでどうしたんだい?こんなに汚れてまたやんちゃをしていたのかい?』
『兄上こそ、何故こちらへ?』
『エフルクがウィンブルの巫女らしき娘を見付けたと報告をくれてね。使者を向わせようかとも思ったんだけど、一刻もはやく会いたくて自ら飛んできたのさ』
鳥籠から降りてきた青年は、ラーレディルに駆け寄るや否や、刺繍が施された絹の布を取り出してラーレディルの顔を拭い始める。
同じく鳥籠から降りてきたもう一人の少年は、不思議そうに崩れた崖を見て目を瞬かせていた。
紅葉が取り残されたようにその様子を見ていると、先程大声でラーレディルを呼んでいた青年が紅葉に笑い掛けてくる。
蜜柑色の髪をした愛嬌のある顔をした青年は、村人に殴られそうになった紅葉を助けてくれた青年だった。
紅葉は笑い掛ける青年に対し、心の中で「ラーレディルの関係者だったのか」と苦笑染みた笑みを返す。
すると、ラーレディルの世話を焼いていた青年が紅葉の顔を見て、品良く輝きが溢れ出るような微笑みを浮かべた。
『初めまして、お嬢さん。私はハーナ=シェル・エルイディアと申します。こちらはエーク=ヴァル、私の弟です』
『兄上。彼女は我々の言葉を理解していません』
『ああ、ではやはり彼女なのかな?エフルク伯』
ラーレディルが告げると、ハーナシェルは小さくなっているエフルクに声を掛ける。
びくりと肩を揺らしながら顔をあげたエフルクは、まるで金魚のように口をぱくぱくとさせて歯切れの悪い返事を返すばかりだ。
ラーレディルは横目でエフルクに一瞥を向けると、肩を竦めて兄へと告げる。
『彼女はあの崖が崩れることを予知し、身をていし彼等の命を救ったそうですよ、兄上。巫女であることは間違いありません』
『へえ、それは凄い。だからこんなに汚れてしまっているのでしょうか』
エークヴァルが紅葉を見て、微笑みながら首を傾げる。
エークヴァルは十四、五の少年だった。
抜けるように白い肌のみならず、髪色までハーナシェルやラーレディルよりも薄い色をしている。
まるで人形のように睫毛も長く、手足も細い、何処か病弱そうな印象だった。
対するハーナシェルは、何処となく残念そうな面持ちで紅葉を見ている。
二人の視線を感じた紅葉は、改めて自分の姿を見下ろし、砂に薄汚れたみすぼらしい自分の姿に気が付くと、途端に恥ずかしくなった。
『兄上、大事なお話があります』
『どうしたんだい、ラーレ。そんなに改まって』
想像と違った巫女の姿に興味をなくしていたハーナシェルが、苦笑と共にラーレディルに問い掛ける。
ラーレディルは強い口調と眼差しでハーナシェルを見た。
エークヴァルは何処となく似ているという程度に留まっているが、ハーナシェルとラーレディルは一目で兄弟だと分かるほどに良く似ている。
だが、凛然としたラーレディルに対してハーナシェルは柔和な雰囲気を纏い、悪く言えば頼りなく、ラーレディルに呑み込まれてしまいそうだ。
現に今も厳しい面持ちをしたラーレディルに、ハーナシェルは「何を怒っているのだろう」と言いたげに気後れした様子だった。
『今日の明け方、キートラの青年がファーテルに滞在している私の元に直訴に訪れました』
『キートラの?キートラはファーテルではなく、エフルク伯のコーヴェラ領だったと思うけど……どうしてファーテルにいたラーレのところに?』
青褪め俯いていたエフルクが顔をあげる。
途端にラーレディルの冷ややかな眼差しに睨まれ、ハーナシェルの面倒ごとに対し興味がない淡白な視線に晒された。
『エフルク伯が度々税収を偽り、村の娘を攫っているといった内容の告発を受けました。一刻を争う様子だった為、真実か否かを確かめる為に私が直接駆け付けた次第ではありますが……是非とも真偽をエフルク伯の口から聞きたいと思っていたところです』
『それが本当ならば、許しがたいことだね。どうなのかな、エフルク伯』
ハーナシェルの困った眼差しがエフルクに向けられる。
エフルクの頬を、だらだらと脂汗が流れ落ちていく。
すると、ハーナシェルはやはり困ったように笑みを浮かべながら、組んだ腕から右手を軽くあげて見せた。
『実はね、ラーレ。私もそこの彼に連れられてきたんだ』
『は?』
ラーレディルは眉を顰め、へらへらと笑っているルサベルクの顔を見る。
『いやー、報告が遅れて申し訳ありません。シェル殿下の使者の方に来て頂こうと思ったら、まさかの大物が釣れたって感じで』
『ルサベルクッ!兄上……礼儀のない奴で申し訳ありません』
『いやいやおもしろいよね、彼。まあ話を戻すけど、彼の話ではエフルク伯は娘を調達する為にキートラの村に火を付けるように指示をしたというんだよ。どうなのかな?エフルク伯』
ハーナシェルは柔和な目を細め、小首を傾げた。
さらりと肩から流れる孔雀色の髪も、弧を描く瞳も唇も、柔らかな声音も、どれをとっても子供に問い掛けるかのような柔らかな優しさを宿し、言葉を忘れさせてしまうほどの微笑みとなる。
だがそんなハーナシェルの顔を直視することも出来ず、伏せられた顔の下でエフルクは瞬きを忘れて震えていた。
頬を流れ落ちる汗が地面を濡らす。
エフルクの耳には、自身が築き上げてきたものが音を立て崩れ落ちていく、そんな音が聞こえていた。
その一方で、始まりがある。
それは些細なことから大きなことまで……。
今というこの時が、多くの人々の運命に関わる大きな分岐点になったのだ。
紅葉は自らの瞳に移り行こうとする人々の命運を握る彼等を映し、流れゆく言葉の意味は理解できないが、これからについて話し合う彼等を静かに見守っていた。
さわさわと草が風に揺れる音と虫の鳴き声は、まるでいくつもの楽器が奏でる音色だ。
それは偶然が交差する運命によく似ている。
自分は理解出来ない為に加わることの出来ない話し合いの輪に背中を向け、ウィンブルが消えた草原を眺めると、懐かしさと少しの寂しい気持ちと共に眺め、ひとつの決意と覚悟を決めていた。
まだ太陽こそ見えないものの、空は白く染まり、紅葉がスーと共にキートラの村を出て二回目の朝日がすぐそこまで迫っていた。
つい先程まで五月蝿いくらいに鳴り響いていた虫の声も、今はあまり聞こえてこない。
『「セトゥナ、待たせたな」』
しゃがみ込んで草原を眺めていた紅葉は、名を呼ばれてゆっくりと振り返った。
つい先程まで、ハーナシェルを含めてエフルクと話し合いをしていたラーレディルが、一人で歩み寄ってくる。
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